2013年7月31日水曜日

(5)今「頭にあること」をメモ

昨日は某キリスト教出版社で編集をしているFさんが主宰する読書会に出席。

毎月1回のペースでやっている。
過去にもこのブログで何回か取上げた。

昨晩は夏休み前と言うことで、早めに切り上げ、その後夕食を共にした。
参加者、筆者も含めて8名。

今読んでいる本は、チャールズ・リングマの『キャッチ・ザ・ウィンド』


ざっくり言うと、「教会刷新」についての本だ。
Changeと言う語が毎章タイトルに出てくる(全9章中8章)。

オランダ出身の方なので英語が母語ではない。
時折分かりにくい言い回しに遭遇し、皆でどう言う意味かを議論する。

昨日は第7章、The Vision For Change、の後半。
(念のため。英語の原書読書会ではない。主宰者のFさんが事前に訳して配布する。)

毎回思うのだが、社会学を結構読んでいる著者なので、そちら方面から来る教会や聖書への洞察は時に鋭いものがある。

しかし、「あるべき教会」の姿を(新約)聖書から提示しようと言う時に、しばしば著者にとって「こうあるべき」と言うフレームに合うように聖書箇所が抽出され、またそのモデルに合う様に解釈される傾向がある。(その点釈義的に物足りない感じを度々抱いてしまう。)

特に問題と感じるのは「制度的教会(institutional, structural)」をかなり固定的に捉える傾向があることだろうか。

「制度的教会」の問題点を指摘しようとする余り、たとえ理想とする「神の民」(すべての信徒が聖霊の賜物で相互に仕え合い、社会に対して開かれ奉仕できるような共同体)であっても、institutional, structuralな問題(例えば『人間関係に普遍的に絡みつく力・支配の問題』)が避け得ないことを見落としがちな印象を受ける。

ちょっと脱線するかもしれないが、リングマにとって「制度的教会」の重要な一側面である「職制」に関し、パウロの牧会書簡について挿入でこうコメントしている。
ただし牧会書簡を除く。それらは二、三世紀の特徴になっていった制度化の強調をすでに反映している。
ここで話題が所謂パウロ書簡の高等批評問題に脱線(でもないけど)。(擬似パウロ書簡参照)
参加者の多くは「福音派」で育っていて余りこの問題に慣れていない・・・云々みたいな話が結構続いた。
で新約聖書学を専攻しているメンバーによるミニ・レクチャーがなされた。

リングマは「より平準化した人間関係を示唆する教会」モデルを新約聖書から見ようとしているためこのような挿入コメントを付けて(牧会書簡を除外して)「新約聖書のモデル」としたいのだろうと思う。

しかし下手に首を突っ込むと「新約聖書正典問題」に入り込むことになるので挿入コメントに留めてそれ以上の言及を避けたのだろう。

ただこの「制度化(職制化)された教会」の問題を考えるには、牧会書簡の高等批評問題は避けられないのではないだろうか。

高等批評で「疑似パウロ」性を判定する「規準」が、牧会書簡の内容が「教会の制度化」を反映している、という見方がその一つだからだ。

福音派も「高等批評」に対してはアレルギーを持ってきたので、なかなかリングマが目指そうとしている「教会像」を取上げるにはこの点でも難しい面があるかもしれない。

ただ正典論や聖書解釈論等複雑な問題にも絡むことになるかもしれないが、リングマの「聖霊の賜物を根拠とした自立した信徒たちによる教会」、即ち彼が新約聖書から取り出そうとしている『ピープル・エンパワーメント』というのは面白い「教会刷新」アイデアではなかろうか、と思っている。

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