2012年7月23日月曜日

オウム真理教ノート 2012/7/23

現在図書館から借りているオウム関連の書籍は2冊。

まず紹介しておくとシステマティックに「オウム真理教」を扱っているのが情報時代のオウム真理教
一応最初の2章と、あと関心ありそうな部分をつまみ食い的に読んだ。情報的には結構詰まっていそうなんだけど、読んでいくと物足りない感じがする。

この本のデパートメント的な内容はここで目次を見ると分かります。

もう一つは森達也のAと言うドキュメンタリー映画を製作した時の経過を綴った本でそのタイトルもやはり『A』。

これは面白かった。

地下鉄サリン事件後の段階で「オウム=殺人教団」のような既成概念で報道がなされていた時、そのような枠組みを取っ払って、「信者の日常」をドキュメントしようと思いついたのは森達也が最初だったと言う。

どのようにドキュメントするか、森がその対象のキーパーソンとしたのは、当時オウムの広報部副部長だった荒木浩。
森は彼こそが(上祐と比較して)教団と社会との接点を繋ぐ言語を模索するコミュニケーターと見立てたのだった。

森自身も自分の主観で「信者の日常」を切り取る視点をもがきながら試行錯誤するわけだが、その「繋ぎ役」としての焦燥や苦悩が荒木と重なるのだった。

対象との適度な距離感を模索しながら森はオウムの信者を追う。越えられない壁、伝えきれないオウム信者の日常を感じながらも、対象に迫ろうとするドキュメンタリー監督の懊悩が読んでて伝わってくる。

「オウムを理解する」と言うことは果たしてできるのだろうか。
信者が言うようにオウムの宗教体験を、修行を、すれば見えてくるものがあるのだろうか。

「了解可能性」と言う問題を頭の隅で考えながらとにかく被写体に迫る。
森の発見の一つは「情」を共有する人間同士と言うことがあった。
しかし撮る方と撮られる方の緊張関係を放棄するわけではない。

読んだ中で少しメモした箇所は、荒木のオウム入信のきっかけについて。
荒木の大学(京都)に講演に来た麻原が荒木の目に、「・・・どんな意地悪な質問にも尊師は逃げないんですよ。きちんと正面から答えていて、ああこの人は本物かもしれないと思ったんです」と映ったのだと言う。(96ページ)

また、「破防法弁明で麻原の陳述に立会人として参加した浅野教授の話では、最後に発言を求められた麻原が、公安調査庁受命職員に向かって、『破防法を適用しなさい。しかしオウム以外の団体には今後絶対適用しないで欲しい』と述べた」と言う下り。(104ページ)

それと(森が考えた)「しかし、残された信者、逮捕された信者が、今もオウムにこだわり続ける理由は解かなくてはならない。理由はきっとあるはずだ。・・・彼らが今もオウムに留まり続ける理由、そのメカニズムは、オウムの内ではなく、オウムの外、すなわち僕らの社会の中にある。」(113ページ)

と、こんなところか・・・。

森も感じているがオウムと(メディアを通して)それに対峙する(日本)社会は、「合わせ鏡」のようなものではないのか、と言うこと。
一方で宗教組織の中で思考停止して「自分の言葉」を失っている信者たち。
しかしもう一方でテロ事件に対して苛立って思考停止して同様の報道を繰り返すマス・メディア。
思考停止で共通する二者。

先日の加藤周一の分析ではないが、オウムは(第二次大戦)戦時中の皇国日本の戯画、にも通底するかもしれない。

「オウム真理教を巡る冒険」はまだまだだ。


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