2011年6月16日木曜日

生きる意味:柳澤桂子

柳澤桂子の「いのちの日記ーー神の前に、神とともに、神なしに生きる」(小学館、2005)を読み終えた。
その感想を書こうと思う。

柳澤桂子(ウィキ)の名前は耳に入っていたが、ついぞちゃんと読んだことはなかった。
新聞コラムでも度々お目にかかったはずだが、記憶に残るような読み方はしていなかったらしい。

実はこの本を求めて読んだわけではなかった。
読みたかったのは「いのちと放射能」の方であった。

3.11原発事故後ネットで色々読む中、あるブログ記事「毎日新聞が『脱原発』へ転換&柳澤桂子『いのちと放射能』」(気まぐれな日々)でこの本が紹介されていたので読みたくなったのだ。

その後暫く経ってようやく近くの図書館に仮予約を入れてみたら、案の定先に予約している人が四人もいた。で、この本はあきらめ、同著者の他の本を検索しているうちに興味を引いたのが「いのちの日記」であった。
もちろん目を引いたのは副題の「神の前に、神とともに、神なしに生きる」だった。彼女の宗教観、信仰観については全く知識がなかったのでミステリアスに響いたのだった。迂闊にもその副題がディートリック・ボンヘッファーからの引用だとは本を読むまで気が付かなかった。

まえがきに「しかし、私の半生を貫いて宗教観を述べた個人的“通史”といえるものは、本書がはじめてである。」とあるように、主に病の中を通して探索、思索した「宗教・信仰」の履歴と言える。

そのすぐ後「科学と宗教は、ものごとの両極端にあるようにいわれるが、私はそうではないと思っている。決して別のものではない。宗教も科学と同じように、人間の脳の中の営みである。いずれ科学がすべてをあきらかにするであろう。」と書かれているように、人類が達した宗教的叡智を科学的知見と紡ぎ合わせながら書き綴っていく。

引き続く病の中で柳澤さんは元薬師寺管長の橋本凝胤師の「人間の生きがいとは何か」を手にして読み始める。その時の『神秘体験』をこう綴っている。
 白く浮かび上がった障子を眺めていた私は、突然明るい炎に包まれた。熱くはなかった。ぐるぐると渦巻いて、一瞬意識がなくなった。気がついてみると、それまでの惨めな気持ちは打ち払われ、目の前に光り輝く一本の道が見える。
私は何か大きなものにふわりと柔らかく抱きかかえられるのを感じた。その道はどこへ行くのか分からなかったが、それを進めばよいことだけははっきりわかった。
しかし柳澤さんはこの神秘体験を仏教でも他の宗教的伝統でもなく、科学的な枠組みで説明しようとする。
 一般に、動物が強いストレスにさらされたときに、脳内快感物質が出るということは十分に考えられることである。たくさんの快感物質が出たときに、岸本氏の挙げているような感覚が生じても不思議ではない。神経の過度の緊張は、火となって感じられる可能性がある。
従って、「神秘体験」は、神秘ではなく、科学で十分に説明のつく現象であろうと私は考える。いわゆる宗教的な奇蹟体験の事例についても、おなじようなことが考えられる。
しかし柳澤さんの探求は病の進行とともに深くなっていく。
それは「教会の日曜礼拝に行って、牧師さんのお話を聞くような宗教」でも、「法事や年中行事で仏壇やお墓にお経をあげていただけば気がすむような宗教」でもなく、「深い宗教」であり、これは個人的に思索、探索するしかないと結論なさった。

そして手にしたのがエックハルトの「神の慰めの書」や暁烏敏(あけがらすはや)の「歎異抄講話」だったという。

柳澤さんの探索はさらに「般若心経」や深層心理学を経て「リアリティー」を一元的に捉える「心」の構造、宗教的に言えば「悟り」へと進む。 それをこんな風に表現している。

 宗教学では、このように信仰が進化すると言う考えは否定されているようだが、生物学的、進化学的に見ると、この仮説は捨てがたいものである。私自身は、人格神や特定宗派の教義にこだわらない信仰の形がありうると信じている。
しかし、アリエティやウィルバーが述べているように、私たちは「一次過程」の認識にもどるのではない。「二次過程」の認識を超越して、よりスピリチュアル(霊的)な精神作用を生み出す「三次過程」の認識に進化しなければならない。
もはや特定の宗派や教祖に頼っても必ずしも救いが得られるわけではない・・・・・・そんな“神なき時代”において、「悟り」という至高体験を得られる境地にたどり着くためには、私たち自身の力で、自らの心を耕し続けるしかない。たとえば読書をし、思索を深め、音楽や絵画などの優れた芸術作品に数多く触れることも大切だろう。
このような思索の流れの中で柳澤さんはボンヘッファーに出会い、「神なしの信仰のありよう」を彼の著作の中で共感を持って取り入れるようになる。
副題の「神の前に、神とともに、神なしに生きる」という部分を『獄中書簡集』の中から紹介している。
道徳学的・政治学的・自然学的な作業仮説としての神は、廃棄され、克服された。だが、哲学的・宗教的な作業仮説としての神も同様だ(フォイエルバッハ!)。これらの作業仮説を倒れるにまかせ、あるいは、とにかく可能な限り広くこれらを排除することは、知的誠実さの一つなのだ。(アンダーラインは筆者)
 これを柳澤さんはボンヘッファーが、「苦しみぬいて、イエスから脱出した。」と捉えている。そしてこうまとめている。
 再奪還されたボンヘッファーの内なる神は、苛烈な運命に翻弄される我が身の無力さを許し、不運につきまとう嘆き、呪い、絶望から救ってくれたにちがいない。内なる神からの癒し・救済によって、罪悪感と悔恨に満ちた自分を認め、許すすべを身につけること。そして得られる、病や老いや死などの運命と向かい合い、穏やかに折り合いをつけて生きていくための、こころの成熟
それは、限りあるいのちを生きるものにとって、最善の知恵なのかもしれない。絶対神に依存しないで、おのれの心の中に、自分を救い、自分を許し、いのちの再生を果たしてくれる存在を見出した偉大なる思索。ボンヘッファーの逆説を、私はそういうふうに理解したい。(アンダーラインは筆者)
 筆者の感覚ではこれはやはり柳澤さんの「神なき時代」を生きる者のための「最善の知恵」としての「スピリチュアリティー」の形なのだと思う。そのような形にボンヘッファーの非常にコントロバーシャルな一節を多少強引に解釈したものと考える。
ボンヘッファー解釈としては面白い部分もあるが、彼の思想全体の中で実証するのはかなり困難だというのが筆者の印象である。
(彼の獄中書簡はそれまでの神学的著作と違いかなりオープンな、解釈が多様な思索の発露であることは確かだ。しかしだからと言ってボンヘッファーが獄中という極限状況の中で柳澤さんの言うような「イエスから抜け出る」ほどの離れ業をやってのけたとは筆者には想像つかない。)


柳澤さんの「深い宗教」は、以前取り上げた高橋哲哉氏他の『殉教と殉国と信仰と』に関して述べた記事(これこれこれ)でも感じたことだが、大衆の宗教的必要をカバーする既成宗教とは距離を置いた、個人的に信仰のあり方を掘り下げ、純化しようとする「知識人の宗教的アプローチ」に通じているように思う。
筆者の勘では「非宗教的な信仰」の模索は今後より広く浸透していくだろうが、大衆的なというか既成宗教はそれと並行して維持されていくものと予想している。

とまあ引用が多く感想は少なかったが、興味深く読ませていただいたことは確かだ。

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