2011年5月16日月曜日

『教会における聖書の解釈』①

既に、連載ではないがと断って、この教皇庁聖書委員会による文書にコメントすることをお約束してあった。
これが第一回目となる。

最初の印象はそのボリュームである。
ゆうに一冊の本になるだけの内容であるから、つまみ食い的にコメントするだけでは不十分であろう。
荷が重いが文書の目次に従って順次感想を述べていくことにしよう。

筆者はこの文書の和田幹男神父による邦訳英訳の両方を参照しながら進めていくつもりである。断りがなければ引用は和田神父のものを使うが、時に英訳も適宜引用するかもしれない。

《教皇庁聖書委員会の文書への序》
1993年当時、枢機卿であったヨセフ・ラッツィンガー(現教皇ベネディクト16世)による短い文章だが、この文書の意義を簡単に理解させてくれる良い序文だと思う。

教皇レオ13世の1893年の回勅『プロヴィデンティッシムス・デウス』 から始まり、教皇ピオ12世の1943年の回勅『ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ』へと、カトリック教会の聖書学における“近代化”即「聖書の歴史的批判学的方法」が一定の留保をつけながら次第に積極的に取り入れられ、その路線は第2ヴァティカン公会議の1965年、神の啓示に関する憲章『デイ・ヴェルブム』において一層強化された次第が簡潔に述べられている。

しかしこの後の30年間の聖書学の“進歩”は新たな聖書学の評価と聖書解釈への指標を要請する事態となったことを指摘している。
興味深いのは今回はこのような文書を「教導職の一環」としてではなく、教会の指導的立場を自覚した聖書学者たちの委員会にその責務が委託された点ではないかと思う。

次に導入部について簡単にコメントする。

導入部
A.現在の問題点

この部分では、古来聖書解釈の問題は認識されていたが、現在は学問的方法も多岐にわたり、それがもたらす混乱も生じていることが指摘される。
例えば、歴史批判的学問方法、《通時的》研究方法に対して、《共時的》研究方法(「哲学的に、心理分析的に、社会学的に、政治的になどと聖書本文を現在の時点に置いて問う傾向」)が競合するような状況である。
さらにこのような学問的論争の結果、信仰に否定的な側面を醸成するという指摘も出てきた。
学問的聖書研究はキリスト教的生活の促進ということになれば、その性格として不毛である。それは神の言葉の生ける泉に、より容易く、より確実に近づくようにする代わりに、聖書を閉じた書にしてしまい、その解釈はいつでも問題とされ、技術的な洗練を必要とし、これにより一部の専門家に保留された領域にされてしまう。
要するに「聖書を解釈する」ということが学問的にしろ、より素人的な「霊性的(主観的)」なものにしろ、「混乱」と言う問題を引き起こしている。その状況に分け入り今まで積み上げた学問的獲得を失うことなく、しかしその限界を冷静に指摘し、「聖書解釈の問題」に交通整理をしよう、と言うのがこの文書なわけである。

これはカトリック教会だけでなくプロテスタントにおいても同様である。ただ聖書の学問的研究に関してプロテスタントの方がより開拓的であり急進的だった歴史がある。

B.本文書の目的
このような状況で委員会がこの文書で目的としたことは
・・・人間的であると同時に神聖な性格をもつ聖書に、できるだけ忠実に解釈するようになるため、いかなる道を取るべきかを指摘すること・・・聖書本文に含まれるすべての豊かさを効果的に活用するのに貢献するものとして受け容れられ得る諸々の研究方法を検討することである。こうして神の言葉がその民の一人一人にとって常にいっそうその霊性の糧となり、信仰と希望と愛の生活の泉となり、また全人類にとって光となるように(啓示憲章第21項)するためである。
聖書の「神言性」と「人言性」の両面を認識し、どのようにしたら単なる言葉の解釈ではなく、信仰者の糧となり、世界に対する啓示となれるのか、「諸々の研究方法」を評価しようと言うわけである。

「神のことば」としての聖書の受け止め方はプロテスタントもカトリックも共有するものであり、その意味でこのような基盤で書かれたこの文書はプロテスタントの読者にも有意義である。

筆者は以前共観福音書講解説教で「ルカの福音書」を取り上げた時、アンカー聖書註解シリーズのジョゼフ・フィッツマイヤー教授の註解を用いさせて頂いた。どうもフィッツマイヤー教授はこの文書の作成に関わった一人のようである。
それで改めて思うのだが、彼の註解はまさに「歴史的批判学的方法」を綿密に用いたものであった。ただ彼の註解を使っている中で感じたのだが、「過去に遡ってその意味を確定する」ことと、その「現代的な意味を語る」こととは教授をもってしてもなかなか容易ではない、と言うことである。筆者の印象ではフィッツマイヤー教授の註解は大半が前者に紙面が用いられた感が否めない。

振り返って、筆者の説教の事を顧みても、やはり同様な印象である。
神のことば」である聖書を「現代」に語られた言葉として解き明かすのはなかなか容易ではない。

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