2012年8月6日月曜日

ピスティス・クリストゥー

パウロ研究においては有名な釈義的問題の一つが、ローマ人への手紙やガラテヤ人への手紙などに出てくる「ピスティス(信仰)・クリストゥー(キリスト」)だ。

今年の注目すべき神学会議であった、セント・アンドリュース大学でのパウロのガラテヤ人への手紙とキリスト教神学(2012年7月10-13日)でも、リチャード・ヘイズとジョン・バークレーの間で議論があったことをティム・ゴンビスがブログで紹介している。

リチャード・ヘイズと言えば、The Faith of Jesus Christでこの「ピスティス・クリストゥー」論争をもう一度パウロ研究の中心に持ってきた学者だが、そのタイトルが示すように「ピスティス(信仰)・クリストゥー(キリスト」を「キリストの信仰」と伝統的に『目的所有格』で訳されていたのに対し『主格』を主張した。

以降「ピスティス・クリストゥー」を主格に取る研究者達が大勢を占めているようだ。

読者の方でまだこの議論について聞き及んでいない方には『目的所有格』で訳されるのと『主格』で訳されるのにどれだけの違いがあるのかまだピンと来ないかもしれない。

ガラテヤ2章16節を例に取ってみよう。
けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法 の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。(新共同訳)
「キリストへの信仰」と訳されているのが「ピスティス・クリストゥー」なわけだが(実際にはこの箇所ではピステオウス)、信仰の対象(目的格)としてキリスト、と訳されているのが分かる。
所謂宗教改革の神学原則である『信仰義認』に関わってくるので解釈上重要な意味を持ってくるわけである。

しかし主格に訳すとどうなるのか。
「キリストの信仰」によって私たちは義とされる、となるわけである。私たちの主観的(決断的)信仰がポイントなのではなく、キリストご自身の「信仰」が私たちに義をもたらす、と言う理解に変化する。

では「キリストの信仰」とは何か。
主に英語圏の研究者たちが議論をやっているので、英語の表現を用いれば、the faithfulness of Christ、と訳されることが多い。

少し意訳すれば、
キリストがみ父の御心に(十字架の死にまで)忠実に従ったその信仰の故に、人は義とされるのだ。
と言う理解になるわけです。

日本語の公用語聖書では「ピスティス・クリストゥー」を主格に解釈するものはまだないですが、2016年には新共同訳も新改訳も新しく改定される予定ですが、あるいは従来の『目的所有格』解釈に対して『主格』解釈が採用されるかもしれません。

でも公用語聖書ですから多くの人が親しんできた『信仰義認』の理解を大きく変えることになる翻訳は避けられるかもしれません。
「注記」ぐらいでとどめられるかもしれません。


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