特に「サリンガス製造」の目標が「70億人を殺戮できる量、70トン」と紹介されていたことに衝撃を受けたことである。
オウムの教義が折衷主義で、荒唐無稽で、と言うことは大方の人がそう感じるだろう。
ただその教義内容がどんなものだったかと言うことを別にしても、サリンガス散布を実行し、実際に12人を殺害し、何千人もの重軽傷者を出したと言う事実は見過ごしに出来ない凶行であった。
事件から17年たまたま特別指名手配中の残り2名が逮捕され、また少しオウム真理教へ関心が集まっているようだ。
筆者も言ってみれば野次馬的回顧者の一人に過ぎないだろう。
でも17年前と違って今回は「弱小宗教教団」が「終末(ハルマゲドン)シナリオ」を現実化しようとした過程を何とか理解の射程に取り込みたい気持ちが強くなったのである。
17年前は事件に驚愕するだけで、殆んど究明したい気持ちは出てこなかったが、今更ながらだが「その気になった」わけである。
図書館から借りてきた、鷲巣力編「加藤周一自選集第十巻(1999-2008)」(岩波書店、2010年)に、『オウム真理教遠聞』(1999年)と『「オウム」と科学技術者』(2004年)と言う二つの文章が収められている。
『オウム真理教遠聞』には次のような疑問が投げかけられている。
①オウム真理教の教義と大量殺人の行為との関係
②信者の中の科学技術者たちがなぜ「非合理的な指導者に帰依したのか」
③オウム教団は孤立した現象なのか、それとも世界に類例のあるものなのか
加藤は自らの「科学的合理性」の限界と「宗教的精神現象」が科学から独立した現象であるとの観点から疑問点を整理しているが、とりわけロバート・リフトンの『終末と救済の幻想ーオウム真理教とは何か』 (岩波書店、2000年)を参照しながら思索を進めている。
リフトンはオウム現象を「マンソン一家」(1969年)や「人民寺院」(1978年)や「天国の門」(1997年)に比較対照されうる、と見ている。
しかし加藤はオウム現象は「1930年代から1940年代にかけての日本の狂信的軍国主義の戯画化」として比較対照する。
加藤の関心は科学的な思考や合理的思考を投げ打って狂信的な妄説(神風による米国爆撃機墜落、グールーの空中浮揚)を受け入れる条件とはどんなものか、と言うことに向けられる。
①科学技術の目的を定めるのに「実証的接近法や論理的思考」が通用するとは限らない。
②科学によって実証的に得られる知識外のことには「非科学的命題を受け入れて、先へ進むほかない。」
③科学技術の専門化により専門外のことに対する「理解への努力の放棄」、「合理的思考と実証的態度の忘却」が習慣化する。「科学技術の時代は、必然的に『オカルト』『超能力』『UFO』の流行する時代である。」
『「オウム」と科学技術者』でも加藤の論考の矛先はオウムを戯画・縮図として見る国家レベルの非合理的行為遂行に取り込まれる科学技術者の問題である。
東アジア全域への国家神道の強制、ヨーロッパ全土からのユダヤ人の一掃、全知全能とされる独裁者の下での一国社会主義建設、そしていくら探しても見つからぬ大量破壊兵器の脅威を除くためのイラク征伐・・・・・・。このような「集団の非合理性と科学技術の合理性」とは同関係するのか。
①集団の側は目的遂行のため科学技術者を必要とする。
②科学技術者の側は合理的思考の「専門化」と「個室化」。「研究の究極の目的は専門領域外にあるから、それがどれほどばかげたものであっても、それを合理的な立場から批判することがない。」
このような関係の上にオウム事件は成立した、と加藤は見る。
再発を防ぐためには、「合理性の個室と非合理な信念の個室との障壁をとり払えばよい。そのためには科学的個室で養われた合理的思考を、いつどこでも徹底的に貫くほかないだろう。」
これら加藤の論考は「国家による馬鹿げた蛮行に知らず知らずのうちに科学技術者が取り込まれる危険」に対する警鐘と対策ではある。
しかし、「オウム真理教」のようなカルト的宗教団体が発生してくる社会的土壌に対してはどうだろうか。
そこには加藤が指摘しているように、「科学技術の時代は、必然的に『オカルト』『超能力』『UFO』の流行する時代である。」という状況がある。
なかなか難しい時代である。
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