2013年7月18日木曜日

(5)福音派のパラダイム・シフト⑥

さてゴードン・T・スミスの『新しい回心』論文を要約・簡訳(簡略な訳)連載後に「個人的所見を述べる」とアナウンスしてきたので、それをここでやりたいのだが、難易度ランクを(5)としたように、かなり長い文章になるのではないか、と懸念している。

確認事項(1)
パラダイム・シフトの参照点が「リバイバリズム」であることについて

福音派のパラダイム・シフト①
スミスが「現在福音派に起こりつつあるパラダイム・シフト」を語る時、その念頭には(19世紀から20世紀にかけて大きな影響を持った)「リバイバリズム」を「参照点」としていることが分かる。

(「福音派はこの『リバイバリズム』を過去のものにしつつある」、がパラダイム・シフト論の基本的認識だ。)

実は『リバイバリズム』に(かっこ)して「信仰覚醒運動」と訳を入れたが、これがなかなか曲者だ。

スミスの念頭にあるのは「19世紀から20世紀にかけて発展・制度化したリバイバリズム」で、先行する17世紀ピューリタニズム、18世紀の(エドワーズやウェスレーらの)『大信仰覚醒運動(The Great Awakening)』とは区別されている。

区別されてはいるが、その歴史・社会的背景の変化には余り言及しないままになっている。
ここに先ずスミスの論述の言い足りない部分があるように思う。(辞典の方では言及しているのかもしれないが・・・。)

簡単にポイントを挙げよう。

17世紀ピューリタニズムは、英国国教会から逃れてきたキリスト者集団による、自覚的に、純粋に、キリスト教信仰を基盤とする共同体形成を目指した運動だった、と筆者は理解している。

このような歴史的文脈で、「回心」はあくまでも信仰共同体を形成するべき「まともなキリスト者」を育成することを念頭にしたものであったと言えるだろう。

宗教改革的に言えば、「教会のノーマリゼーション(本来あるべき姿に戻る)」の一環であり、未信者への伝道や海外宣教はまだまだその視野の中心には入っていなかったと言える。

18世紀の『大信仰覚醒運動』の時点では、ピューリタニズムの理想は崩れ始め、「中途半端な契約」が抱えていた「二世、三世キリスト者を、如何に契約共同体である(明確な回心体験を必要とする)教会員とするのか」という問題が背景になっていた。

その意味で信仰覚醒運動は起こるべくして起こった「教会の内発的運動」、と言う面がある。
20世紀のクルセードに見る様な、一般大衆を相手にした大々的伝道活動のような、(少し語弊があるかもしれないが)「人工的にプログラムされた運動」ではない、と言う点で趣を異にする。
(スミスはそのような歴史的文脈の相違を、それほど意識していないように思う。)

しかし、18世紀の『大信仰覚醒運動』は単に信仰を基盤とする信仰共同体内の問題だけではもちろんなかった。
教会外の社会経済的問題も当然背景にあった。

農業を中心とする第一次産業中心の伝統的社会から、次第に産業構造が変化し、「投機的商人」や「炭鉱労働者」など人口の流動化、大衆化が進み、教区教会(パリッシュ・チャーチ)の外に大量の未信者(unchurched people)を発生させた。

つまり「教会外伝道」と言う新しい伝道ニーズが生まれてきていた。

ジョン・ウェスレーの例を挙げれば、教会(という建物)の枠外にいる労働者大衆に対して、時の英国国教会は最初彼らを「キリスト者化する」する関心も態勢も取れていなかった。

しかし(ジョージ・ホィットフィールドの影響によって)この伝道ニーズに目覚めたウェスレーは、巡回伝道・街頭伝道という革新的働きを強力に推進した。

またウェスレーは、街頭での即興的伝道説教によって大量の「回心」者を作るだけでなく、「回心」した庶民を「組会」と言うスモール・グループのフォロー・アップシステムを通して「信仰の成長」を促し、「救いの完成」へと育成するシステムも開発していった。


またそのような育成システムは単に(霊的)信仰訓練に留まらず、識字教育、教養発展と言う今なら「成人教育」に類するようなものにまで導入・開発されたのである。(ウェスレーはただ回心者を生み出す伝道者ではなく、彼らをキリスト者として育成する牧会者でもあり、そのような育成の仕組みを作り出すオーガナイザーでもあったのである。)

と言う訳で、最初の懸念が当たったしまったようである。
既に長くなってしまった。
とても1回の所見では終わりそうもない。

今回の所見のポイント、「パラダイム・シフトの参照点が「リバイバリズム」であること」、を要約する。

スミスが念頭におく「リバイバリズム」、つまり20世紀に制度化され、普及した「『四つの法則』を用いるような簡略化され、矮小化された回心体験」は、先行する17世紀ピューリタニズム、18世紀の(エドワーズやウェスレーらの)『大信仰覚醒運動(The Great Awakening)』とは単に区別されるだけでなく、もう少し立ち入った比較検討が必要である

これら二つの「リバイバリズム」の比較検討において、
①回心体験の内容、
②回心体験を引き出す伝道(説教)
を取り巻く歴史的文脈に相当留意して「パラダイム・シフト」を主張すべきである。

「教会内vs教会外」の位相が時代を経るにつれて変化してきた問題にしても、教会外に発生した「未信者大衆」の歴史、社会的背景の相違にしても、二つの「リバイバリズム」では「回心体験」の文脈が異なることを視野に入れた「パラダイム・シフト」分析が必要ではないだろうか。

(※個人的所見は更に続く、と言うことになる。読者の皆様、もう少しこのシリーズにお付き合いください。)


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