既に何度か簡単な寸評やネットやメディアの伝聞でその内容みたいなものをイメージしている。
何か大きなストーリー(宇宙史、生物史、人類史)を舞台に繰り広げられる核家族の普通の物語り、と言う風な・・・。
たまたま手にした昨日の朝日の夕刊、池澤夏樹のコラム『終わりと始まり』でこの映画評が載っていた。
と言うわけで彼の映画評の文章を糸口に今日の記事を書き始めてみよう。
このブログでは以前池澤氏の文章を取り上げたことがある。池澤夏樹「多神教とエコロジー:世界を支配する資格」、ではいくらか彼のキリスト教解釈について辛口の文章を書いた。 今回取り上げた映画評もたまたま彼の「キリスト教解釈」が引っかかってくる。
「ツリー・オブ・ライフ」にキリスト教の色は濃い。そもそも「生命の木」とは旧約聖書でエデンの園に「善悪の知識の木」と並んで生えていた木だ。と、言うようになぜか氏はこの映画にキリスト教の意義を読み込もうとしているようなのだ。
だが、人間はこの世界で他の被造物の上に立つ別格の存在であり、神の愛でる子である、という楽天的な世界観は採用されていない。
映画の最初に「ヨブ記」からの言葉が掲げられている(引用省略)
筆者はまだ見ていないので、この映画がどれほど「キリスト教の色が濃い」のか何とも言えない。
少なくとも池澤氏の評では「キリスト教」に当たる部分は、宇宙創成と重なるという意味での『創世記』と、『ヨブ記』からの引用だけのようだ。
それならば旧約聖書の「トーラー(律法)」と「詩歌・知恵文学」だけで「預言書」を含まないということになり、新約聖書(本来のキリスト教を性格づける聖書)とは直接関連のない、とも言い換えることが出来る。むしろユダヤ教の幾つか(大きなものだが)のテーマを隠喩的に用いているだけかもしれない、とも言えるのではなかろうか。
しかし池澤氏は続ける。
大事なのは世界は人間のために作られたのではないということだ。人間が登場しなくても世界は完結していた。それでも我々は「神は与え、神は奪う。その御名はほめたたえられよ」と言わなくてはならない。ははーん。なるほどそこに持って行きたかったのか。とすると、映画でのヨブ記からの引用も、氏にとっては「宇宙創成についての知識をヨブに問う神」の言葉としての意義ではなく、「神義論」への布石なのだ。
家族がずっと考えているのはこのことだ。今、東日本大震災の後でぼくが考えているのはこのことだ。キリスト教の信仰とは別に、なぜ震災でたくさんの人が亡くなったのか、なぜ大地は揺れるのか、その先のどこに生きる意味があるのか?(強調は筆者)
さて一通り氏の映画評を咀嚼した後、ニューヨーク・タイムズでの映画評(リンク)にも目を通してみた。
Not Mr. Malick (who prefers to remain unseen in public) but the elusive deity whose presence in the world is both the film’s overt subject and the source of its deepest, most anxious mysteries. With disarming sincerity and daunting formal sophistication “The Tree of Life” ponders some of the hardest and most persistent questions, the kind that leave adults speechless when children ask them. In this case a boy, in whispered voice-over, speaks directly to God, whose responses are characteristically oblique, conveyed by the rustling of wind in trees or the play of shadows on a bedroom wall. Where are you? the boy wants to know, and lurking within this question is another: What am I doing here? (強調は筆者)永遠から永遠に流れる命の流れの中で、人間の根本的存在意義が人間を取り巻く大きな世界の背後にある「神と思しき存在」に発せられ、そして確たる答えがなくその問いは自己の存在証明の問いとして継続される。
と言う風な宗教的設定としてこの評者は捉えている様だ。
所謂キリスト教的背景はある意味米国と言う文化圏から言えば前提であり、格別この映画が「キリスト教の色が濃い」わけではなさそうである。
ただ池澤氏が見落としていて、キリスト教的視点として言及されているのは「死者の復活」である。
だからと言ってそれが「キリスト教的に」解釈されていないことは明らかだ。
だからタイムズの評者は「宗教的に濃い」とは言えても、特に「キリスト教的に濃い」とは言えないはずだ。
恐らく欧米の知識人にとっても、更に日本の知識人にとってはなおさら、「キリスト教」が意味するところは多分に西洋文化に浸透している事柄や、聖書に言及するかどうかと言った事柄なのではなかろうか。
なぜなら「キリスト教」にとって決定的とも言える「イエス・キリスト」の存在とその意義に言及することなく「キリスト教の色が濃い」とかどうとか言えたものではないからである。
もしこのような知識人が敢えて「キリスト教的」と言う表現を使いたいのであれば、「キリスト教文化の色濃い」と言った一枚壁を挟んだ物言いにしなければ厳密とは言えないであろう。
何はともあれ、「ツリー・オブ・ライフ」はなかなか魅力的な映画であることは確かなようだ。そしてその解釈の仕方も多分色んな方向に出来るのだろう。池澤氏だけでなく。
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