2011年6月22日水曜日

信仰の他流試合

いつものように定期巡回しているブログの一つ、「一キリスト者からのメッセージ」を読んでいた。
今日の記事はいやに長いなーと思いながら、いつものようにお得意の映画評論を絡めて書いているなー、と文章を読んでいた。ところが最後になって、
そういえば、いつも楽しく拝見させていただいている大和郷の教会の小嶋先生は、3世代目だそうであるが、http://sugamo-seisen.blogspot.com/2010/08/blog-post_22.html
この他の教会に行く、という選択について、どうお考えなのか、お考えをお伺いしたい気もします、とおねだりしてみようか、と思うミーちゃんはーちゃんなのでした。
とあったので一瞬虚を衝かれ、慌ててしまった。

「罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ」と題されたその記事は、「クリスチャン二世の信仰形成」あるいは「信仰継承」の問題をクリスチャンホームや教会という環境要因の面からどう捉えるか、ということを考察する文章であるように思う。

この考察は一部「命と性の日記」ブログのシリーズ記事
「親子別教会という選択肢」(1)
「親子別教会という選択肢」(2)
「親子別教会という選択肢」(3)
に触発されてのものでもあるので、その問題意識、問題提起を意識しながら以下に思いついたことを書いてみようと思う。

「命と性の日記」ブログのシリーズ記事の方は、二~三世代同一教会に通う「クリスチャンホーム」が一見理想的に見えるようで、子供の信仰的、人格的自立を阻む要素もあるのではないか。その視点から敢えて「親子別教会」という選択肢があるのではないか、と問題提起し、その具体的選択肢を幾つか提案している記事、と読んだ。

筆者の個人的経験の範囲では「信仰継承」の課題は、青少年の「救いの確立」という形で筆者の教会グループ指導層が取り組んだ経緯がある。
筆者が育った教会グループの青少年たちは、殆んどがクリスチャン二世で、青少年時に回心してクリスチャンになった者はごくごく少数であった。
だから「救いの確立」の問題とは、「回心したんだかどうかあやふやな青少年」たちに自分の救いを自覚できるようなよりピンポイントな教育、指導をすることであったように思う。

と言うのも筆者だけではないと思うが、多かれ少なかれ「罪」と「悔い改め」そして「イエス・キリストの十字架の死による赦し」は子供の頃から叩き込まれてきたのであり、ただそれが親主導の信仰ではなく、主体的な、自立した信仰になるように、と言うのが指導層の願いであった。
筆者のグループはそれを「親子別教会」と言うような形でではなく、グループ全体の青少年伝道事業として、セミナーやキャンプのプログラムを通して具体化したのだった。

このような試みはその後青年たちが自主的に青少年セミナーを企画・運営するような形で進展し、「信仰の自立」と言う課題に対し一定の成果を挙げた、と言うことができると思う。言ってみれば「hi・b.a.」(超教派高校生伝道団体)」やKGK(キリスト者学生会)のような働きをグループ内で自前でやっていたような気がする。

と、ここまでは「命と性の日記」ブログのシリーズ記事が言及している範囲での「信仰の自立」問題であると思う。

しかし「一キリスト者からのメッセージ」ブログの方は、実はもうちょっと欲張りな「信仰継承」「信仰の自立」問題を提起しているのではないかと思う。

その部分を端的に表す部分をちょっと長くなるが二箇所引用してみよう。
多様なキリスト者集団があり、それぞれ、独特なパターンがあるという認識を持つため、そして、自らの信仰の姿を見直すという意味で、信仰者の短期及び長期留学制度としての、親子での別教会という選択は、一つの考え方ではないか、と思う。もし、子供がそのことを望むのであれば、親としては、教会内での立場があったとしても、結果としての信仰の幅、人間としての幅をつける機会として、信仰者の短期留学制度としての別教会というのはあってよいと思う。いずれ、子供は独立する時期がくるのである。そのための親の練習としても、そのような機会はあってよいのではないか、と思う。自派だけが『正しい』キリスト教だ、という思い込みがどこかキリスト教会に集まる人々の中にないだろうか。あるいは、自派が正しいことだ、と思い込んでいることに対する反省をさせるためにも、他の教会という環境にあえて触れさせてみることも、キリスト者教育だと思うのですけれども。
このような観点からも、信仰継承問題と親子別教会の問題を考えることは重要かもしれない。そもそも、信仰継承問題とは、イエスがキリストあるいはメシアであるということに対する信仰の継承問題であり、自派の信仰理解の継承という狭い基準についての問題ではないはずである。キリスト者2世が、イエスはキリストであるということを認め得れば、カトリック教会に行っていようが、ギリシア正教会であろうが、プロテスタントのどのグループに行っていようが、信仰は継承されたと、ミーちゃんはーちゃんは思うのですけど、あまりにエキュメニカルすぎるかなぁ。
このようにこの記事の標題にも使ったが「信仰の他流試合」をして自分の信仰的基盤を形成した教会文化を客観視させる機会として「信仰継承問題と親子別教会の問題」が考察されている。

筆者の個人的な体験に照らし合わせると、「自覚的な救いの信仰」を確立させたのは筆者が20才の時であった。しかしそれは自分が育った教会文化(敢えて最近筆者が使用する言葉で言えば「大衆的福音派信仰理解」)の中での自立であり、その文化内での通過儀礼に過ぎない面があることをその後の在米留学経験、及び牧師になってからの福音理解の深化から反省的に言うことができる。

筆者は全部で4校、11年に及ぶ在米留学経験を持つ。一番最初の学校はバイブルベルトにあるかなり保守的な聖書学校。次は同じ州にあったこれも福音主義と言う共通基盤を持つがその中では保守的な傾向の強い神学校。そして次は東部エスタブリッシュメントの老舗神学校で、もはや「福音派かリベラルか」と言う線引き問題には一定の距離を持っていた。そして最後の学校はプロテスタント(ルーテル派、長老派、バプテスト、聖公会、ユニテリアン、など)、カトリック修道会(イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会)、仏教研修所(浄土真宗だったかな?)などが連携した、超リベラルとも、超エキュメニカルとも形容してもいい神学校だった。

言ってみれば右から左までのかなり広い幅の神学的背景の中で勉学してきたわけである。
その間最初は自己の信仰的あり方、福音理解、神学理解を断固維持しようとがんばっていた時もあったが、次第に良い意味で自己の立場を相対化しながら、自分とは違う立場や考え方の人からも学ぶことが出来ることを習得するようになった。

さて話を「人格的自立」と「個人的信仰の確立」に戻してみると、「親子別教会と言う選択肢」は自覚的選択である場合と言っても、摂理的(人間関係や社会的)要因など色々あると思う。
別教会が選択が可能な都市部とそうでない地域の問題も指摘されていた。

筆者がこれに加えて懸念材料とするのは信仰や礼拝形式等に対する「世代間ギャップ」の問題である。
「選択肢」と言うと聞こえはいいが、大衆消費社会の中では自分の感性に合った「礼拝音楽や説教スタイル」を選ぶ消費者行動的な基準で教会を選択する可能性もある、と言う点。

もう一つの懸念は既に北米などで明らかになってきているように、従来の福音派が抱合する「キリスト教」の枠組みに満足できない若い世代のキリスト者たちが、「進化論」の扱い方、「ホモセクシャリティーに対する態度」、「社会正義の問題や環境問題との取り組み」などで、親世代教会から離れ、制度的にもよりゆるい、コミュニタリアンなクリスチャン・グループ形成をしている傾向である。
イマージェントと呼ばれるこの運動は、一時的「親子別教会」ではなく、親世代教会文化に対するカウンター文化的な運動と位置づけることが出来る。

以上まとまらない文章を書いてきてしまったが、「信仰継承」を目指した「自立」支援でも、「イエスはキリスト」と言う神学的問題の枠で収まりきらない様々な政治的・社会的・倫理的問題での意見や立場の対立・分離に発展する可能性があることを指摘しておきたい。

子世代が信仰的に自立する時、親世代とは広範な分野で異なるライフスタイルや政治的、思想的立場を取る様になり、それが世代間での「キリスト教理解」に大きな溝を作ることが予見される。
この世代間ギャップは現在の北米福音派内における深刻な対立の縮図と見ることも出来よう。

日本の福音派においては未だ若い世代の親世代教会文化に対するチャレンジのような動きは露見していないようだが、もしそのような形で発展した場合「親子別教会という選択肢」の新たな、そして文化的対立と言う問題を含んだ局面を迎えることになるのだろう。

(※「みーちゃんはーちゃん」様、果たしてご期待に沿った返答になったでしょうか。それともピンボケになったでしょうか・・・。何か考えていたことに共鳴する部分があったらそれでよしとご勘弁ください。)

1 件のコメント:

  1. ミーちゃんはーちゃんでございます。

    丁寧なコメント、本文としてお返しいただき、ありがとうございました。実は、集会中に爆睡しつづけた私自身の問題と、それを現実に再現しているわが子供らの信仰の確立の問題が、いまのところ個人的にかなり真面目に考えており、その面で、親として、キリスト教会にかかわるものとして、どのように考えるか、大変参考になりました。

    なるほど、指導者層の働きかけがあり、それが自立グループにつながっていったとのご指摘、なるほど、と感じたとともに、そのような多様な人々が教会内にそろっている、というのは、非常に良い環境だったとは存じます。我が家の子供たちは、教会内に我が家の子供たちの同世代の子供がいない世界なので、どうしても、このような子供たちの共同体、という機会が限られるので、何とかしてやりたいなぁ、と思っております。

    同世代の同じような環境にある子供同士の交流、という機会をとらえて、参加するようにしていますが、普段の定期的な活動として、そのようなものがあるといいなぁ、とは思います。第2世代以降のキリスト者としてのコミュニティの問題を考えることは重要かもしれないなぁ、と思っているのです。

    短期留学としての他派の教会に行くことは、私自身がそのことを通して、自分の信仰と様々な聖書理解を相対化するきっかけになったので、早い段階で、子供たちにはできれば体験させたいなぁ、とは思います。

    ご指摘いただいた、最後の部分について、少し考えております。
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    子世代が信仰的に自立する時、親世代とは広範な分野で異なるライフスタイルや政治的、思想的立場を取る様になり、それが世代間での「キリスト教理解」に大きな溝を作ることが予見される。
    この世代間ギャップは現在の北米福音派内における深刻な対立の縮図と見ることも出来よう。
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    私個人としては、世代間でのキリスト教理解が教会内に大きな溝を作るということについて、今、考えています。そうであっても、自派内に内在化させるスタイル(カトリックの方々は、カトリックであるがゆえに、そのような部分があると思いますが)もあり得るのではないか、と思うのですが、同一の聖書理解にこだわり、それを堅持する方針が続く場合、プロテスタント系教会の分裂の歴史にもみられるように、おそらく内在化できずに、多様な少人数のキリスト者集団(教会)ができていくのかなぁ、と思います。アメリカで起きている動きは、このような動きと思います。

    このあたりの包摂(キリスト者としての一体の概念)と不幸で不用意な分離の問題を防止するという意味でも、短期留学で、ある程度自分自身の信仰の相対化ができれば、結局他と分離したところで、それほど違わないのであれば、まぁ、いまのところのままでもいいか、という判断になるのではないか、という理解に至るのではないか、とも思います。一時的に他の教会に短期留学することで、そのような理解にならないかなぁ、とうっすらと期待しています。

    このあたり、どの程度まで、文化的な対立は対立として受け入れたままで、教会としてのコミュニティの維持・発展が可能か、という割と大きなチャレンジに教会が直面するとは思いますが、そうであってもコミュニティを対話的に維持することをどう考えていくのか、ということが重要なのかなぁ、と思っています。

    実は、このような形で、小嶋先生との交流をいただいていることは、私にとって、あまり気楽に他の教会に出ることができない以上、自派に留まりながらも自己の信仰を相対化するという機会ともなっているので、本当に楽しく、そして重要な機会になっております。

    本当にご丁寧なご回答、ありがとうございました。大変参考になりました。こころから御礼申し上げます。

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