「難易度ランキング」導入後6番目の記事です。
(5)福音主義と古代キリスト教の遺産を回復する
現代リバイバリズムに疑問を投げかけたのはキリスト教史家たちだ。
福音主義者たちは自ら進んでキリスト教の全遺産(中世から16世紀スペイン神秘主義も含む)から学ぼうと努めてきた。
あるキリスト教史家たち(リチャード・ラブレイス、マーク・ノル、ブルース・ヒンドゥマーシュ、等)は リバイバリズム前史、特に18世紀信仰覚醒運動に着目した。
トーマス・オーデンやロバート・ウェバーらは、原初期キリスト教会が用いた典礼やカテキズム、使徒教父たちの知恵からもっと学ぶべきだと主張した。
《結語》
これら(1)~(5)に挙げた要素がベースとなって、福音主義者は「回心と救済」を深く再考するようになってきた。
しかしその中でも特筆すべきはレスリー・ニュービギンの存在である。
インドへの宣教師であり司教でもあったニュービギンの神学的思索は、西洋と東洋の交差するところに形成されたものである。
彼は回心とは実に複雑な体験で、単に頭のことだけでなく、倫理や共同体も視野に入れたものであり、精神の一大変革、キリストの支配、洗礼と聖餐による信仰共同体への参与なくしてはあり得ない、と主張する。
ニュービギンの最も根本的な洞察と確信、それは「教会」とは宗教的な商品やサービスの提供者ではなく、「宣教する民」なのだ、ということだ。
集合体としての教会は能動的ディサイプルシップを通して神の国を体現し、神の国の存在を証しする。
だから教会は自己膨張に多大な関心を払うのではなく、教会が置かれた社会や文化と言う具体的状況の中で福音を生きることを目指し、そのようにして神の国を中心に据える。
なぜそのような思考になれるのか。
ニュービギンの考えでは、人はその棲息する共同体の中から得られた特定の理性の伝統を身に着ける、からである。
福音的なキリスト者とは、未だ神を知らず回心していない者たちが、悔い改めと信仰によってキリスト・イエスの許に来ることを熱望する者たちである。
私がここまで語ってきた「大きな変革のうねり」は、何らこのビジョンとコミットメントを変えるものではない。
しかし大事なのは、たとえ“この確信”は変わらないにしても、「四つの法則」、「どうすれば天国に行けるか」を導く質問シート、「これらの証拠は評決を要請する(筆者注:ジョシュ・マクドウェルの有名な伝道メッセージ書)」でさえも、人々が真に回心する決定的ファクターではない、ということだ。
人々が回心するのは、復活して神の右の御座に挙げられた主と出会い、神の恵みを体験することによるのだ。
果たして私たち福音主義者はそのような心の促しに耳を傾け、キリスト中心の礼拝と神の国を目指した宣教に専念できるだろうか。
神の時、神のわざを本当に信頼できるだろうか。
もしそうなら、私たちはより聖霊に信頼するだろう。
恵みの真の手段であり、人を回心に導く「宣べられた」神のことばである聖書に信頼する教会となるだろう。
だから、「どのような教会になるべきか」がとても重要になる。
今まで述べてきた「回心と救済」に関するパラダイム・シフトに直面している福音主義は、今大事な岐路に立たされている。
主にある「会衆」とは一体何か、がとてつもなく重要な問題となっている。
三位一体なる神、神の恵みの手段(聖霊と聖書)、そして「神の国」を目指す宣教論、それらを背景とした《ダイナミックな教会論》を編み出せるか否かが、この一大変革の海を航海する福音主義者たちの進路を決定する鍵となる。
※以上で「福音のパラダイム・シフト」と題して簡略に訳してきたスミスの論文紹介は終わりである。次回、個人的所見を述べて最終回とする。
これまで、本シリーズの日本語での解明を、本当にありがとうございました。まだ充分把握できる展望も、能力も足りないですが、おおまかな理解ができました。
返信削除またしっかり、このシリーズを学びなおして、友人たちと、分かち合いたいです。
最終回も楽しみです。でも、ご自分のペースでゆっくりなさってくださいますよう。
クレオパさん、お励ましありがとうございます。
返信削除次回、所見で申し述べることになると思いますが(ちなみに難易度は5となる予定)、なかなか大変でした。
名前の挙がった方々は殆んど存じ上げていますが(少なくともお名前までは)、少し強引にこの《マインド・マップ》に入れてしまおうとしている観が無きにしも非ず。
各分野でそれぞれの人物がどう関わっているのかを説明しないと、やはり「列挙」だけの印象になってしまいます。そこが残念な部分です。
と、それは所見で言えばいいことでした。
ではご忠告通り「マイペース」でやらせていただきます。