2011年9月13日火曜日

「王なるイエスの福音」

今年(英語圏の)キリスト教界で出版前に大きな話題になった本があります。
以前このブログで名前だけは出していると思いますが、ロブ・ベルの「ラブ、ウインズ(愛は勝利する)」です。

今またもう一冊話題になっている本が、スコット・マクナイトの標題の本、The King Jesus Gospel: The Original Good News Revisited、です。
既にキンドル版は出ているし、書評用に何人ものブロガーが読んでいるので、筆者としては10月に出版されて、購入して、読了するまではブログに取り上げるのもどうかと思うのですが、そう言う訳で何人もの筆者が目にしているブロガーたちが取り上げているのを見過ごしにしておくのももったいないのでここで記事にすることにしました。

幸い(と言うか不幸にもと言うか)他に取り上げるネタが余り見つからないので、ちょうどいいタイミング、と言うことで・・・。

先ず前文に、N.T.ライトと、ダラス・ウィラードが推薦文を寄せています。
ダラス・ウィラードの方は筆者はそれほど分かりませんが、ライトの場合は本の内容から言ってライトが主張してきた聖書の包括的ストーリーを背景にした福音の捉え方を提示している点、大いに推薦できる本だと言うことが分かります。

筆者がこんなことを言うのは少し生意気かもしれませんが、マクナイト教授がこの本の主張まで漕ぎ着けるのにライトの影響が大きかったことは本人も認めていますが、むしろ気付き方が少し遅かったと言うか、もっと早くこのような内容の本を書いていてもおかしくないほど、ライトの視点は明瞭だったと思います。
筆者は既にライトを読み始めて数年でマクナイトがこの本で強調している「サルベーション・カルチャー」と「ゴスペル・カルチャー」の区別はついていましたし、「使徒的福音に立ち戻らなければならない」ことははっきりしていました。

さてそんな生意気な前置きはそこまでにして、目次を見てみますと、
1971(序論的挿入、著者の若き日の「福音」伝道体験エピソード・・・筆者注)
1.The Big Question
2. Gospel Culture or Salvation Culture?
3. From Story To Salvation
4. The Apostolic Gospel of Paul
5. How Did Salvation Take Over the Gospel?
6. The Gospel in the Gospels?
7. Jesus and the Gospel
8. The Gospel of Peter
9. Gospeling Today
10. Creating a Gospel Culture
となっています。
アマゾン・ブックスである程度中身を数ページずつくらい読めるようですが、敢えて読まないでおきます。(ライトとウィラードの前文と「1971」はちょっと読んでみましたが。)

この本の紹介をしているブログを少し挙げておきますと、
①ユーアンゲリオン(ジョエル・ウィリッツ・・・右横のマイ・ブログ・リスト参照)
②フェイス・インプロバイズド(テイム・ゴンビス、Theological Method & the Gospel
③キングダム・ピープル(トレヴィン・ワックス、Scot McKnight and the King Jesus Gospel
④レイチェル・ヘルド・エバンス、"What was the Original Gospel?"

さて、この本の中身は広義の福音派も中世以降の、と言うより原始及び教父時代以降のキリスト教も、みんなが影響を受けてきた「自分が罪から救われる方法」に特化した福音と言う受け取り方に対する、聖書的チャレンジと言えます。

使徒的福音を端的に伝える「コリント15章前半」にしても、使徒の働きにおけるペテロやパウロの福音提示にしても、また福音書そのものにしても、いずれにしても旧約聖書のイスラエル物語の成就として語られ、提示されたメシヤ(ユダヤ人の王)、とは位相の異なる「福音」を私たちは聞いてきた、と言うのがこの本のテーゼです。

言ってみれば福音に関して大きなパラダイム・シフトを迫る本だと言うことができるでしょう。

今迄「福音」として聞いてきたものが、実は聖書的に忠実に語られた福音ではなく、「サルベーション・カルチャー」と定義された、「個人的救いに特化された神学とその適用」だった、とこの本は分析するわけです。

多分多くの人は最初読んでもぴんと来ないかもしれません。
しかし聖書の福音に関する箇所の叙述と比較しながら考察すれば、自ずとその指摘が理解できると思います。
問題はそのような新しい視点での「福音」が自分にとって座り心地が良いかどうか、と言う「自分の救いの居場所の心地よさ」に関する厳しい選択となって降りかかってくることだと思われます。
今までの「救い」に安住していたいのか、それともより聖書の叙述に忠実な「福音理解」に移行しようと船出するのか、と言う選択です。

さて、そう言う訳でもし邦訳出版されるならば、それなりのインパクトを与える本であることは十分予測されます。
筆者としては個人的にこの問題に講壇から取り組んできた者として、大変有益な本であることは間違いないと思いますので、是非邦訳して欲しいと思います。

このブログを読んでいる方でキリスト教出版に携わっている方があれば、是非早いうちに取り組んでください、とお願いしておきます。

5 件のコメント:

  1. マクナイト教授は、シカゴにあるノースパーク大学で教鞭を取っておられる方で、来年の1月にはうちの教会に来て、ヤコブ書の学びをしてくださるそうです。

    私はキンドルで購入したので、すでに読み始めていますが、一信徒として、正直に言って、「福音」のようにキリスト者の信仰の根幹にあるはずのものが、今さらのように再考されているという現実に、そもそもショックを受けるのです。それでも、今の教会で語られている福音が、聖書の伝える福音とは焦点がずれたものであるならば、それが修正されるのは必要でしょうから、歓迎はするのですが。34年前に私がイエスを信じたとき、あの時提示された「福音」は、確かにマクナイトのいう「サルベーションカルチャー」に根ざしたものでした。

    >問題はそのような新しい視点での「福音」が自分にとって座り心地が良いかどうか、と言う「自分の救いの居場所の心地よさ」に関する厳しい選択となって降りかかってくることだと思われます。
    >今までの「救い」に安住していたいのか、それともより聖書の叙述に忠実な「福音理解」に移行しようと船出するのか、と言う選択です。

    これは、私が今まさに直面している問題であり、選択です。選択としては、船出するつもりです。すでに錨をあげて、航海に乗り出しています。さらに言えば、この本に出会う前にすでに乗り出していて、それでもどちらの方向に進めばいいのか、だいたいの方角は分かっているつもりでも、本当にそれでいいのか?そもそも航海に出ちゃってよかったのか?という不安もあるという状態でした。夏に先生のところにお伺いしたのも、少しでも指針が欲しかったからです。

    昨日、私のブログで、あるノンクリスチャンの方が「福音」について質問されました。一昔前の私なら、迷う事なく「サルベーションカルチャー」に根ざした福音を語り、「ですからあなたもイエス様を信じませんか?」とdecisionを求めていたかもしれません。でも、学び直しをしている今の私には、自信をもって「福音とは」とノンクリスチャンに語れないのです。悲しくなりました。(もし先生にお時間があれば、&よろしければ、私の9/11のブログのコメント欄にこの方がいらっしゃるので、彼にコメントをさしあげてくださいませんか…?)

    主が、こうして先生との出会いを与えてくださったことを、心から感謝しています。どうぞ、これからもご教示ください。

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  2. それから、Love Winsも読みました。先生は読まれましたか?
    Over all, I liked it です。この本の冒頭で彼が並べていた疑問のいくつかは、私自身も持ったことがあり、それを教会で口にしたら、たちまちhushされたという経験もあるため、かなり共感しました。
    救いに関して、ロブ・ベルの言っているとおりだったらいいなぁと思います。それでも、多くの神学者や牧師さんたちの中に、待ったをかけている人たちがいるのを見ると、そのまま受け入れてもいいのかな?と戸惑ってしまいます。
    この件に関しても、先生のインサイトをお分ちいただければと思います。

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  3. はちこさん早速コメントどうも。どうやら本は発売開始されたようですね。もっと先かと思っていました。
    ところで「34年前に私がイエスを信じたとき、あの時提示された『福音』は、確かにマクナイトのいう『サルベーションカルチャー』に根ざしたものでした。」とありますが、改めて強調したいのは、「サルベーション・カルチャー」だろうが、「ゴスペル・カルチャー」だろうが、福音の中心はメシヤ・イエスと言うお方であり、このお方を相応しく提示されることです。非常に単純化すれば「イエスの御名を呼ぶ者は救われるのです」は難しい神学を必要としません。その代わり、イエスと言うお方を相応しく受け入れなければなりません。たとえ「サルベーション・カルチャー」でイエスを受け入れた(決断した)方であっても、イエスを主として告白しイエスの弟子となってその信仰生涯を全うなさる方は多くいるでしょう。逆に「ゴスペル・カルチャー」で福音を提示されたとしても、当時のユダヤ人の多くがそうであったように、御霊の働きによって信仰を持って「イエスを主とする」ことが出来なければ(その時点においては)「救われ」ないのです。

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  4. キリスト者となってからのことを考えてみると、それはちょうど土台の上に建物がちゃんと建っているか確認する作業のようなものです。イエス・キリストが礎石で、使徒が土台です。「ゴスペル・カルチャー」とは、この使徒の土台を聖書の記述に遡って点検する作業です。「サルベーション・カルチャー」はこの比喩を延長すれば、大黒柱が来るところに細い柱があてがわれ、それで建物自体が小さく貧弱になっているようなものです。大切なのは礎石と土台が狂っているのではない、と言うことです。ですからゼロからの建て直しではありません。上もの補強する作業が「ゴスペル・カルチャー」に移行するということになるでしょう。
    問題は実際の家でもそうであるように、雨漏りがするとか、大きなダメージがないと建物を点検しよう、とはならないことです。「サルベーション・カルチャー」の「決断的信仰」の陥穽は、その時信じたことで「一丁上がり」に救いが為されたと勘違いしやすいことです。イエスを主と信じるとは、イエスを主として従う人生の始まりであり、完成を目指して歩む信仰生活のスタート地点に立ったと言うことなのですが、この自覚が伴わないケースが往々にしてあります。そのような方の救いは、イエス・キリストの救い主の意味は、残念ながらご利益宗教とさして変わらないものになりがちです。

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  5. 先生、ありがとうございます。実はこの記事を、私のブログからもリンクさせていただきました。そしてそこにも、「私は34年前にイエス様を救い主と受け入れたとき、砂の上ではなく、岩の上に家を建てたつもりでした。ところが今、その岩が揺らがされるような、そんな衝撃を感じています。……今、私の土台の岩が揺らいでいるように感じるのは、それが崩されているからではなく、さらに補強され、拡張されるための工事が始まったからなのでしょう」と書いたところでした。先生のメタファーも、とてもしっくりきます。

    また、記事中の先生の「船出」の比喩で言えば、今までの私は、暗がりの中、一人でこっそり船出して、どこか不安で心もとなかったのが、マクナイト教授の本が灯台となって行く先を照らし、先生のような船頭さんも与えられた、という感じでしょうか。こういうふうに、はっきり言語化してくれる人がほしかったのです。(NTライトは敷居が高かったのですが、マクナイト教授の本は、すぐに読めそうです。)

    私の中に何とも言えない動揺があったのですが、ようやく払拭された気がします。

    ありがとうございます!

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