2016年10月16日日曜日

(4)主に神学ブログ⑩

[2016/10/22 追記あり]

最近更新がめっきり減った。

JCE6(第6回日本伝道会議)での「N.T.ライトの義認論」という神学ディベートに準備段階も含めてほぼ半年関わったので、そちらの方のアウトプットで一杯であった。現在は休養中の感じである。

最初に「主に神学ブログ」を久々に更新するにあたっての簡単な説明の前に、更新きっかけとなったツイートから紹介して「イントロっぽく」始めることにする。

「へー(このツイートの主は)誰だろう」から、始まった。

「横レス(横からレスポンス)で聞いてみようか」
「DM(ダイレクト・メッセージ)で聞いてみようか」

・・・としばらく「誰なのか」サーチしてみたら案外早く見つかった。
神谷光信 (かみや・みつのぶ)
関東学院大学キリスト教と文化研究所客員研究員。
1960年、横浜生。修士(学術)。
専攻: 日本近代文学
と以上のプロフィールがあるブログ、
フォントネー研究院 (本のある生活)
が今回紹介する「主に神学ブログ」である。

このシリーズの過去記事①~⑧はこの記事にまとめてある。
最新⑨はこれ。(2015年6月28日)
専門から言って「主に神学」ではないわけだが、『キリスト教』で記事の数を見るとかなり書き溜めたようである。

筆者の興味で幾つか目を通したものを挙げてみる。

1. 信仰にとって、何が本質か

 「・・・洗礼の有無にかかわらず、神は、私を見ておられるであろう。私がキリスト者であるかどうかは、おそらく私が決めることではない。」

 日本の歴史的環境下、隠れキリシタンや無教会の伝統があるので、このような信仰論に類似か関連のある論考はこのブログでも幾つか取り上げた。

 ・「非キリスト者による信仰論
 ・「生きる意味: 柳澤桂子
 ・「若松英輔『イエス伝』
 ・「『霊性』を神学する」シリーズ(1234

2. 加藤圭氏の論文「史的イエスの第三研究、その輪郭と妥当性」

 キリスト教信仰にとって「歴史は(そして史的イエスは)避けられない」こと、むしろ信仰構造的には歴史を避けることはグノーシス化することを指摘している、と云う点に共感なさっておられるようだ。

 加藤氏の論文がどのような研究と対話しているか分からないが、N.T.ライトを「史的イエス第三探求の旗手の一人」と紹介している筆者としては、カトリックの方では「史的イエス研究」に悲観的な岩島忠彦教授に対して好意的な見方を紹介しているものとして読んだ。

3. カトリック知識人の存在感

 戦前の岩下荘一以下、日本でマイノリティーのキリスト教知識人が論客として存在感を示していたのに、現在(2008年)70歳以下くらいで殆どカトリック論客がいないことを嘆いている。


さて神谷さんが加藤周一の「キリスト教信仰」についてどんな論考をするのだろうか・・・。

[2016/10/22 追記]

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