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2018年7月10日火曜日

今日のツイート 2018/7/10

「英語圏」限定ではないのですが、米国カンザス州カンザス・シティーで開く「神学会義」に誰か3人神学者を招くとしたら???

ということでツイッターによる市場調査・意見集約をしている感じのツイートです。

多分に人気投票みたいな雰囲気ですが・・・。



リストアップを思いっきり「古今東西」に拡散させたリプも多少あります。

英語圏の方々がどんな(現存)神学者の影響下にあるかが少し分かるような気がします。


2017年3月9日木曜日

今日のツイート 2017/3/9

デーヴィッド・コンドン(この記事でも紹介しました)が「ツイッター神学校」というのを始めました。


第一回目は合計50個のツイートです。

テーマは「伝統(tradition)」

主に北米における福音派の神学的動向を幾つかの主要な要素(「聖書無誤論」「文化戦争」)を軸に分析し、プロテスタントの「反・伝統」的な性格が(今や)伝統に傾斜・回帰し始めている「神学的現在地点」を捉えています。

そこで「伝統」とどう対峙するか、という問題提起にルドルフ・ブルトマンの「ケーリュグマ的視点」を参照しています。(ツイートでいうと#41~#50)

非常にコンパクトにまとめられていて参考になります。
※しかし筆者の個人的な印象から言うと、分析と現状把握(#6~#40) は優れていると思いますが、「ブルトマンの扱い方」(#41~#50)に移行するにはまだかなり距離があるように思われます。

いずれにしても、(筆者の勝手なレッテルですが)「ポスト福音主義」の若手神学者の台頭株の一人と目されるコンドンの「神学的問題の捉え方」は傾聴に値すると思います。

2016年7月1日金曜日

今日のツイート 2016/7/1

日本でも「聖書」を題材にした「カードゲーム」が出来ましたが、アメリカの方ではゾンダーヴァン社が「神学者」のトレーディング・カードを「教会史を楽しく学べます」と売り出しています。

MH氏は「ざーっとキリスト教の歴史を並べながら勉強するのには、とっても便利。自分は興味しんしんだけど、このカード上にない神学者がいても怒らないように。」と紹介とコメントをしています。

それと比較するとこれは「現代の神学者」版かな・・・。

2016年5月29日日曜日

(3)アリスター・マクグラスのユーモア

本来なら「英語圏神学者」シリーズで取り上げてもいいはずですが、何しろ日本では翻訳書も多いしわざわざ紹介するまでもないと思い、こんなタイトルの記事になりました。

Why Reason Isn't Enough: The "Big Picture" of Faith   (動画)

(1)自身の洗礼について(0分30秒過ぎ辺りから)

  マクグラスが招かれて講演している神学校(※1)がバプテスト派なのを受けて、
「私はアングリカンですが、実は幼児洗礼で浸礼(total immersion)を授けられたのです。それはいわば事故でそうなってしまったのですが、長い話を簡単に言うと、主任司祭の方がパーキンソン氏病で、私を落っことしてしまったんですね。・・・」

(この画像はマクグラス講演とは関係がありません。)


(2)子どもの頃、既に Father Christmas は実在の人ではないと知っていたが・・・(12分30秒過ぎ辺りから)

 無神論者リチャード・ドーキンスが「宗教は幼児時代のもの」という批判に絡めて、
 リチャード・ドーキンスは「歯の妖精(tooth fairy ※2)とか、ファーザー・クリスマスとかそんなものは幼児の頃の信仰で、大人になったらそんなものはもう信じないでしょ。宗教は、神とはそんなものです。」というが・・・。
 ところで私自身のことを語りましょう。私は既に四歳頃にはファーザー・クリスマスなんていないと知っていました。でも親にはそんなこといいませんでした。なぜかって、それには恩典(fringe benefits)が伴っていたからです。


※1 George TRUETT SEMINARY (ベイラー大学)

※2




あっ、もちろんユーモアの部分だけでなく、講演も全部見てくださいね。

2016年4月22日金曜日

(5)現代の英語圏神学者⑤、ダイアナ・バトラー・バース

このシリーズ、スタンリー・ハウアーワス 1、(ハウアーワス 2 ハウアーワス 3)、クリスチャン・ワイマン、そしてディヴィッド・ガシー、ジョン・B・コッブ Jr. と既に4人取り上げた。

実は適当な女性神学者はいないかなー、と5人目の候補を探していた。

神学者として「ヘビー級」な方を念頭にしていたが、路線変更して「ポピュラー」な方にした。


というのもこの方、ダイアナ・バトラー・バース はデューク大で博士(宗教学、アメリカ宗教史)をやった方ですが、既に著作数も多くあちこち講演にも招かれているポピュラーな方なのです。

特にヨーロッパに続いて、今や数値的には北米もキリスト教が(ということは宗教も)衰退を始めているとの観測が強まる中で、自分のアカデミックな背景(大覚醒運動史、あるいは『信仰復興運動』史)を用いながら、かなり楽観的というか、積極的な未来を描いて伝えているからです。(だから講演者として引っ張りだこなのでしょう。)

現代(あるいはポストモダン)においては、「(既成)宗教」対「スビリチュアリティ」と対立的構図で捉えられる傾向にありますが、彼女は両方ともヴァイタルな要素として捉えようとしているように思います。


彼女の「アメリカ宗教/霊性に対する楽観的観測」のベースになっているのは継続して繰り返される「信仰復興(リヴァイヴァリズム)」の歴史ですが、数年前に出版された 
Christianity After Religion: The End of Church and the Birth of a New Spiritual Awakening


の種本になっているウィリアム・マクラフリンの Revivals, Awakenings, and Reform に基づいた観察・観測のようです。

このブログでは余り書かなくなった英国新約聖書学者のN.T.ライトも『クリスチャンであるとは』第2章<隠れた泉を慕って>で書いているように、本来人間の宗教性・霊性は「世俗化」のような歴史的変化によって一方的に消えるようなものではなく、(むしろ啓蒙主義体制によって公共空間から人工的に隔離され見えなくなった状態にされてきた)様々な形で「噴出している」と見ています。


今では啓蒙主義思想を継承するドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスも、この「脱世俗化」の動向に注意を払っています。(この記事やこの記事をどうぞ)

しかし「政教分離政策」が徹底してきた近代(主義)国家では、公共空間に「聖性・宗教性・霊性」がいきなりカムバックするということは難しいでしょう。(世俗主義とのせめぎ合いが続くと思います。)



少し脱線してしまいましたがバースに戻ると、彼女の関心は「公共空間における宗教・霊性の回復ありやなしや」の方面ではなく、どのような宗教性・霊性として「再解釈」されるのか、と云う問題です。

彼女の最新著作Grounded: Finding God in the World-a Spiritual Revolution


では「『神』の概念構造」の変革をめぐって発言しているのですが、これまたライトの提示する「ポストモダンキリスト教」とある部分呼応するところがあります。

ライトが『クリスチャンであるとは』で導入している「天と地が重なり合う/インターロックする」ような《神観》を提示するのに対し、バースは「(近世までの「『天』と云う最上階層に遠く離れた神」に対して)「ここに、わたしたちと共におられる神」を提示しようとします。

バースの提示する神観は恐らく「リベラル神学」の伝統に由来するものと思われますが、しかしポストモダンの状況を捉えて発信されているニュアンスを聴き取ることが大事ではないかと思われます。


実はバースは(どちらかというと)福音主義的信仰で育ったようですが、ご他聞に漏れずその信仰内容に関して言うと「遍歴」してきたことを自著でも語っていたように思います。

この「信仰遍歴」と云うテーマは筆者の見るところ「現代神学」を語るときに不可欠な要素になって来ているように思います。
(かような理由で《宗教と社会 小コロキアム@巣鴨》ブログで新研究トピック: 信仰進化と題した記事をアップしました。)

[追記 2016/8/10]

 神学者の書斎が見られるのは面白いと思うので、最近アップされたので紹介。



ではダイアナ・バトラー・バースの紹介はここまでにして、別の連載シリーズ「霊性を神学する」で彼女の「神観」を取り上げたいと思います。

2016年2月22日月曜日

(5)現代の英語圏神学者④、ジョン・B・コッブ Jr.

実は「今日の散歩のお供」とでもして紹介しようと思ったのだが・・・。

最近シリーズものを次々始めて中途半端になりつつあるので自粛する。

でも「現代の英語圏神学者」のとするには少し「過去の人」過ぎると思っていたのだが・・・。

これを聞いて「えー、90歳で、こん生トークができるのか」、と驚いたわけである。



このプログラムなのですが、筆者は音声(mp3)ファイルを別な場所(HomebrewedXnty)でDLしてMP3Playerに入れて散歩する間聞いたわけです。(実はその話を聞いた教会のある方からはやめた方がいいですよと言われたのですが・・・。)

MCのトリップ・フラーは最近よく名前を聞くようになった人ですが、要するにポップ(ヒップ?)カルチャーに合わせて「神学」という堅いイメージのものを紹介している人ですね。

しかもかなりヘビー級な神学者も。

ジョン・B・コッブ Jr.のファン応援団長を自称しているくらいですから、ハンパではない思い入れがあるようです。(その辺も聞いていて面白い。)

一応プロセス哲学(A.N.ホワイトヘッド)やら、プロセス神学やらの話題になるわけですが、プログラム・タイトルが『いかにして近代形而上学は「神」を殺したか』となっているように、デカルトから始まる哲学史・神学史のすごーく簡単なストーリーにまとめています。

チャールズ・ダーウィンがデカルトと並んで「エポック・メーキング」な人物としてストーリーが構成されていて、他にヒュームやカントが役をつけられています。

しかしインタヴューの最初は最近刊の、Jesus' Abba: The God Who Has Not Failed
の紹介から始まっています。


途中面白く聞いたエピソードとしては:

(1) El Shaddai を Almighty God と訳した KJV は大変な損害を与えた・・・
(2) (上記の関連で)ジョン・ウェスレーは Almighty Godを使っていない・・・(注、コッブはメソジストノ神学者でもあります。)
(3) イエスの「神性」と「人性」を説明するのにギリシャ語の「ヒュポスタシス(substance)」を使ったのは間違いだった・・・(注、新約聖書学者のラリー・ハータードがほぼ同意のことをこのポッドキャスト で言っています。約3/4過ぎた辺り)

などですが、とにかくリベラル・サイドに整理して余り注意を払ってこなかったので、へー結構「分かること」言うではないですか、と再認識させられました。

トリップ・フラーが紹介の中で「エコ神学者のパイオニア」や「文化多元主義状況での神学を開拓した」とか評価していますが、やはり一目おくべき方なのかなと思わせられました。

2015年12月10日木曜日

(5)現代の英語圏神学者③、ディヴィッド・ガシー

このシリーズ、スタンレー・ハウアーワスに続いて、二回目にクリスチャン・ワイマン取り上げてから数ヶ月が過ぎました。

[ 2016/5/26追記 があります。スクロール・ダウンしてください。]

日本ではほぼ無名でもそれなりにネーム・バリューのある方は沢山いるわけですが、あえて「福音派」の中で、油が乗っているような方を早めに取り上げようと思い、このたびの選択になりました。

ディヴィッド・ガシー(David P Gushee)

は、現在マーサー大学「神学と公共」研究所所長でキリスト教倫理学教授です。
キリスト教倫理学の諸問題やテーマを扱った著書も20冊ほどあるようです。

最近の動向としては、LGBTQ問題に対して福音派としては進歩的なスタンスをいち早く鮮明にしました。

またブッシュ政権下での「拷問」に対しても福音派として最初に抗議の声をあげ(5 Reasons Torture Is Always Wrong、クリスチャニティ・トゥデー誌、2006年2月)、その後も人権関連の諸問題と取り組んでいます。

また、北米聖書学会(SBL)と同時開催される全米最大の北米宗教学者・神学者団体、アメリカ宗教学会(American Academy of Religion)で今年副理事長に選出され、福音派の背景を持つ指導者として重要な立場にいます。

と言ったところは、この記事を書くためにネットでちゃちゃと調べた感じてすが、彼を最初に「レーダー」に感知したのは以下の動画でした。

ホィートン大学の神学会義(毎年開かれる)で、2013年は「キリスト者の政治行動(ポリティカル・ウィットネス)」がテーマで、ガシーもハウアーワスやマーク・ノルらとともに講演者として選ばれました。



この講演の冒頭で、プロテスタント福音派が「社会倫理」を議論する土台となる(権威ある)神学的伝統(教説や理論)がないことを指摘している。(カトリックの社会教説やプロテスタント・エキュメニカル陣営と比較して)

いわばちょっとした「キリスト教社会倫理・概論というか入門」となっている。(なかなか手際がよい)

とにかくこの動画でなかなか感銘を受けたのでした。

というわけでこの動画を入口に、ガシーが福音派として「社会倫理」「政治倫理」をどう構築しているのか、というのがちょっとした関心です。


《 2016/5/26追記 》
 ガシーの邦訳書の類はないだろうと高をくくっていたらありました。
 グレン・H・スタッセン/デービット・P・ガッシー『イエスの平和を生きる -激動の時代に読む山上の説教-』(出版社: 東京ミッション研究所)・・・教文館の方のリンク。
 

原書はKingdom Ethics: Following Jesus in Contemporary Contextみたいですね。

2015年6月14日日曜日

(5)現代の英語圏神学者②、クリスチャン・ワイマン

『英語圏神学者』シリーズの名誉ある(?)トップバッターにスタンリー・ハウアーワスを選んでからもう3ヶ月が過ぎました。

実際はその後、余録、と余録・続(完)、をアップしているので「開店いきなり休業」ではなかったのですが・・・。


今回選んだクリスチャン・ワイマン、Christian Wiman(1966- )は、「神学者」と言うカテゴリーには当てはまらないかもしれません。

だから「番外」でもいいのかもしれない。

しかし、問題はこれから紹介するワイマンのインタヴュー記事での発言にあるように、「現代」に神学(的なこと)を語れる資質として「詩人」の持つ意義は大きいのではないかと考えます。それでワイマンを2番目に持ってきました。

(実はごく最近彼のことを知りました。)


現代と言う時代

早速宣伝になって申し訳ありませんが、ようやっと出版に漕ぎ着けたN. T. ライトの『クリスチャンであるとは』の第1部は、ライトの「キリスト教入門」の文化的文脈である、ポスト・クリスチャン、ポスト世俗、ポストモダンを分析しています。

その上でキリスト教とのフレッシュな接点を探っていると思います。(このポイントについての簡単な紹介はこちらの記事をお読みください。)

現代の「霊性」の課題とは、特に西洋圏では、聞き慣れた「キリスト教言語・シンボル」を過去のもの(ポスト・クリスチャン)として現代を漂流する人たちが、その霊性の渇き(ポスト世俗)をどのように満たして行くのか(ポストモダン)・・・、とまとめることが出来るかと思います。

キリスト教圏の宗教遍歴

余り風呂敷を広げるのもなんですから、極近い例で言いますと、筆者が米国遊学中に学んだ先生たちの中で典型的なのは、「保守キリスト教信仰」→「信仰喪失」→「潜り抜けた信仰回復」のパターンです。

「潜り抜けた」とは上手い表現がないので暫定ですが、英語で言うとseasonedやweatheredと言うことばが少ししっくり来るように思います。要するに人生の波風にさらされて試されそれを乗り越えてきた信仰、といった感じです。


信仰を持つ者が「疑い」を抱え込み、苦闘の末一旦は信仰を放棄するが、別な経路から啓示や示唆を受けて新たに信仰に目覚める、と言うパターンです。


大事なのは、信仰を持つことによって抱え込むことになる「疑い」と真摯に向き合い、信仰内容に様々な問いを発しながら納得のいく回答を得ようと「議論した(reasoned)」過程の上で新たに信仰に目覚める、というダイアレクティック(弁証法的)な「信仰の軌跡」を刻まれていることです。

これは「最初の確信」をそのまま(殆ど疑問もなく)維持するスタティックな信仰とは対照的です。


具体例①・・・ロバート・ベラー(1927-2013)の場合は、途中マルクス主義に転向した後聖公会に回心します。(Beyond Beliefの序を参照。)


具体例②・・・レイチェル・ヘルド・エバンスの場合は、神学や教会の伝統を柔軟な形で受け止めるやり方で信仰回復し、今はやはり聖公会の信者になっています。

※もちろん信仰回復しない例(バート・イァーマンとか)や、他宗教へ改宗する例も沢山あるでしょう。(断定すると「沢山挙げてください」と言われると困るので。笑)

クリスチャン・ワイマンの場合



この動画ではワイマン自身の『回心体験』を(18分過ぎから)語っています。

バイブル・ベルトでほぼ100%宗教的な環境で育ち、大学以降文学と深く親しむ中で様々な「無神論・懐疑主義」と接する中でたましいの遍歴があったようです。

そしてある種の「回心」に導かれると言う経過を語っています。

ワイマンのケースは典型的ではないかもしれませんが、ある程度、「保守キリスト教信仰」→「信仰喪失」(ここの詳細は不明)→「潜り抜けた信仰回復」のようなたましいの軌跡であったように思います。

そう言う意味でワイマンは以下のように言えるのだと思います。
“I have no illusions about adding to sophisticated theological thinking. But I think there are a ton of people out there who are what you might call unbelieving believers, people whose consciousness is completely modern and yet who have this strong spiritual hunger in them. I would like to say something helpful to those people.”

「信じていない(と思っている)実は信仰者」への神学者として詩やエッセイを書いて行くワイマンに注目したいと思います。

では次は誰を選ぼうか・・・。(乞うご期待。)

[追加、2015/06/15]
※ワイマンがビル・モイヤーの番組で自身の(白血病の一種)ガンについても語っています。




[追加、2016/04/22]
※「信仰遍歴」についても語るインタヴュー記事。

2015年4月13日月曜日

(5)現代の英語圏神学者①、スタンレー・ハウアーワス余録・続(完)

思わぬ展開で、『余録』とその『続編』と言うおまけが付いてしまった。

余り関心のない読者にはマニアックな話題かもしれないがご容赦を。


今回、完結編ではハウアーワスとヨーダーの関係を取り上げる。

現在中断しているのだが、3年ほど前から出席している「ヨーダー読書会」を通して、The Politics of Jesus、を始め何冊かヨーダーの本を読んでいる。

ヨーダーについては、そう言うわけで、「進行中の人物」でもあり、また「(既に故人であるが)渦中の人物」でもあるので、この記事であまりあれこれ書くことは控えたい。

今回はただハウアーワスとの繋がりで浮上する幾つかの「点と線」について・・・。


ご存知のように、ハウアーワスはヨーダーとともに平和主義者であり、ハウアーワス自身は合同メソジストのメンバーでありつつ、神学的スタンスはメノナイトの伝統から影響を受けている。

ハウアーワスの平和主義神学に最も大きい影響を与えているのがジョン・ハワード・ヨーダーと言って差し支えないと思う。

・・・以上は「点」について。


20世紀の北米「神学と倫理」シーンにおいて、一個人が「平和主義者」であるか、それとも「義戦(正戦)論」に立つ、あるいは「現実主義」に立つ「戦争容認者」であるかは到底「イデオロギーを巡る対立的立場」で済まされる話ではない。

以下に紹介するハウアーワスの師匠(メンター)であった「ポール・ラムゼイ誕生100年記念」パネル・ディスカッション動画にある通り、多くの者たちは「平和主義者」として青年期を過ぎた後「現実主義者」に転向する(せざるを得ない)、と言う曲折を歩んでいる。


※3人のパネラーが、最初、三者三様の「ラムゼイ回顧」をするが、ハウアーワスがラムゼイ若かりし頃の「平和主義」シンパのエピソードを語っている。
 次に「平和主義者」だったジェフリー・スタウトが、イェール大神学部時代にラムゼイの本を読んで自身の平和主義理論武装を「ぶっ壊された」エピソードを紹介している。
※このスタウトの回想スピーチには、アカデミックな世界の人間模様についてかなり赤裸々で感情的なエピソードが含まれていて、幾らか内部事情を知っている者にとっては思わず「胸キュン」となる。筆者が見てきたユーチューブ動画の中でも「ベスト5」に入る内容豊かな一本。秘蔵版だ。

このスタウトの回想後、ハウアーワスが補足を継いでいる部分(35分40秒過ぎ)にヨーダー絡みのものが入っている。

ヨーダーが「キリスト教倫理学会」会長を務めていた時(1987-88)、晩餐会で「To Serve God and Rule the World」と題した(黙示録からの)会長スピーチをした。

ポール・ラムゼイが一緒に席についていたハウアーワス夫妻に、That man was hiding his light under a bushel. と評するコメントをした。

義戦論者で学会の重鎮であり、もう死期も近づいていたラムゼイが平和主義者ヨーダーへの賞賛の言葉として語ったこのコメントが、ハウアーワスには格別思い出深いものだったわけだ。

※ポール・ラムゼイ(Paul Ramsey)については神学遍歴⑨をご参照ください。
ちなみにそこで言及した「・・・デューク大学に寄贈された『ポール・ラムゼイ・コレクション』・・・」について、この動画でハウアーワスがその消息を紹介している。何とプリンストン大学も神学校も寄贈に応じなかったのでデューク大が頂いちゃった、とのことだ。へえー、そんなもんか・・・である。


議論を待つまでもなく、ヨーダーの神学的遺産はやはりThe Politics of Jesusなのだろう。以下にそのテーゼが要約されているように、イエスの倫理と教会論が一体となったキリスト教倫理へのアプローチは当時はユニークで画期的なものであったと言えよう。
His thesis, simply put but thoroughly and eloquently argued, was that Christian ethics begins not by finding ways to set aside the radicalness of Jesus' ethics, but rather by finding ways in community to take those ethics seriously. In other words, the church is to bear the message of the gospel by being that message.... (Mark Nation, John Howard Yoder: Mennonite Patience, Evangelical Witness, Catholic Convictions, p.25. からの引用。元はDavid Weiss, "In Memory of John Yoder...")
ヨーダーのインパクトは最近邦訳されたリチャード・B・ヘイズ『新約聖書のモラル・ヴィジョン』の


第3章「キリスト教倫理に対する史的イエスの意義」などでも取り上げられていますが、N.T.ライトとの関わりについては以下のように述べています。
 第3点ですが、ライトの研究にとって、イエスの関心を現実の世界史の中につなぎ止めることは本質的に重要です。ライトによれば、イエスが思い描いていた未来は、この世界から遊離した天国における彼岸的運命ではありません。それは、イスラエルの民の、この地上で継続する生における具体的な政治的未来なのです。
 その他の点でもそうですが、この点においてライトの構想は、ジョン・ハワード・ヨーダーが『イエスの政治』で描いた描写と深く結びついているように思われます。興味深いことにライトは、ヨーダーについて特に論じているわけでも、彼と対話しているわけでもないようです。(106ページ)
さてヘイズのこの観察にコメントするというよりも、ライトとヨーダーのアプローチに関する大雑把な印象として思うことなのだが・・・。

 ご存知のようにヨーダーはカール・バルトのもとで博士をやったのだが、ヨーダーにとっての「倫理」は教義学と倫理学のような関係(バルト)と言うより、もっとイエスの生とその延長と言うアナバプティスト神学的伝統に基づくものだったのではないか。

 その点においてライトの史的イエスの探求が歴史的・神学的・教会実践的総合の中で提示するあり方と、より近い相貌を帯びたのではないかと思う。

 最後にウォルター・ブルッゲマンとの絡みについても一言。

 ブルッゲマンが『預言者』から取り出そうとしている「モデル」は、「教会の文化幽閉」問題に対する批判であり、カウンター・カルチャー志向であったのではなかろうか。

 彼の場合は旧約聖書学者であったため『預言者』が最も有効なモデルとして提示されたのだが、ヨーダーの場合は『イエス(の政治)』の方が当然より高位のモデルとして位置づけられるだろう。
 
 (蛇足だが、ライトの場合は最早『イエスの政治』はモデルではなく、神の国宣教の終末的実現と、聖霊に推進された使徒・教会の遂行となるわけだろう。)


※長くなりました。これにて完。ようやく「二人目の神学者」を物色できます。

2015年4月6日月曜日

(5)現代の英語圏神学者①、スタンレー・ハウアーワス余録

このシリーズのトップバッターに「スタンレー・ハウアーワス」を選んだら、MH氏から以下のようなコメントとリクエストをいただいた。
ハウアーワス教授とペアで語られることが多いヨーダー先生、また、ハウアーワス教授・ヨーダー・ブルッゲマンの3しゃにかんするTaka牧師の整理が聞きたかったりして。

と言うことでどこまでできるかやってみましょう。

先ずは情報の少ない「ウォルター・ブルッゲマン(あるいはブリュッゲマン)」から・・・。


「ウォルター・ブルッゲマン」で記憶の糸を辿ると、アズベリー神学校時代のレイマン(Fred. D. Layman)教授の「聖書神学」クラス付近の記憶領域に入る。

神学遍歴⑤で『中間時代の神学』クラスについて書いたが、教授の名前は書いていなかった。
恐らくその時点でも忘れていたのだろう。

今回この件で名前を思い出そうとして一苦労した。レイマンを最初Lehmanで検索したのだが辿りつかなかった。

しょうがないので「こう言う機会だから、旧い講義ノートでも探してみてみよう」とあっちこっちひっくり返したら、何とか見つかりました。

『中間時代の神学』で書いたように、その頃の記憶では何と言っても「James Muilenburg」の印象が強かったようです。

(と、この時点ではまだ繋がっていないのですが、実はJames Muilenburgはウォルター・ブルッゲマンの師匠なのです。後ほど紹介。)

BT605: OT Theologyクラスでは、レイマン教授が指定した専門雑誌等論文から選んで、「梗概(シノプシス)」を書く、と言う課題があり筆者が選んだ中に、ブルッゲマンもマイレンバーグも見つかりました。
Walter Brueggemann, "The Kerygma of Deuteronomic Historian." Interpretation, vol. 22, no. 4, pp.387-402.
James Muilenberg, "Imago Dei." The Review of Religion, vol. 2, no. 4, pp.392-406.


さて、アズベリー時代に筆者はウォルター・ブルッゲマンをどう評価していたのか・・・。

簡単ですが、「まだレーダーの外の方」だったように思います。

かと言って無視していたわけではありません。
恐らくこの時期にThe Prophetic Imagination (1978年のペーパーバック初版)を購入していますから、それなりにその後の活躍を予感していたのかもしれません。

ヨーダーのThe Politics of Jesus (1979年のペーパーバック第6版)もこの頃買ったと思われますが、ヨーダーの方が「どう整理していいのか困る」と言う点では一枚上手だったと思います。



※せっかくですので、お世話になったレイマン教授のネットから入手可能な論文を紹介しておきます。


ウォルター・ブルッゲマンはNYのユニオン神学校で神学博士を修めますが、その指導にあたったのがジェームズ・マイレンバーグ教授でした。

なかなかの名物教授だったようで、アメリカの最も著名なキリスト者著作家の一人、フレデリック・ビークナー(Frederick Buechner)が「満杯の教室でまるで旧約聖書の世界がそこに出現したかのように“演じる”マイレンバーグ教授がいた」頃のことを回想しています。


※(興味のある方に)ブルッゲマンがビークナーをインタヴューしている動画


どうやらヨーダーのことを続けて書くには長い記事になってしまいましたので、「続編」で取り上げることにいたします。

2015年3月4日水曜日

(5)現代の英語圏神学者①、スタンレー・ハウアーワス

先の冬季オリンピックでスキー・ジャンプの葛西選手が「レジェンド」と騒がれていました。

普通は存命中はまだ「レジェンド」まで行かないものなのでしょうが、最近では物事の変化が早過ぎるので生きているうちでもどんどん「レジェンド」にしておかないと忘れられてしまうのですかね。

ところで色々連載(中断)中のもあるのですが、今度また「(現代の英語圏)神学者」シリーズを“適当に”始めようかと・・・。

そうですね、かなり偏見と独断による「この人の名前、覚えておくといいかも」と言った感じでしょうか。

中には著書が邦訳されている人もいますが、全然無名に近い人もいるかもしれません。(そこが却って面白いところかもしれません。)

で、トップバッターに選んだのは

スタンレー・ハウアーワス(Stanley Hauerwas)。

日本語で何か紹介しているのを探そうと、「スタンレー・ハウアーワス」で検索したところ筆者が書いたものしか見当たらないではないですか。

なるほど「スタンレー・ハワーワス」に変えたら出てきました。

なかなか日本語表記の問題は難しいですね。
一応英語圏でこの名前を言う時には「スタンレー・ハウアーワス」 の方が幾分近いですよ、とは言っておこう。

※このポストのタイトルもこれで行きます。検索に引っかからなくてもいいや。

ところでなぜハウアーワスがトップバターかと言うと、彼がちょうど旬なのです。

先ごろ(2013年)デューク大学神学部を定年退職なされたのですが、つい先日ハウアーワスが英国スコットランドのアバディーン大学でパートタイムで教えることになった、とアナウンスされました。

大学側の発表はハウアーワス教授を最大級の賛辞で歓迎しています。
つまり彼が来ることでアバディーン大学神学部はワールドクラスと言う箔が付く、と言うことらしい。

さて、これだけのキャリアの人を紹介しようとするとあれもこれも大変なので、ごく私的な紹介に留めます。

筆者が米国留学時からハウアーワスは既に評価されていたのですが、当時は必ずしも幅広く支持を得ていたと言うより、「キャラクター倫理」「共同体倫理」「教会論」等のアプローチをするキリスト教倫理学畑の人として際立っていた印象があります。

しかし筆者の個人的なイメージでは「主流ではなく、アウトロー的」でした。

その後彼が神学者としてアメリカの重鎮となるに従い、皆の見方が変わってきたような印象があります。

彼の神学アプローチの背後にある(神学者ではありませんが)重要な哲学者であるAlasdair MacIntyreも覚えておかなければならないでしょう。

特にマッキンタイアーのAfter Virtueは学際的な影響を及ぼした古典的名著です。


ハウアーワスがノートルダム大学にいた時、マッキンタイアーが同僚だったわけですが・・・。

さてそろそろ長くなってきたので、ハウアーワスがマッキンタイアーについて書いている記事を紹介して終わります。

Alasdair MacIntyre is also a constructive thinker who has sought to help us repair our lives by locating those forms of life that make possible moral excellence. 
(アラスデア・マッキンタイアーはまた建設的な思想家でもある。彼は建徳的指標が備わった「生の営み」がどこにあるかを示し私たちがそれらを再建する助けを提供しようとした人だ。)

(※何か半分はアラスデア・マッキンタイアーの紹介記事のようになってしまった。実はそれも目的だったりして・・・。)

と、終えたはずなのだが、ついでに読んだこの記事が面白かったのでオマケ。
(ハウアーワスの出生に関するエピソードについて。)

There are good reasons for me not to be a Christian. Hannah's Child begins with the story of how I came to be. My mother, who came from dirt poor Mississippi folk, and my bricklaying father married late. They had trouble having a child. My mother had heard the story of Hannah and Samuel, so she prayed that if God would give her a son she would give that son to God. That was a perfectly appropriate thing for her to do, but as I observe she did not have to tell me she had made such a promise. In particular, she did not have to tell me when I was six. That she told me was surely grounds sufficient for me to have nothing to do with Christianity.