2011年9月19日月曜日

聖書解釈と無誤論

先日は欧米福音的キリスト者の間でたった今話題の本、The King Jesus Gospel、を紹介した。
今回もたった今論争の的となっている本を紹介しよう。


Michael R. Licona, The Resurrection of Jesus: A New Historiographical Approach.

なぜこの本が話題になっているのか。それはこの本がN.T.WrightのThe Resurrection of the Son of God、の後にまたもやイエスの復活を歴史的に論証したからではない。但し、マイケル・バードはライトの本までとは行かないがかなり近くまでその成果を挙げているとこの研究書を評価している。(リンク
そうではなくてたまたま復活の関連で取り上げたマタイの箇所に関する解釈で論争を起こされたからだ。
まずはその関連箇所だが、
墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。(マタイの福音書27:52-53、新共同訳)
となっている。 
ライコナ(発音は定かではない)氏はこの箇所を色々と釈義的に検討した結果、黙示文学的な、詩的な表現による神学的意義の強調と受け止めた。(つまり第一義的に直接的歴史的出来事の叙述とは取らなかった。)

これを見逃さなかったのが「聖書無誤論」で有名なノーマン・ガイスラー氏で、二度に渡ってライコナ氏に歴史的叙述であることを認め自説を撤回するよう要請した。
ガイスラー氏曰く、「ライコナ氏は福音主義神学会の会員である。福音主義神学会はシカゴ声明で定義した『聖書無誤論』の立場を奉じているから、それに反する聖書解釈は許されない。故にライコナ氏の取るべき行動は自説の撤回である。」と言うのである。(ガイスラー氏自身は福音主義学会員ではなく数年前に何かのことで退会している。)

これで「個別の聖書箇所の解釈を巡る『無誤論』論争」の火蓋がきって落とされたわけである。相変わらず保守主義論客を自認するアルバート・モラー・ジュニア氏も見逃してはおかない。自分のブログで論争に加わった。(リンク

筆者の感じでは、「またかー」なのである。
保守的な聖書論者(歴史的叙述であることを前提している)と、聖書学の知見を援用して釈義に幅を持たせる研究者の対立の構図なのである。
進化論論争と並べればその類似性が見て取れる。「創世記の記述は『事実』を叙述している」と取る立場はそのような解釈が自明であると考え、もっと文学的に幅のある解釈を導入しようとすると、たちまち「聖書の権威を脅かす」と受け取るのである。

このような論争に何度も巻き込まれている者たちは、「いい加減頭から『聖書の権威』や『無誤論』を振りかざす議論はやめて、もっと対話的討論をしようではないか」となる。
すぐ二者択一に持ち込む、どっちが勝つか勝負するような議論は非生産的で、建設的な知識の探求に寄与しないことを思い嘆くのである。

ところでライト教授はこの箇所をどう解釈しているか。久しぶりにあの大著のページをめくってみた。かなり史実的なものとマタイが受け取っている、と言う立場を有力と見ているが、当該箇所自体の独自性や不明性を鑑み、決定的な解釈には達せられない、との立場であった。

この論争に興味のある方は、この記事を書くのに参照したマーク・コーテズの記事から読み始めるのが良いかもしれない。記事の終わりに関連ブログ記事等がまとめられている。

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