と言うのも私たちの教会では震災直後だけでなく、中長期的な視点で震災復興と取り組むことを決めたからだ。
もともと「食の日募金」と言って世界飢餓の問題と取り組んできた。毎月一度の愛餐会の時をそのことに思いを致す機会としてきた。
東日本大震災が起こって、「食の日募金」は、「復興支援募金」も兼ねることになった。
毎月そのように積み上げた募金を適当な支援団体に送金してきたのだが、震災から一年が経つともともとの支援目的とは別に緊急的に立ち上げた「募金窓口」がなくなる団体が増えてきた。
それで「次はどの団体に送金したらよいのだろう」と思案するようになったわけである。
未曾有の大災害から僅か一年半で人々の意識は変わり始めていることを、池澤夏樹氏が10月2日の朝日の夕刊コラムで書いている。
災害の日からもう一年半が過ぎた。そんな中、筆者が講師をしているシニア英会話クラスの生徒のおばあさんが、昨年9月に被災地を訪れた後どのように変化しているかを確かめるべく同じ被災地を訪れた。
だいぶ雰囲気が変わってきたという話を聞いた。最初の頃はみんなどこか高揚していて、私利を離れて行動するのも難しくなかった。
もちろんどこの避難所にもわがままな人や怠け者はいたけれど、それでもみんな譲り合った。(ぼくはこの話を聞いていて、「災害ユートピア」という言葉を思い出した。危難の際に人がエゴを捨てるという現象のことだ。)
復旧についてはみなが力を貸す。瓦礫を運び出すトラックの邪魔をする者はいない。しかしそれが一段落して復興の話になると、つまり震災前の日常に近いところまで戻ると、「みんなのため」とは別の原理が働き始める。それを資本主義が帰ってくる、と言っていいかどうか。
私を離れて公共を考えられる人がいる。人望を得てコミュニティーを率いる場合もあるし、ひたすら地味に奉仕するだけの場合もある。にんげんの中にはたしかにそういう資質がある。あるいは誰の中にもあるはずのそういう資質が発揮される時がある。
その一方で、私利と言う原理も確かにある。そういうふるまいを非難するのは容易だが、非難してどうなるものでもあるまい。資本主義に問題があるとすれば、人間のその側面を助長することだろう。災害の直後のあの気持ちを忘れないでいるのはむずかしい。東北は、日本もまた、今そういう時期に来ている。(以上朝日新聞夕刊、〈終わりと始まり〉復旧と復興の違い)
その方のお話では確かに復旧はしてきている。あれほどの瓦礫の山は消えていた。と語っていた。
筆者にはそこまでの行動力はないが、ただ東京にある一地方教会が今後どのように震災復興に関われるのか、何とか糸口を見出したいと願っている。
かわむかい でございます。
返信削除友人の若手のキリスト者による福島被災地見聞録がございますので、お暇なときにでも、ご清覧いただければ。
http://christnm.info/wp/?p=1427
「東北ヘルプ」をご存知ですか?
返信削除雑誌ミニストリーでも紹介された超教派のネットワークです。私どもナザレンも関わっています。一教会でできることは小さくても、ネットワークを作りながら、復興のために力を合わせる尊い働きをしています。
何かの参考になれば感謝です。
http://tohokuhelp.com/index_jp.html
川向さん、リンクありがとうございます。ザーッとですが読ませていただきました。一年以上経っても現地で見聞する意義を感じました。
返信削除久保木先生、東北ヘルプ紹介ありがとうございます。
はい、既に一回送金させて頂きました。事務をやっているK牧師には頭が下がります。教会、学校を兼務しながら多忙を極めている様子、ツイッターで多少知っています。
今後もこの働きが継続できるようにと願っています。