先日「オウム真理教への一視点」と題して一文書いた。
オウムについての著書を一冊紹介するのと、NHKによるドキュメンタリー構成された「オウム真理教問題」を振り返る番組を引き金にして書いた。
(※筆者の住む豊島区の図書館には紹介した本がないのでまだその本は読めていない。
その間に久保木牧師のブログでその本の読書感想が紹介されている。先を越されてしまった。)
事件から16-7年経って特別指名手配容疑者が次々逮捕され、一応の区切りが付いたところで事件を改めて振り返る動きが少し出ている。
筆者も改めて「オウム真理教」とは何だったのか、考え始めている。
そんな折、7/1朝日の朝刊の『ニュースの本棚』で中島岳志による「一から読むオウム」と題した書評文が出ていた。
「オウム」に対するこちらの感覚が少しずつ先鋭になりつつあるところだったので興味を持って読んだ。
オウムに関する本を幾つか紹介してくれたのは有難いのだが、内容的にもう一つぐっと掴むものがなかったような気がする。
取り上げられた本を順に紹介すると、
①森達也「A3(エースリー)」 (2010年)
サリン事件の原因を麻原個人の特質に求める傾向に対し、森は麻原に従った「弟子たちの暴走に着目する」。「森は麻原を免罪しているのではない。麻原に罪を還元することで、オウムを他者化してしまうことを恐れるのだ。」
②島田裕己「オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか」 (2001年)
「島田が言うように、オウム事件は日本社会に生きながら、社会の在り方に違和感を持つ人間の無意識の願望を象徴するものだった。しかし、それがなぜ殺人という暴力に行きついたのか。プロセスは理解できても、その構造は不明瞭だ。」
③宮台真司「終わりなき日常を生きろ」 (1998年)
「宮台曰く、ハルマゲドンのような大きな変革など、もうやってこない。大切なのは永遠に輝きを失った世界の中で、パッとしない自己を抱えながら、腐らずにまったりと生きていくスキルである。輝かしい未来への幻想を捨て、終わりなき日常を戯れながら生きる知恵こそが必要とされる、と。」
この他にも簡単な紹介つきだけの本が三冊ほど紹介されているが省略する。
中島の感じではこれらの本はそれなりにオウム事件を解析する示唆を与えてくれるが、(中島にとって最も関心の高い、そして筆者の関心とも重なる)なぜ殺人にまで至ったかの構造的解明は与えられていないようだ。
オウムを生んだ(宮台が指摘した)社会的空気は依然としてある。オウム事件は更に追及されなければならない。「オウムは未決のまま、漂流している。、しかし、事件は風化し、忘却の淵に追いやられる。私たちは、もう一度、オウムと向き合う必要があるだろう。」、と中島は結んでいる。
かつてハンナ・アーレントは「アイヒマン裁判」から『悪の陳腐さ』と言う観察を報告した。
オウム事件はまだその「悪の正体」を見据えようとするところまで解明の射程は届いていないように感ずる。
疑問に思う側が納得できるような「サリン等による『大量殺戮』を意図し、実行した者たちの意思」を論理的、構造的に解明しきることは期待できるのかどうか分からない。
しかしどこまで出来るかは別にしてそれはなされなければならないだろう。
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