2011年6月6日月曜日

もしこのブログが非公開だったら

このブログを始めて11ヶ月が過ぎた。
ブログは個人のダイアリーのようなもので、非公開に出来るし公開して不特定多数の読者にも読んでもらうことができる。
筆者は最初から「大和郷にある教会」とタイトルを付けてしまったので、個人的な側面は余り考えていなかった。
ツィッターを始めたのでその翌日勢いに任せてブログも始めてしまったのだ。

当初の意図はツイッターもブログも「教会の伝道」ツールのようなイメージで考えていた。
多少その線で頑張っていた時期があったが、公開ブログを継続して読んで貰うためには更新が欠かせない。
多少なりふり構わず「ネタ」を探して書いているうちに、いつしか牧師の個人的雑感のようなブログになってしまった。
そのこと自体はそれほど悪いこととは思っていないが、それならばブログのタイトルもしかるべく改名すべきなのだろうがそのままにしてある。

牧師と言ってもいろいろで、筆者が普段読んでいる「牧師のブログ」を書いている牧師たちはなかなか関心が広い方が多いようである。
うらやましい限りである。
こちらは引き出しが少ないので「ネタ」につまってしまう。
頑張ってもどっちみち聖書や神学関係が多くなってしまうのだ。

そんな時「非公開ブログ」であったらもっと自由に書けるであろうに・・・と夢想する。
別に自由に書きたいことを書けばよいではないか、と言われても筆者は余り器用に書き分けられない。
いや器用に書き分ける、と言うのがあるいはおかしなことなのかもしれない。
でも筆者の場合は説教でもそうなのだが個人的なエピソードを余り持ち込まない、いや持ち込めない方なのだ。
だから「非公開ブログ」であっても恐らくそれ程は自分をひけらかすと言うか、自分の心の中をつまびらかにすることはしないであろうと想像する。

一日の中で様々な想念、情念、記憶のフラッシュバックなど、もし書き付けようと思えばいくらでもあるはずである。
しかしそれを何かに書き付けると言うことは取捨選択のフィルターがかかってしまい、どうしても内容が抑制されてしまうのである。

読むのは楽だが書くのは苦痛だ、とはそんなことも関係しているだろう。

ジェンダーと言う語があるが、自分の心の赴くままに語れるのは女性の方が得意なのではないだろうか、とよく思ったりする。
男性は、と言うと妙にプライドや「沽券」に引きずられ、表現が抑制されたり慎重な物言いになってしまったりするのではなかろうか。
そんな肩肘張った物言いから解放され、あっけらかんと物を書けたらどれほど楽だろうに、などと勝手に思ったりする。
そうすれば書いたそばから(記事を公開した後から)あれは書かなきゃ良かった、とか、あの部分の発言はもうちょっと内容をチェックしてからにしておけば良かった、とか、未練がましい思いをしないで済むのに、と思ったりする。

さて、今日は「ネタ」なしにいくらか自由に書くことが出来た。
別に何ということは無い戯言だ。

これで記事になるかどうかは読者の判断にお任せしよう。

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