2017年6月14日水曜日

(5)義認論ノート、1

第6回 日本伝道会議 2」でお断りしたように、このスレッドは今後「義認論ノート」として継続を試みてみようと思います。

前回は、ジョン・ハワード・ヨーダーが1960年代後半に、つまりまだNPPと称して脚光を浴び始めるる前に、新約聖書学(釈義学)で「義認」の社会・倫理的側面に光を当てる研究が出始めていることを指摘していた、ということをノートしておきました。

その研究の先鞭をつけた一人としてヨーダーが名を挙げているのが(誰あろう、カール・バルトの息子の)マーカス・バルトです。 (前回記事の引用英文を参照)


(1)マーカス・バルト(Markus Barth, 1915-1994)について

マーカス・バルトについては既にこのブログでも1度取り上げています。(この記事

残念ながらネット上には「マーカス・バルト」 で検索してヒットするものはありません。
「マルクス・バルト」で検索すると辛うじて一つ二つ見つかるくらいです。
(※ もちろんドイツ語、英語で検索すればそんなことはありませんが。)

というわけで簡単な紹介ですが、マイク・バード(ユーアンゲリオン・ブログ)の「マーカス・バルト」記事のリンクを貼っておきます。

(2)マーカス・バルトの『義認(Justification)』について

 『バルト父子』でも少し紹介しましたが、昨年の「N.T.ライトの義認論」を準備している間もマーカス・バルトの『義認』は念頭にありました。

 「教会共同体的側面を重視した」ライトの「義認論」が決して特異なものではなく、宗教改革伝統の偏りを矯正する(結構大きな)流れにあることを「マーカス・バルト」を関連付けて指摘したかったのですが・・・。

上記マイク・バードの記事にも紹介されていますが、マーカス・バルトにはこのポイントをズバリタイトルにした論文があります。

Jews and Gentiles:
The Social Character of Justification in Paul,”
Journal of Ecumenical Studies 5 (1968): 241-67

マイクが何箇所かこの論文から引用していますが、ここに二つお借りします。
"For Paul one's justification is closely related to the question of Jewish-Gentile unity." (p. 242)

"For the two themes, justification by faith and unity of Jew and Gentile in Christ, are for him obviously not only inseparable but in the last analysis identical." (p. 258)


さて、Markus Barth, JUSTIFICATION、ですがかなり手の込んだというか、普通と違う論述スタイルを取っています。

Introduction:
 1. Justification as a juridical act
 2. The Old Testament as a methodological key
 3. Narration with wonder and admiration

FIVE ASPECTS OF GOD'SJUDGMENT
 The First Day: The Last Judgment Is at Hand
 The Second Day: The Mediator Is Appointed, Acts, and Dies
   Interlude: Black Thoughts About the Death
 The Third Day: The Judge's Love and Power Reverse Death
 The Fourth Day: The Verdict Is Carried Out
 The Fifth Day: The Last Day Is Still to Come
イントロの3で言っていることが気に入ったので引用します。
The form chosen for the body of this study is meant to correspond to the goal and route of the experiment. Instead of a systematic treatment of justification, an "admirer's narration" of the miracle of justification will be given. The more conventional sort of "scholarly" argument will appear only in the footnotes. The action of justification itself calls for a substantive report that enumerates in sequence the ongoing events and changing situations. The footnotes can take no more than a subordinate role. The more dramatic the forensic action, the more the trial itself and the account of it will come to resemble a drama. (p. 21 強調は筆者)
これはなかなか含みのある言葉です。

ヒント的にしか今はコメントできませんが、「義認」ということを組織神学的に叙述することよりも、義認をもたらすドラマチックな出来事を物語る方がより相応しいのではないか、とのバルトの神学的センスだと思います。

神学的に「説明する」よりも、先ず聖書自体に語らせる方法を取っているのではないか・・・と読んでいて感じます。

(その背景であろうと思われることについてはまた別の機会に譲りたいと思いますが、「組織神学的」なことを脚注に置く、と云う選択が示唆的です。)  

もう一箇所考えさせられた箇所を引用します。 『バルト父子』でも引用したのですが、今回は少し付け足します。
[G]od has "made  him who knew no sin for us become sin," he made him "bear the sins," so that he became a sin offering. Thus God has "condemned sin in the fresh": the judgment was carried out on the body of Jesus Christ, the Son of God and the Son of David. With his death he pays "the wages of sin." By doing this he sums up the history, the guilt, the chastisement of Israel. He is in person the full representative of this people.
   This does not mean that the accursed Christ dies in the place of those whom he represents. On the contrary, when the king who typifies all Israel dies, every one of his servants is "crucified with him." ...In turn, since the Israel that Jesus Christ represents is representative of "all fresh," the whole world, every man is also "co-crucified" with Christ. Whether or not all men know yet of this death, whether or not they believe in God and in the Messiah and witness he has sent, they are legally dead. The delivering over of their advocate is fatal for them. His death is their death. (p.46 下線は筆者)
つまり、一般(大衆的も含め)的にキリストの「代償死」を「本来なら私たちが死ぬべきところを、私たちの代わりとなって」と理解しているのですが、

そうではなく、キリストが死んだのは「イスラエルの、そして人類すべての代表として」死んだので、法的にはすべての人はキリストと共に十字架に磔にされて死んだ、のだと。

それは事後的に知ることとなったとしても、あるいは全然知らなくても、客観的にそうなのだ、というロマ書5章6-8節のロジックも支持している(と脚注で)解説しています。

一般的理解としては、(十字架の出来事を福音書で読みながら)「あー、本当だったら罪人である自分があそこで死ぬはずだったのが、イエス様が私の身代わりになって死んでくださった。私が死を免れ生きていられるのはイエス様のおかげなんだ・・・」みたいなことになるのだと思います。

マーカス・バルトはそうではない、確かにイエスは代表として死んだのだが、それは私たちの代表として死んだのだから、私たちもそこでイエスと一緒に死んだのだ」と解釈しているわけです。

この解釈はやはり義認論・贖罪論の「キリスト代償死」に関わる部分がどこか聖書テキストに沿っていないのではないか、と見直しの必要を示唆していると思います。


以上で今回のところは終わりです。

(次回へと継続して行くと思いますが、今回のように「考えるヒント」を提供するくらいが関の山かと思いますが、関心を持って読んでくださる方があれば幸いです。)

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