2017年7月27日木曜日

(5)義認論ノート、3

今回3回目になりますが、一応の繋がりで言えば「救いについての『教理』」が発端みたいなものになります。

そこでも言及していますが、N.T.ライト読書会ブログに連載している「Salvation By Allegiance Alone」(現在5回まで終えています) の書評紹介と並行して「義認論ノート」を進めています。

つまり、大きく括れば「救済論」(組織神学でいう「救いの教理」のこと)関連のことをいろいろ書いているわけです。


さて「義認論ノート、2」の終わりのところに「今後の展望」として二つのことを挙げました。
(1)救済論(特に『救いの順序(オルド・サリューティス)』の問題)
(2)教会論(特に制度的教会論に対するアレルギー的反応というか、その蓄積でいわば福音派教会論が弱体化したという問題)
というわけで今回はこの「救済論」との関連で「義認論」について少し書いてみたいと思います。

もう既に頭の中が混乱している方も多いと思いますが、この「○○論」がいろいろ出てくると面倒くさく感じるのは誰でもそうかと思います。

しかし話の整理上やはり使わざるを得ない!! ご勘弁ください。

(1)義認(論)と『救いの順序(オルド・サリューティス)』の関係

さて、残念ながらネット上にキリスト教神学専門用語である『救いの順序』の(日本語)解説は余りないみたいです。ウィキペディア記事 では改革派神学とその修正版とも言えるアルミニアン神学の「二つの流れ」、として短く解説されていますが。)

その少数あるうちのものでも「義認論」に絡めて、しかもその問題点について指摘するようなものは見当たりません。

ですのでごく簡単に「義認論と『救いの順序』とはどういう関係にあるのか」を説明し、それから「なぜ義認論にとって『救いの順序』は問題なのか」を述べて行きたいと思います。


「義認」については新約聖書の言葉でもあり、それ以後教会史においても重要な神学概念であったことは明らかだと思います。

(筆者の関連で言えば、拙訳N.T.ライト『義認』があります。ライトの指摘によれば新約聖書の「義認」概念からある意味逸脱してその後の教会史における神学的展開があります。あのアリスター・マグラスの『義認の教理』もこのライトの指摘を受けて書かれている部分があります。)

しかし大雑把に言って、宗教改革時に神学論争で「救済論」が際立って注目を集めるまで、教会の神学の中心は、歴史的に言えば、「三位一体論」「キリスト論(キリストの人格とわざ)」を中心にたどってきているように思います。

中世における贖罪論(atonement)も、神と世界との和解(贖い)が成立する根拠としての「キリスト」論、特に「受肉論」に沿って(特に東方神学で)展開してきたように思います。

義認論と一番関連がありそうな「司法概念枠組を取り込んだ贖罪論の諸説(身代金説、満足説)」も、「受肉論」があまり説明しなかった「贖いの手段(としてのキリストの犠牲的死)」に焦点を当てる補完的なものと位置づけることが出来るのではないかと思います。
For while many of their utterances might seem to imply that the Redemption was actually accomplished by the union of a Divine Person with the human nature, it is clear from other passages that they do not lose sight of the atoning sacrifice. The Incarnation is, indeed, the source and the foundation of the Atonement, and these profound thinkers have, so to say, grasped the cause and its effects as one vast whole. Hence they look on to the result before staying to consider the means by which it was accomplished.
つまり宗教改革時までは「(罪ある)人は如何にして救われるか」は「神学の中心問題」ではなかったと言えるのではないかと思います

ルターの個人史的側面(実存的問題としての深まり)の影響もあるでしょうが、義認の問題は単に教理上の進展としてではなく、極めて実際的救いの問題として焦点が当てられることになったという風に言えるのではないかと思います。
一昨年の福音主義神学会での鈴木講演の指摘にあるように、 「義認論は罪認識の深刻さを前提にしており、罪認識の深刻さに対応する教理」ということ。つまり宗教改革者(ルター、カルヴィン)は「原罪」を重んじた「急進的アウグスチヌス主義者」であった、ということにも繋がることかと思います。

ある意味「救い」という問題を軸にして、神学は「神についての学問」であることから「人についての学問」へと大きく回転した、とそう言う側面があるのではないかと思います。(後にバルトがこの強調を「人間論(anthropology)」として批判することになります。) 

この「人間論的展開」として見ることが出来るのが、宗教改革後のプロテスタント神学で救済論が『救いの順序(オルド・サリューティス)』として整えられていった経緯ではないかと思います。

義認論について言えば(詳細は後述)、ルター、カルヴィン以降の救済論が「義認の段階」も含め、「人はいかにして救いに与り、かつ救いの完成に向かって段階的に進んでいくか」 という『救いの順序(オルド・サリューティス)』構築に組み込まれて行くことになります。

換言すれば、「個人の救いの完成」という視点から構築される『救いの順序(オルド・サリューティス)』救済論は、客観的な救いのわざとしてのキリスト論 から、「自分はいま救いの完成過程のどこに位置するのか」という主観的な問題関心 に方向転換した、と言えるのではないかと思います。

※この救済論をめぐる「大きな展開」は、スコット・マクナイト『福音の再発見』で跡付けようとした 《福音の文化》が《救いの文化》に飲み込まれる過程 とほぼ並行するものと言っていいかと思います。(その①その②


(2)なぜ義認論にとって『救いの順序』は問題なのか



このポイントが昨年9月の「N.T.ライトの義認論」(日本伝道会議分科会)の時発表した、後半部《ライトの義認論の応用》として挙げた二つのうちの一つです。(確か時間がなくてこのポイントについては殆ど言及できなかったと思います。)

ここではまず(筆者の目から見て)重要な論文を紹介します。論文のタイトルがそのものズバリです。

A. T. B. McGowan, "Justification and the ordo salutis," in Bruce L. McCormack ed., Justification in Perspective: Historical Developments and Contemporary Challenges. (2006, Baker Academic).


この本はNPPによって(宗教改革以来の)伝統的な義認論が大きく見直しを迫られている状況で出されたかなりコンプリヘンシブな論文集です。ライトの論文、New Perspectives on Paul (http://ntwrightpage.com/Wright_New_Perspectives.htm) も収められています。
「N.T.ライトの義認論」発題1 資料で使った引用はこの論文からです。

(本文が100%同一かどうか確認はしていませんが、幸いなことにマクゴーワンの同タイトル論文がダウンロードできます。この論文を読んで頂ければ筆者がここで書くことの意図はかなりご理解いただけると思います。)

問題点の一つを先ず挙げると、『救いの順序』は聖書テキストにある程度基づいているとはいえ、贖いの順序をより細かく分解し繋げたりするときに異なる神学的強調点 によってその求められる論理的整合性が恣意的になっていく傾向があるようです。

たとえば「改革派」と「アルミニアン」の違いだと・・・

Some of the discussions about the ordo salutis in seventeenth century Reformed theology were occasioned by internal debates. For example, Arminius and the Remonstrants wanted to put faith before regeneration, in order to emphasise the human decision, as over against the Reformed view that regeneration must precede faith, in order to emphasise sola gratia

義認について言えば、マクゴーワンは「転嫁(imputation)」「信仰」「悔改め」を論じていますが、やはりシステムとしての改革派神学との整合性がニュアンスを決める要素になるようです。少なくとも新約聖書本文に戻ってたとえばパウロのロマ書の議論の中での整合性を論ずる、というのではないようです。

ということは、NPPが提起した「一世紀ユダヤ教の歴史的文脈」の問題は等閑視されることになるのではないかと思います。少なくとも「改革派神学」内部での整合性の方がより優先するのでしょう。


「キリストとの一体(the union with Christ)」


改革派神学者たちは救済論を『救いの順序』だけで整えようとしたのではなく、別のもう一つの論である「キリストとの一体(the union with Christ)」と並行して論じたようです。

これがある意味バランスとなって「神学システムの洗練化」の行き過ぎを防いだのではないかと思います。

しかし、バルトとなると『救いの順序』への批判が「人間中心主義」となったようです。
For Barth, questions such as whether regeneration precedes effectual calling, or whether justification has a logical priority over regeneration, are largely irrelevant. For him, all of these are embodied in Christ and we come to share in all of them as we are united with Christ.

...Rather, Barth's objection [regarding the ordo salutis in the Westminster Confession of Faith] is that, by placing such a heavy emphasis upon the application of redemption and upon the means by which the individual believer finds peace and assurance, it seeks '... to make Reformed theology into anthropology'.


さて、大分長くなってしまいました。少し収まりが悪い止め方になりますが、ここで一旦休止します。

次回少し言い残したようなことを含めて、第二《応用ポイント》であった
(2)教会論(特に制度的教会論に対するアレルギー的反応というか、その蓄積でいわば福音派教会論が弱体化したという問題)
に移って行きたいと思います。



 

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