2010年10月29日金曜日

教理と政治歴史的文脈

最近読み出した、「松ちゃんの教室 ブログ」の10月28日エントリーが興味深かった。

「犠牲の論理」に警鐘と言うエントリー題で、

『殉教と殉国と信仰と』  高橋哲哉・菱木政晴・森一弘著  (白澤社発行・現代書館発売、1680円)

と言う本の、出版記念講演会の報告がなされている。
文章は短いが講演会の内容、そして質疑応答の様子も伺える。

筆者には講演者の高橋哲哉氏の名前は初耳なのだが、どうやら「靖国神社」に関する本で論壇に登場し、その後も政治的な発言、行動も行っている学者さんらしい。

殉教と殉国の類似性から、聖書の記述やキリスト教教理が、国家の戦争行為と言う政治的目的に援用された、あるいは援用される可能性がある、と言う関連の発言が幾つかなされたようである。

筆者が一番驚いたのは、
 講演の冒頭、イエスの十字架上の死を贖罪の犠牲としてとらえることに疑問を呈した同氏の主張に対して、「贖罪論はキリスト教信仰の核心だから譲れない」 との反響があったことを紹介し、「欧米の神学者の間にも批判的な議論が存在してきた。贖罪論なしに信仰が成り立たないかどうかは、もはや自明のことではな い」と反論。
と言う部分。(アンダーラインは筆者)

これはかなり踏み込んだ意見だと思う。

神学者間で「贖罪論」のキリスト教教義的中心性が議論されることは構わない。
(筆者の狭い知見では、「贖罪論」丸ごとそっくり不必要だ、と言うような議論は余り聞いたことがない。「贖罪論」の様態や構成要素のある部分が不適切であるとか、中心ではないとかの議論はよく耳にするが・・・。)

しかし、政治的な文脈で「イエス・キリストの死に贖罪的犠牲の意味があるかどうか」を云々することは、過去の政治的文脈での援用の事実を鑑みても、「政治学者(?)」の域を逸脱しているのではないか。

聖書(また教理)の援用・悪用は色々な時代の色々な問題にあった。(例えば奴隷制、あるいはこの前のポストで書いた「エコロジーと聖書的人間観の問題」、等々)
しかし、聖書の教理的解釈に政治的含意まで含めて問題にしなければならない、とも取れる提案は一つのポストモダン的聖書解釈の問題性にも繋がるものではないか。

聖書釈義の基本は、宗教改革者の原則で言えば、「聖書記者の意図した意味」であって、即ちその時代・文化の意味地平が「解釈の一定の巾」を提供する。
勿論、聖書は今を生きる者にも意味を持つものとならなければならない。
しかしそれは「読者」の「関心」を無原則に聖書テキストに読み込むことを容認するものではないと思う。

高橋氏はそこまでの提案をしているのではないにしても、「信仰者の解釈」を超えてまで、テキストの意味を政治的に方向付けようとすることは勇み足と言わねばならないのではないか。
これは聖書と言う文書が宗教者、非宗教者を問わず共有されている文書であり、不特定の聖書読者のテキスト解釈を制限しようと言う意図ではない。

松ちゃんの報告には、まだ幾つか示唆的な解釈問題が含まれているが、筆者としてはこのポストに取り上げるのは「贖罪論」云々までにしておく。

先日「公共政策と神学」と言うポストを書いたが、「松ちゃんの報告」で、キリスト教信仰に関連すること、しかも中心教義までもが、政治と言う「公共の文脈」で解釈される、あるいは「公共に提供する意味合い」を持つことを改めて考えさせられた。

筆者の属する「ホーリネス派」は第二次大戦中牧師たちが多く検挙されたが、治安維持法で検挙されるまで、キリスト教教理の政治的文脈性に殆ど気付いていなかった。
日本国家においてキリスト者は政治的にも少数者である。
が、少数者だからと言って政治的無関心であってはならないと思う。
本来のキリストの福音は「政治的含意」を濃く持っていたことを改めて考えてみたい。

※上掲書の書評(「追悼と顕彰は別のもの」松村由利子 歌人)を参考にされると少し内容が分かりやすくなるだろう。)

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