2011年6月29日水曜日

井の中の蛙

「信仰の他流試合」と言う記事を先日書いたら、「親子別教会という選択」の元記事を書いた「命と性の日記」ブログに『「親子別教会という選択」からの発展記事の紹介』と言う題で紹介された。
このブログで紹介されると何しろ購読者がたくさんいるのであっという間にページ・ビューが跳ね上がることになる。

当方のように毎日のページ・ビューが50を越えるか越えないかと言うプログにはインパクトが大きく、『信仰の他流試合』記事はあっという間に『人気の投稿』のトップ5に躍り出てしまった。

さて、二匹目のどじょうを狙っているわけではないが、ちょっと関連したことを書こうと思う。

過去に「教理と政治歴史的文脈」「非キリスト者による信仰論」「『犠牲』と『贖罪論』の問題性」で東大教授で哲学者の高橋哲哉氏の「信仰理解」「宗教理解」に一定の可能性を感じたことを述べた。

また、先日、「生きる意味:柳澤桂子」でも、非宗教的信仰のあり方を模索している様子を垣間見た。

このように、「福音派」と言う殻で信仰なり、キリスト教なりを考えてきた筆者としては、「信仰の他流試合」で書いたように、自分の信仰を相対化した上で客観視する現代的文脈はどんどん広がっていることを感じている。

暫く前から「宗教間対話(英語では"interfaith"と表現される)」と言うことを思わされるようになってはいたが、ついぞ本腰を入れてこのテーマに手をつける機会を得ないままで来てしまった。

もうそろそろ何か始めなくては、と自問してみて、筆者の弱点として本気に他宗教のことを理解しようとしていないことを思わされた。

てなわけで、飽きっぽい性格なのでどこまで本気なのかは分からないが、先ずは手元に本を置いてみることから始めようと、図書館で本を借りてきた。

宗教の棚を探索しながら、イスラム研究の大家、文明思想家としても「巨人」と呼ばれている井筒俊彦の名前を思い出し、彼の「コーランを読む」(岩波セミナーブックス1)を借り出して読み始めた。

もう一冊は少し本題から外れるが、東大宗教学教授、島薗進の「ポストモダンの新宗教:現代日本の精神状況の底流」(東京堂出版)を借りてきた。

最近50代後半になってとみに思うのは、おつむの働きがかなり緩慢になってきたと言うこと。余り深く考えられなくなってきた。テーマは良いが遅きに失した感があるかもしれないがちょっとでも「信仰の他流試合」の宗教間的文脈、ポストモダン的文脈での思考をしておこうと思う。

そんな中今日はキリスト教の中では異色の立場と言える流れに属する伝道者の方と会話をしてきた。そしてその立場の歴史や人物、キリスト教に関する立場などの話をお聞きしてきた。
ご自身が若い時入信の自覚なく洗礼を受け、その後教会を飛び出し、禅宗や曹洞宗など仏教に入り込んだが「救い」は得られず、たまたま昔買っておいたその流れの著名な人物の本を読むことで現在の信仰的立場に至った経緯も興味深く伺った。


筆者の場合には自己の立場に悩みながら「宗教間」を模索するわけではないが、現代において「福音派対リベラル」のような内輪の対立を唯一の信仰の対立軸とするような視野狭窄を卒業し、少しでも広い視野で「信仰」の問題を深められるようになりたいと・・・。

まーちょっとそんなことを感じている今日この頃です。

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