2013年9月4日水曜日

(4)カトリックと聖書⑥(完)

とうとうここまで長引かせてしまいました。

最初に、Vital編集長・世古淳さんに掲載をお願いしてから2ヶ月が経ってしまいました。


ここのところ少々夏ばてかすっかり勢いがなくなってしまっています。(ぼやき)

さてとにかく気合を入れてこのシリーズを終わらせたいと思います。


『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議  (2013年6月)「神との出会いの場」の残り(最後)の部分を引用します。

 しかし公会議は、一部の保守派が望んだ、「啓示の源泉は聖書と聖伝の二つである」という言い方には組みせず、むしろ啓示の源泉は神であって、この二つはそこから流れ出て、一体をなすものだとしています。これが意味することの一つは、私たちが出会う、また出会わなければならない、「神のことば」とは、聖書の字面ではなく、キリスト自身だということです。だから聖書を読むということは、「お勉強」をするということではなく(それも必要でしょうが)、人によって、また同じ人でもその時の状況によって、違った見え方、聞こえ方のする聖書のことばを通して、神様が今、「私」に語りかけるかもしれない、そのような出会いが待っているかもしれない空間に足を踏み入れる、ということなのです。
 公会議はこのように、神様との貴重な出会いの場のひとつを、私たちの信仰生活に取り戻してくれたのです。     
 世古 淳(せこきよし) (Vital編集長)
近代的(と言う表現にも些か問題があるかもしれませんが)聖書学に対する取り組みはプロテスタントに遅れを取ったかもしれませんが、第2ヴァチカン公会議以降のカトリックの歴史批評学の分野での聖書学との取り組みは貧しい筆者の知識から言ってもなかなかのものであります。

レイモンド・ブラウン神父、ジョセフ・フィッツマイヤー神父、ジョン・P・マイヤー神父などの名前がすぐ挙がります。

しかしある意味後発だからこそ、「聖書の権威」を高調するプロテスタントが近代化の過程で格闘するはめになった「聖書の闘い」のような、字義主義的聖書主義の問題や、聖書解釈を巡る哲学的問題の整理などを慎重に進めることができたように思います。

もちろん何の論争もなかったということはないでしょうが、プロテスタント内での「聖書論」を巡る激しい闘争は避けてこられたのではないでしょうか。

聖書そのものを『神の啓示』とほぼ同一視するかのように思われる極端な「聖書主義(ビブリシズム)」を念頭に置きながら、啓示の源泉を「神/キリスト」に遡らせ、聖書と言う文書群を客観視する視点を確立しようとしていることが上記の引用にも現れていると思います。

このような態度は「穏健な聖書学の学風」を持つ英国聖書学者であるN.T.ライトにも共通します。
ライトはその著書、The Last Wordで、聖書の「間接的な権威」を次のような表現で定義しています。
the phrase “authority of scripture can make sense only if it is a shorthand for “the authority of the triune God, exercised somehow through scripture.” (Last Word, p.23.)
(「ライトの聖書観」についての筆者のある場所での「発表」については、ここにまとめておきました。)

既にこのブログでも取上げましたが、
『教会における聖書の解釈』① 
『教会における聖書の解釈』② 
『教会における聖書の解釈』③ 
『教会における聖書の解釈』④ 
『教会における聖書の解釈』⑤ 
『教会における聖書の解釈』⑥ 
「聖書の字面」と表現されているように、「聖書を取り戻す」過程で克復しなければならない問題として、聖書の歴史的・文化的背景を無視するような、平板な解釈をする『ファンダメンタリズム聖書解釈』が反面教師となっているように思います。
 
カトリックが『ファンダメンタリズム聖書解釈』をかなり問題視していることについては、①と⑥に書き留めておきました。

以上、最後は息切れで青息吐息のまとめになってしまいましたが、改めて記事の全文掲載と論評を快く許可してくださった世古さんに感謝します。
 








0 件のコメント:

コメントを投稿