2013年7月17日水曜日

母の召天から4年が

7月17日は母、小嶋寛子(旧姓山本)の召天日だ。

早いものでもう4年になる。

子供の頃は天真爛漫だった。(子供誰もみなそうかもしれないが。)

二度のガンの手術の後、最後は緩和病棟で息を引き取った。

最後の方の約1年は抗がん剤の副作用との格闘で大変だった。

やはりいつも傍にいる家族の者としては心理的負担が大きい。

(それが一因で筆者も心身のバランスを崩してしまい、今に至っている。)

筆者の子供の頃の思いでとしては、母に叱られた時のことが一番かな。

普段は温和で優しい表情の人だった。

垂れ目、垂れ眉、八時20分だ。
それが叱るとなると全く形相が変わる。(般若とまでは行かないが。)


子供心にその「表情の落差」にどう対応していいか戸惑ったこともあったと思う。

女学校止まりの教育だったが、聡明さを見て取ったのか、祖父(山本岩次郎)は母に(米国)留学をさせようと思ったことがあるとかないとか・・・。

よく言えば、好奇心旺盛、才気煥発。
しかしあれも手を出しこれも手を出し、最後には収拾がつかなくなる。

整理整頓は苦手だった。
筆者もそれに似て「ずぼら」「適当」「大雑把」。

天真爛漫の一面は、学校の宿題忘れても、あっけらかーんとして(小)学校に行ったという。
筆者もその傾向は丸ごと踏襲し、小学校時代にまともに宿題をやった覚えがないほどだ。

そもそも「宿題とはやるもの」と言う考えがなかったと思う。
少しは良心に痛みを感じたかもしれないが、過ぎれば簡単に忘れたので、毎日宿題をせず登校出来たのだろう。

最後はベッドの上で、改築中の「活水工房」のことを「あーした方がいい、こーしたらどうか」などとスケッチを描いたりしては話してくれた。

実は母がイメージしたもののうち一つはそうなった。工房側(16畳分スペース)長辺に見せ梁が通っているのだが、それが母の描いたスケッチと酷似していたのだ。
(もちろん設計士のアカデメイア今井俊介氏はそのことを丸っきり知らない。)


もう4年なのか、まだ4年なのか・・・。


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