2013年7月24日水曜日

(5)福音派のパラダイム・シフト⑦

さて、前回から「個人的所見」を述べ始めたが、一回で終わらすことが出来なかった。

今回この「個人的所見」の続きを読んでくださる読者がいるとすれば、その方は余程の問題意識の持ち主かもしれない。

予め断っておくが、難易度(5)には幾つか意味があってその一つが「書いてる先が見えないことを書く場合」と定義しておいたが、今回はまさにそんな記事だ。

途中で筆者と一緒に「神学の迷路」に迷い込むことにならなければ良いが・・・。

確認事項(2)
パラダイム・シフトの方向が、『回心体験』を個人主義的・縮小化された「救済」から、教会論的な側面を回復し、ホリスティックな「救済」へと向かっている、と言うことについて

念のためゴードン・T・スミスが「パラダイム・シフト」後の「回心と救い」の輪郭をスケッチしている文章を再掲する。

回心とは

conversion is a complex experience by which a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come. This experience is mediated by the church and thus necessarily includes baptism as a rite of initiation. The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques. (下線は筆者)
ここから拾えるポイントは幾つかあるが、今回は3点に絞ろう。

①提示される福音の性格
The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques.
福音の提示は、「個人的罪からの赦し」(の方便)としての「十字架のキリスト」から、復活したメシア・主イエスを宣言することへとシフトされる。

 この辺のことは、スコット・マクナイト「福音の再発見」を読んで頂くのが良いと思うが・・・。

 19-20世紀にかけて制度化されたリバイバリズムにおける福音は、「救いの方法」(『四つの法則』の例のように「簡略化された救済論」)の提示になってしまっていて、本来の使徒的福音である「十字架に死んで復活し、今や『メシア』とも『主』ともされたイエスを告知する」行為であることから大分離れてしまった。

 パラダイム・シフトはその意味で使徒的福音提示の元々のフォーカスである「主イエス・キリスト」に原点回帰することを意味するだろう。
(リバイバリズムにおいては、救われる『私』にフォーカスが当たってしまっていた。)

②「終末の神の民である教会」へと加えられる、と言う共同体的側面の回復
a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come.
 リバイバリズムにおいては「回心体験」は「個人的罪の赦しの体験」に留まってしまい、教会に加わることは、回心後のまるでオプショナルな扱いにされていた観があった。

 また別の角度から言えば、このパラダイム・シフト後の「回心」には、イスラエルのストーリーの回復がある。
 リバイバリズムにおける「救い」は、人々が「証し」として表現する時、それはしばしば「個人史的救済」ストーリーの域を出ない。
 しかしパラダイム・シフトが目指すのは、福音のフォーカスである「主イエス・キリスト」が旧約聖書のストーリーを完結する、成就するお方として提示され、そのお方を信ずることを通して、「新しくされた(renewed)神の民」の一員とされる「回心体験」なのだ。
 
 まとめて言えば、「個人的」に対して「共同体的(教会)」側面、「非歴史的(抽象的)」に対して「歴史的(旧約から新約へと更新された『神の民」)」側面が、新しいパラダイム・シフトのもとでの「回心」に求められる。

③「救済論」偏重によって脇に追いやられてしまった「教会論」の回復
 リバイバリズムは「バプテスマ典礼による新生(baptismal regeneration)」を変えてしまった。
 「救い」は「罪人の祈り」を祈ることで成立し、洗礼と言う「教会」の典礼から切り離されてしまった。

Evangelical Sacraments: Supporting Cast for the Sinner's Prayer

This attitude is tellingly reflected in common evangelical sacramental practice. Many evangelical traditions have managed to strip away even the ecclesial nature of these ecclesial signs in pursuing salvation evangelical style. They are now by and large seen in terms of evangelicalism's central speech-act: the "Sinner's Prayer." Reciting the Sinner's Prayer has generally taken the place of baptism as both the decisive moment of salvation and the normative rite of initiation (conveniently, as one can do it by oneself, anytime and anywhere: at a worship service, at an evangelistic rally, or even privately before a television or Gideon Bible).
Telford Work, "Reordering Salvation"
さて、まだ「神の国」と言う「終末的論」的側面の回復も一言するべきだろうが、このパラダイム・シフトに絡んでくる神学者たちは、スミスが列挙するよりはるかに多くバラエティーに富んでいることだけ指摘して終わろう。
(まだスコット・マクナイトやテルフォード・ワークに言及しただけだが・・・。)

 メソジストの神学者であるビリー・エイブラハム(ちょうど彼の「はじめてのウェスレー」が邦訳出版されたところだ)が、The Logic of Evangelism、で「回心」を次のように定義している。
What I am proposing calls for a fundamental reorientation in our thinking about Christian initiation. We begin by asking what it is to be initiated into the rule of God, which has been inaugurated in Jesus of Nazareth and in the work of the Holy Spirit at Pentecost and thereafter. From within this horizon we then proceed to articulate what it is to be initiated into the community of the kingdom, that is, the church. Logically speaking, this takes the primary focus away from external admittance into a particular organization and relocates it in the sweep of God's action in Christ and in the Holy Spirit. (P.98)
簡単に言えば、「回心」とは「(一地方)教会」と言う組織の一員となる(イニシエーション)前に、先ず「神の国」に入れられる、と言う事がある。

 神のご支配、神の救いのストーリーと言う大きな文脈の中に、伝道の働きがあり、教会と言う具体的文脈の中で人は回心(イニシエーション)を通して「神の民」である教会に加わっていくのだ、と言えるだろう。
(エイブラハムの文章はかなり密だが、先に挙げたスミスの文章よりも首尾一貫しているし、「回心」をめぐる神学的トピックに対し、より明確な展望・輪郭を示していると思う。)

 

0 件のコメント:

コメントを投稿