2011年5月25日水曜日

キリスト教世界観

数年前、ある方とのメールの交換でキリスト教世界観について以下のような文章を書いたことがある。

《引用始》
「キリスト教世界観」というのは私見では、「『啓蒙主義以降、ヒューマニズムに侵食され外見はキリスト教に見えるがその実は啓蒙主義・人文主義を駆動力とした文化的キリスト教』つまり世界観的な次元では啓蒙主義・人文主義が中心になっているキリスト教に対抗して出てきた動き」と感じています。
端的には19世紀末から20世紀初頭の新カルヴィン主義(アブラハム・カイパー、ハーマン・ドーイウェルト)らの運動です。
彼らが「世界観的な次元でもキリスト教に貫かれた思想と文化を(衰退していく西洋キリスト教文明に)回復しよう」としたものが大雑把な意味で「キリスト教世界観」と言っているものだと思います。つまりキリスト教思想運動としては一世紀経っています。
世界史的には「西洋キリスト教文明」は明らかに衰退しており、ほぼ「脱・キリスト教文明」段階に入っていることは誰もが認めるところではないで しょうか。つまり新カルヴィン主義のルネッサンス運動はオランダとその文化圏に一時期影響を及ぼしたけれども大勢は変えなかったのだと思います。

アメリカ福音主義でも表面上の福音主義の文化的復興・隆盛の陰に隠れて余り意識されてこなかった「キリスト教国アメリカにおける脱キリスト教化」 が懸念されるようになり、キリスト教系大学などで「キリスト教世界観」が主張されるようになっています。ようやく啓蒙主義・人文主義の影響をキリスト教的 にどう整合させるかと言う思想的大問題が「大学教育」レベルでの切実な問題になっていることが伺われます。
アメリカでは福音主義の影響が表面上は大きかったのでこのような問題をまともに受け止めてこなかったのではないかと思います。

しかし、いずれにしても、新カルヴィン主義運動は啓蒙主義・人文主義に対する哲学的アンチテーゼとして『聖書の思想的枠組み』の中に「キリスト教 世界観」の祖形を求めた観があり、必ずしも原始キリスト教の福音そのものを動力とするに至っていないのではないか。まだ思想的哲学的アンチテーゼとして対 抗しようとしているのではないか、と私は思っています。

しかしここに来て「聖書学」が没落していくキリスト教アカデミズムに結構深い影響を与えてきているのではないか。そのような1人が私が関心を持って追跡している「N.T.ライト」です。
彼のようなアプローチまで来ると、『聖書の思想的枠組み(創造・堕落・贖い)』の中に哲学的に対抗しうる「世界観的何か」を抽出しようと言う神学 的関心・解釈を越えて、より本格的に「使徒的福音」そのものの世界観的構造に遡ろうとしている、と見ています。アプローチ的には歴史学ですが、その関心は 原始福音を基点と考えるキリスト教です。だから歴史学的にならざるを得ないわけです。途中にギリシャ的二元論の影響や啓蒙主義以降の文化的キリスト教の影 響が入っていますから・・・。
詳論を省いて言えば、新カルヴィン主義のキリスト教世界観とライトが目指すキリスト教世界観の違いは、前者がアンチテーゼ的であったのに対し、ラ イトの方は「原始キリスト教の福音、使徒的福音」そのものの回復・修復を目指している、ということでしょうか。そして使徒的福音が提示するキリスト教世界観が現代でも、いやむしろポストモダンの時代に復権すべきアプローチではないか、と言う主張であると思います。
《引用終》

先日、筆者の属する教会連合の牧師たちの集まり、研鑽の時があった。
発表者は最近の自身の牧師としての働きを省みながら、特に「説教」に対する自信のなさを反省していた。そしてその原因を「福音理解」の甘さにあるのではないか、これまでちゃんと「福音」と言うものを(神学的に)突き詰めてこなかったからではないか、と述懐していた。

筆者も似たような経緯を通ったことを、リバイバル・ジャパン誌で文章にしたが(当ブログ掲載記事「ご案内」参照)、他にも似たような悩みの中を通っているキリスト者があるいはいるかもしれない。
そのような方々に新カルヴィン主義の「キリスト教世界観」的アプローチは一つの提案になるだろう。
そしてN.T.ライトの使徒的福音の世界観を歴史的に再構成するアプローチは非常に魅力のある試みではないだろうか。

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