2013年5月17日金曜日

「キリスト教霊性の欠如」をどう見るか

大分古くなった記事だが、福音派は今どこには今でも「人気投稿」(左側コラムの下の方をご覧ください)の6番目に頑張っている。

ちょうどこの記事にコメントが寄せられたので、コメント欄にではなく投稿記事にすることにしました。


中川様、
初めまして。コメントお寄せくださりありがとうございます。


筆者がこの記事を書いた時点では、まだ「教会のカルト化」については具体的なことはそれほど知りませんでした。今でもそんなによくは知らないのですが、筆者がこの記事で特に意識したのは「プラグマティズム」の問題です。

とにかく教会に人を集めてなんぼ、みたいなまるで福音宣教をそのための道具のような扱いに(知らず知らずのうちに)なっている、と言う事態です。
N. T. ライトという人の名前をたびたび耳にするようになりました。
まだ、翻訳はされていないはずですが、どんな方なのでしょう。
N.T.ライトについては右側コラムの「ラベル」にかなり関連記事がありますし、同じく「Myサイト」のところに筆者が主宰する、N.T.ライト読書会のリンクがありますので、そこから「紹介」へ行ってくださると少し古くなりましたが少しお分かりになると思います。


翻訳本は一冊だけ、コロサイ、ピレモン註解書(ティンデル・シリーズ)出ています。間もなく幾つか邦訳書が出てくると思いますのでご期待ください。
福音派に大きく欠けてしまっていることの一つに「キリスト教霊性」があると考えています。
なぜ「キリスト教霊性」が欠けているかといえば、福音書に見る受肉の思想が、キリストの十字架と受苦に吸収されてしまっているからではないかと。
もちろん、受肉とは福音書にあるイエスさまの姿ですから、福音書が失われているということにもなってしまいます。
受肉の欠如の問題は、ご指摘のように福音書を「十字架」だけに(贖罪論的)集中して、「(受肉から始まる)神の国」のテーマを放置してしまうことから来ると言えるかもしれません。
ライトの新刊How God Became Kingで「(受肉から始まる)神の国」のテーマと「十字架」を一つの神学的ナレーティブとして捉える試みが展開されています。

こちらの本を昨年から今年にかけて、フェイスブック上のバーチャルな読書会で読み合いました。
右側コラムの「Myサイト」にN.T.ライトFB読書会のリンクがございますので、ご関心あればそのディスカッションのコメント(膨大ですので遡って読むのはかなり根気がいると思いますが)お読みください。

ただしフェイスブックに登録していることと、「非公開」ですので「申請」していただく必要があります。
(「申請」はただリンクをクリックしていただけば自動的になります。)

最後になりますが、このサイトでも度々ご紹介しているスコット・マクナイト「福音の発見」をお読みくだされば、本来の福音とはずれた形で継承されてきた「個人的救いに特化したソテリアンな福音」の問題として「キリスト教霊性」の欠如が提示されているのを知ることができると思います。

今回は貴重なコメントありがとうございました。

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