2016年6月19日日曜日

(4)『霊性』を神学する 4

さて、続きをば・・・。

前回は以下のように予告して終わりました。
次回はバースが指摘している現象を、もう少し歴史神学的に緻密に考証している動画と資料を紹介したいと思います。
バースとロブ・ベルは「もう今の時代は、天空高く、遠くに離れた神ではなく、近くにいます神だよね」と共鳴していたわけですが、従来の「垂直方向」で概念化された神観から、「水平方向」で概念化された神観への移行・・・という問題提起のもとに(インタヴューで)討論していたわけです。

その辺のことを「霊性」問題との関わりで考えていた時、リチャード・マウの動画に出会いました。
Engaging Religious Pluralism
 


リチャード・マウはこの動画で、「宗教多元主義」状況での、他宗教とのエンパシック(共感的)な取り組み方・・・を講演しているのですが、その中で「モルモン教」との取組みを例に出します。

ネイサン・ハッチ(改革派のアメリカ宗教史家)の本からモルモン教の設立者ジョゼフ・スミスの生い立ちなんかに言及していますが、当時(19世紀初頭)のアメリカの教派乱立状態と競合状態の中で、人々が宗教に求めていたのは「本に書いた啓示」というよりは「(霊によって)繰り返し与えられる新しい啓示」であったのではないか、と指摘しています。
 
さてしばらく後のくだりの中で、ジョゼフ・スミスと並んで、ほぼ同時期北米の同地域(ニュー・イングランド)に現れた、似たような霊性的傾向を象徴する二人の有名人へと話を進めます。
 ・ラルフ・ウォード・エマーソンの「超越主義」
 ・メリー・ベーカー・エディーの「クリスチャン・サイエンス」
all shared "common religious motivation. Each of them wanted to bring the realm of divine nearer to ... us [humans] , to reduce the distance between god and human beings.
宗教観も、さらにいえば形而上学的神観も、大きく異なる三者(スミス、エディー、エマーソン)が、しかし「神と人との間の距離の近さ」を主張した背景には何があるのか・・・。

マウは、それはニューイングランド「高カルヴィニズム」の神学的宗教性、つまり

it often fostered an unhealthy spiritual distance between Calvinist deity and its human subjects

この「カルヴィニズムの遠くはなれた神」に満足できず、「霊的な渇き」を埋めようとして新しい宗教的試みが起こったのではないか、とマウは推理しています。

この「霊的距離感の問題」について、特にニュー・イングランド・ピューリタニズムの神学的強調である「神の主権性」について、当時の正統的カルヴィン主義神学の中に二つの対照的な傾向があったことを、ジャニス・ナイトの『マサチューセッツの正統主義(神学)』を参照して論証します。

Janice KnightOrthodoxies in Massachusetts: Rereading American Puritanism
 

一方で正統派のウィリアム・エームズのように「神の主権」を「主人としもべ」のような権力関係のイメージで捉えるものと、他方リチャード・シブス(Richard Sibbes)のように「力の神」というよりも「憐れみの神」「親しい(intimate)神」のイメージの方向で捉えるものと、正統的カルヴィン神学(orthodoxy)が一つではなく複数(orthodoxies)あったことをヒントにしています。

さて、マウのトピックは「霊性神学」ではなく、どのように「他宗教との対話」をするか、ということですが、「キリスト教正統主義」しかもそれがある程度「正統的カルヴィズムの神観」を要因として「新興キリスト教」の流れができたとすると、「神学」類型と「霊性」とのあいだにある程度の相関関係を推理してみることは妥当ではないかと思います。

恣意的に「神学的内容」を変更することは妥協・迎合となりかねませんが、少なくともある種「神学的強調」が(たとえば「神の主権」)偏ったもの、バランスの欠けたものになる時、それに呼応した「霊性的欠乏感」を生じさせるとも限らない、ことは考えてみた方がいい。そう感じました。


(次回へ)
※もう少しこのテーマを追ってみます。

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