2013年7月27日土曜日

(4)「カトリックと聖書」④

何かのろのろとした連載ですが、ご寛容ください。

『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議  (2013年6月)聖書を敬遠していた教会」部分二回目の引用です。
(この前の部分は第二バチカン公会議前は信徒には聖書を勧めることは殆んどなかったことが述べられました。)
 なぜでしょうか。その背景には、聖書を強調するプロテスタントへの対抗意識がありました。中世のある時期、カトリック教会は聖職の売買などの腐敗や誤っ た教えがまん延し、恥ずべき状況におちいっていました。それを批判して立ち上がったルターら改革者たちは、教会当局と論争する中で、聖書に拠りどころを求めました。キリスト教の真理は、誤りにおちいった教会の指導者たちの教えの中にではなく、神のことばである聖書の中にある、というわけです。そこから、 「聖書のみ」を掲げるプロテスタントと、教皇たちの教えや過去の公会議の決定、その他祈りや典礼なども含めた「聖伝」との二本立て、つまり「聖書と聖伝」 を主張するカトリックとの立場の違いが鮮明になりました。
「カトリックの信徒が余り聖書を読む習慣がないまま来た」歴史的背景が述べられ始めます。
そしてその主要因がプロテスタント宗教改革に求められるだろうことを念頭に説き起こされます。

カトリックの「聖書と聖伝」と言う二つの並行する権威(厳密に言えば聖書を解釈する「教皇」「公会議」の具体的教導権が優先することになるだろうと思われますが)を取る立場に対し、プロテスタントは「聖書」だけに権威を一本化した、その立場の相違から説明が試みられます。

このブログの読者はプロテスタントが殆んどだと想定しますが、「聖書」と「聖伝」については余りご存じないのではないかと思います。
「聖伝」について、ここでまたCatholic Answersに登場して頂きましょう。
Sacred or apostolic tradition consists of the teachings that the apostles passed on orally through their preaching. These teachings largely (perhaps entirely) overlap with those contained in Scripture, but the mode of their transmission is different.
  They have been handed down and entrusted to the Church. It is necessary that Christians believe in and follow this tradition as well as the Bible (Luke 10:16). The truth of the faith has been given primarily to the leaders of the Church (Eph. 3:5), who, with Christ, form the foundation of the Church (Eph. 2:20).


 ここで目に付くのは、①私たちが手にする「本としての聖書」に先行して「口伝で伝承された教え」が存在したこと、②その「使徒的伝承」が主に教会指導者たちに委ねられた、とする理解です。

 つまり「聖書と言う本」が権威化する前に既に教会は存在し、使徒たちの教えを伝えてきた、と言う認識です。

 同様の認識は当然ながら「正教会」にも見られます。
 聖書という神の啓示の書は、「聖伝」の中にあります。聖書は「聖伝」の一部です。「聖伝」を、聖書に書かれていないその他の記録や伝承と見なしてはいけま せん。聖書と「聖伝」という二本の柱があるのではなく、「聖伝」という一本の柱の中に聖書は含まれているのです。聖書は「聖伝」から生み出されたもので す。これとこれが聖書である、と決めたのは「聖伝」です。いくつもの文書の中から聖書と認めた(「正典化」と言う)のは教会です。聖書が先にあって教会が 生まれたのではありません。しかしその聖書は、「聖伝」の中で最も重要であり、最も大きい位置付けがなされます。「聖伝」が生み出した聖書は、その後の 「聖伝」を基礎づけるものとなりました。つまり、ある教えや考えが「聖伝」として正しいか否かは、聖書という規準に基づいて、聖神の導きによって、合議の上、判断されます。(日本正教会「聖伝」
(歴史的に教会が聖書に先行するという事実と、「権威」として聖書(と公会議)が「聖伝」に対しても機能しうると言う弁証法的関係が述べられてバランスされ ているこの定義は、もともとの「伝統的な解釈」ではなく、もしかしたら多少近代化(プロテスタント化?)されたものかもしれませんが・・・。何はともあれ 正教会の「聖書観」はこのテーマの範囲を超えていますのであくまでサイドノート。)

さて引用の続きです。
 「聖書のみ」は聖書の自国語への翻訳とも相まって、人々の手に聖書を取り戻し、広くキリスト教の本質への意識を覚醒させ、教会の浄化にも大きな力を発揮 しました。しかしその一方で、聖書のさまざまな(中には新奇な)解釈が出現し、その対立がそのまま教会の分裂につながったりするなど、弊害もありました。 それゆえ、カトリック側には聖書を強調することへの警戒感が強かったのです。
 しかしその警戒感から聖書を敬遠し過ぎたため、近代においてはカトリックの聖書研究はプロテスタントに大幅に遅れをとるとともに、カトリック信者はほとんど聖書を見たことがないという、嘆かわしい状況になっていたのです。
ここに見る「人々の手に聖書を取り戻し」たと言うプロテスタント宗教改革の貢献は、カトリック教会が現在進めている刷新運動の一つである「人々=信徒も教会の大切な要素である」と言う教会観から見た時に言えるものなのではないかと思います。

 プロテスタントの「万人祭司」や「個人的聖書解釈権」ほどラディカルなものではないにしても、教導権に対しある意味で「平準化」の方向が出てくることが予感されなくもない。

 ただプロテスタントの負の遺産である「解釈の多元化による果てしない分裂」の状況を招くことだけは避けたいでしょうから、「信徒の手に取り戻された聖書」と、その「解釈の問題」についてはカトリック教会はきっちり区別して対応することと思われます。

(※次回に続く)

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