今回はちょっと休憩して久しぶりに「主に神学ブログ」をやってみたい。
こちらは1~10まで連載が終わっている。
念のために「1~8」までは、(2)主に神学ブログ まとめと展望で紹介している。
その後、「9」と「10」までアップした。
今回ほぼ2年ぶりの「主に神学ブログ」記事となるわけだ。
神父の放言
言いっぱなし。そんな風に気楽に語りたいもんじゃ。
とあるようにカトリックの神父の方のブログである。
アーカイブを見ると「2012年3月」から「2015年8月」となっていて既に終了したブログのようだ。
ブログ主の語り口にあるように、すでに引退したので後は(カトリックだけでなく)キリスト教界について言いたい放題語ろう、という趣旨らしい。
たまたま今日発見して10個くらい選んで読んでみた。
さすがベテラン神父、もうしがらみも余りなく、自由闊達にトピックを選んで語っている。
充分知らないことも、慎重にならず、自分の言いたいことをストレートに語っている。
そう言う書き方なので読んでいて肩が凝らない。
気軽に読める。
しかしなかなか啓発に富んだ放言にはしばしば頷かされる。
福音派の躍進
カトリックの神父たちの中に「聖書学」が浸透してくるにつれ、批評学による懐疑主義の影響が大きくなり、そのことに反発を覚えているようだ。でこんな風に言っている。
福音派の人たちはそんな神学などお構いなしだろう。聖書内の疑問は、聖書内の記述の中で解決する。基本的にはそれでいい気がする。それが昔からの解釈のはずだった。バブル神学の崩壊、2
信じきっているがゆえに、聖書から得る力も喜びも大きい。信じるので神からの返事も大きいだろう。私にはそのように見える。
やはり懐疑主義的聖書批評学の問題を取り上げているが、このように釘を刺している。
聖書学はバランスが必要だ。バランスを取り戻せばよいものになるだろう。また、聖書を信じることなしに、聖書学は成り立たない。創作説というのはけっこう疑いや不信から成り立っている。創作説に安易に道を譲るのは、聖書に対する態度として間違っていないか。聖書を信じて読んだ結果、いろんな矛盾や疑いが出てくる、それを解決するのが聖書学のはずだ。創作説に道を譲りすぎるように私に見えるのが現代聖書学の趨勢だ。興味深いキリスト教新興宗教 「キリストの幕屋」
変わったものでは幕屋について書いているこの記事。全体に異端とか皆から眉をひそめられたりしているキリスト教グループに対しおおらかな態度で評している。
幕屋についてはこんな感じ。
大和魂、他宗教への敬意、ユダヤへの着目は、大変興味深い。これらはややもすると、キリスト教徒が敬遠しなければならないものと考える人が多いんじゃなかろうか。とりわけ日本では、前者2つは必要だとわたしは思う。手島氏は心から大和魂と他宗教を愛している。それはビンビンと伝わってくる。これがなければキリスト教は日本には根付かないと思われる。本物にもならないと思う。
恐らくもう帰天された神父の方なのだろうと思う。別に著書を出すこともなく、地道に伝道牧会された方なのだろうと推察するが・・・。
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