最近は研究会をサボっている。
学会誌も真面目に読んでいない。
最新号(第43号、2012年12月)のテーマは「説教」だ。
幾らか興味はあったが「積読」状態が続いていた。
前にどこかで仏教との関わりについて読んだことがある、大和昌平氏(東京基督教大学)の論文がこの号に収録されているので、ようやくそれを取っ掛かりに読んでみた。
大和昌平『日本の説教文化とキリスト教の説教』
大和氏は、そもそも説教とは仏教に由来する語であり、伝統であることを確認するところから論を始める。
そう言えば最近ではフェイスブックの方で神学談義を交わすことが多い「のらくら者の日記」さんも読書で取り上げている
『笑う親鸞 楽しい念仏、歌う説教』
(伊東 乾(けん)著 河出書房新社 2,200円+税)
を筆者も最近たまたま読んで、なかなか面白い印象を持った。
講談や落語などの大衆芸能が仏教の説教を由来ととしていることなどはこの本で「そーか」と思ったものである。
この論文を読んでいてふむふむニヤリとした部分は例えばこんな箇所。
平安時代の王朝貴族の間で学僧による説教の法会は社交場でもあった。美形・美声の説教師がもてはやされ、高座における説教批評も行われていたという。教養ある王朝貴族の間で説教の聴聞は娯楽的要素を多分に持っていたのである。日本の説教に影響を与えた中国仏教においては、「声(しょう)・弁・才・博」のある説教が求められた(『高僧伝』巻十三)。すなわち、声がよく、弁舌に優れ、機知に富んだ、博識の説教者をよしとしたのであり、これはオーソドックスな説教の評価基準だと言えよう。これに対して、平安の宮廷では、「一声、二節、三男」と言われた。つまり、説教師は美声で、節回しよろしく、美男であることが求められたのであり、より世俗的な説教の展開が日本では見られたのである。その例として大和氏は、清少納言が枕草子でなぜ説教師が美男・美声がいいか、それは「見惚れて聞き入り、仏の教えをより感得できるから」と引用して説明している。
(しかしこのような傾向が日本の説教文化にあることを大和氏は「大衆の人気を博することに走る逸脱の可能性」のあることとして警告している。)
まっここにメモしたことは大和氏の本論と言うよりは、筆者が面白がった部分、と言うことなので誤解なきよう。
とにかく大和氏は「説教の何たるか」を講ずるのに、日本の仏教の説教文化が一役買うのではないか、と問うている。
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