いまは懐かし かの国での 最初のジュライ・フォース。
でも『今日のツイート』はそれとは関係ないのです。あしからず。
隠れキリシタン歌オラショ「ぐるりようざ」長崎県平戸市生月町壱部集落 https://t.co/BuzDSl9CN4 @YouTubeさんから これか。
— 頻闇を這う[土・東ヤ28b] (@ritsumugura) 2015, 5月 13
今日といってもこのツイートの日付は5月13日。だいぶ前ですね。まずはその理由から。
ことの始まりはオラショでした。
明日の礼拝説教の準備で「おらしょ」のことを思い出したのです。
そして皆川達夫さんが「おらしょ」のルーツを探したエピソードを思い出しました。
オラショとグレゴリオ聖歌とわたくし
キリスト教禁制下の信者が口伝で(かろうじて)保った「おらしょ」ですが、もはや誰もその意味を知らない・・・ということが明日の聖餐礼拝説教に関わっているのです。
(以下は週報からの抜粋・・・当教会の週報には説教要旨が載ります。)
先週もたれた・・・で・・・「聖餐式」のことを学びました。頻度もやり方もまちまち・・・意外と省みられていなかったのが式文でした。ある教会で式文使用をやめた理由は「同じことを繰り返し聞くことに飽きてしまうから」だそうです。(似たような理由で主の祈りや使徒信条が省略されることがあることを別の機会に聞きました。)
聖餐式を一つの「儀式」とみなすことが出来ると思います。そしてそのやり方が教会によってまちまちになる、とは一体どういうことでしょう。
週報では以下のように続きを書いています。
私見ではプロテスタント諸教会の多くは「歴史的教会の伝統」を余り重視していません。主の死を記念、想起して行われる聖餐式は「みえることば」としての実践自体に意義がありますが、式の意義を「解釈することば」にもやはり大事な役割があると思います。「主イエスは、渡される夜」は過越しの食事であったことが福音書で語られています。神の民の贖いが更新する意義を晩餐でのイエスの言葉は示唆していました。「聖餐」式は聖書全体に照らしてその意義が理解される必要があります。式文はその縮小版です。短いですが勝手な解釈を予防するために必要ではないかと思います。
そのことからくる一つの大きな問題が「福音」についての理解が変遷してきたことを自己認識として持っていない、ということです。
その辺の問題をスコット・マクナイは『福音の再発見』で検証しようとしました。
長崎の隠れキリシタンほどではないですが、マクナイトが『救い派』と呼ぶプロテスタント諸教会はイノベーション意識は高いが、伝統意識が薄弱のように見受けられます。
ですから、ぼんやりしていると、カルト化や異端化にさらされやすく、悪く言えば新興宗教団体の域を出ないことがままあるように思います。
長崎のオラショと違い、幸いなことにプロテスタント諸教会の人たちが、「自分たちはいったい何をしているのか(たとえば聖餐式)」を確かめようとすれば、自己理解を助ける聖書があります。
そしてその聖書は誰でもが手に入れられます。
しかしその場合でも「自分たちはいったい何をしているのか」という問題意識がなければ、探求は始まらないでしょう。
オラショの実践者たちは口伝を保持するだけで精一杯であったでしょう。
現代のキリスト者がはたして「福音」の伝承と言うことを強く意識する機会があるでしょうか。
わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、 (Ⅰコリント11:23、新共同訳)
兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。・・・
最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、 (Ⅰコリント15:1,3、新共同訳)
さて、殆どその意義も意味も知らないで「一つのパンから裂き」「一つの杯から飲む」ことをえんえんと続けていられるでしょうか・・・。
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