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2018年9月6日木曜日

(3)主に神学ブログ、11

意外や意外「次世代教会」を展望して、が1~6まで続いている。

今回はちょっと休憩して久しぶりに「主に神学ブログ」をやってみたい。

こちらは1~10まで連載が終わっている。
念のために「1~8」までは、(2)主に神学ブログ まとめと展望で紹介している。
その後、「9」と「10」までアップした。


今回ほぼ2年ぶりの「主に神学ブログ」記事となるわけだ。

神父の放言
言いっぱなし。そんな風に気楽に語りたいもんじゃ。


とあるようにカトリックの神父の方のブログである。
アーカイブを見ると「2012年3月」から「2015年8月」となっていて既に終了したブログのようだ。

ブログ主の語り口にあるように、すでに引退したので後は(カトリックだけでなく)キリスト教界について言いたい放題語ろう、という趣旨らしい。

たまたま今日発見して10個くらい選んで読んでみた。
さすがベテラン神父、もうしがらみも余りなく、自由闊達にトピックを選んで語っている。
充分知らないことも、慎重にならず、自分の言いたいことをストレートに語っている。

そう言う書き方なので読んでいて肩が凝らない。
気軽に読める。

しかしなかなか啓発に富んだ放言にはしばしば頷かされる。

福音派の躍進

 カトリックの神父たちの中に「聖書学」が浸透してくるにつれ、批評学による懐疑主義の影響が大きくなり、そのことに反発を覚えているようだ。でこんな風に言っている。
福音派の人たちはそんな神学などお構いなしだろう。聖書内の疑問は、聖書内の記述の中で解決する。基本的にはそれでいい気がする。それが昔からの解釈のはずだった。
信じきっているがゆえに、聖書から得る力も喜びも大きい。信じるので神からの返事も大きいだろう。私にはそのように見える。
バブル神学の崩壊、2
 やはり懐疑主義的聖書批評学の問題を取り上げているが、このように釘を刺している。
聖書学はバランスが必要だ。バランスを取り戻せばよいものになるだろう。また、聖書を信じることなしに、聖書学は成り立たない。創作説というのはけっこう疑いや不信から成り立っている。創作説に安易に道を譲るのは、聖書に対する態度として間違っていないか。聖書を信じて読んだ結果、いろんな矛盾や疑いが出てくる、それを解決するのが聖書学のはずだ。創作説に道を譲りすぎるように私に見えるのが現代聖書学の趨勢だ。
興味深いキリスト教新興宗教 「キリストの幕屋」
 変わったものでは幕屋について書いているこの記事。全体に異端とか皆から眉をひそめられたりしているキリスト教グループに対しおおらかな態度で評している。
幕屋についてはこんな感じ。
大和魂、他宗教への敬意、ユダヤへの着目は、大変興味深い。これらはややもすると、キリスト教徒が敬遠しなければならないものと考える人が多いんじゃなかろうか。とりわけ日本では、前者2つは必要だとわたしは思う。手島氏は心から大和魂と他宗教を愛している。それはビンビンと伝わってくる。これがなければキリスト教は日本には根付かないと思われる。本物にもならないと思う。



恐らくもう帰天された神父の方なのだろうと思う。別に著書を出すこともなく、地道に伝道牧会された方なのだろうと推察するが・・・。



2016年11月16日水曜日

(1)去るブロガーに、オクることば

「去るブロガー」とは、主に神学ブログ 4で紹介したのらくら者の日記だ。

「・・・開始からおよそ8年という短い歳月でしたが・・・」とあるが、当ブログより2年先輩なだけでなく、「英国神学事情通」として貴重な記事を書いてきただけに残念だ。

新しい任地に着いて環境が整ったらまた何か別の形ででもいいので「発信」を再開していただけるとありがたいのだが・・・。

「のらくら者の日記」を通して様々な英語圏キリスト者・牧師・神学者・文化人等を教えて頂いたが、その中で思いつくまま挙げてみると・・・


 (1) ジョン・レノックス
 (2) ドナルド・カーソン
 (3) ロイド・ジョンズ
 (4) ジョン・ストット


などが思い当たりますが、もちろんもっともっとたくさんいるのですが・・・。

ただ、忘れたくない方が一人いるのですが、その方は日本人です。
 (5) 有賀寿
です。


のらくら者さんは有賀の著書『カゴの鳥と見るな』を福音派の禁書?というタイトルの記事で紹介しているのですが、筆者は残念ながらこの本を持っていません。


しかし紹介されている「見開きにある文章・・・」の中にある
・・・極めて多数の人は、いかさまな救いをつかまされたといえます。それでいて福音派のクリスチャンは、聖書がどう伝道を教えているか、主イエスがどう福音を語られたかについて、改めて学ぶ必要はほとんどないと思っています。非常にたくさんのクリスチャンたちは、伝道者・牧師・宣教師・外人講師の話をただ鵜呑にし、それが聖書の教えと一致するかどうかを調べようとはしません。そうする必要も認めません。 なぜか。それは彼らが「カゴの鳥」とされているからです。
という警鐘のコトバが依然として「効いている」ように思います。

この課題にもっと集中的に取り掛かかることが必要に思います。

さて、最後になりましたが、「オクることば」ですね。

カム バック! (多少遊ぶとこんな感じ)

2016年10月16日日曜日

(4)主に神学ブログ⑩

[2016/10/22 追記あり]

最近更新がめっきり減った。

JCE6(第6回日本伝道会議)での「N.T.ライトの義認論」という神学ディベートに準備段階も含めてほぼ半年関わったので、そちらの方のアウトプットで一杯であった。現在は休養中の感じである。

最初に「主に神学ブログ」を久々に更新するにあたっての簡単な説明の前に、更新きっかけとなったツイートから紹介して「イントロっぽく」始めることにする。

「へー(このツイートの主は)誰だろう」から、始まった。

「横レス(横からレスポンス)で聞いてみようか」
「DM(ダイレクト・メッセージ)で聞いてみようか」

・・・としばらく「誰なのか」サーチしてみたら案外早く見つかった。
神谷光信 (かみや・みつのぶ)
関東学院大学キリスト教と文化研究所客員研究員。
1960年、横浜生。修士(学術)。
専攻: 日本近代文学
と以上のプロフィールがあるブログ、
フォントネー研究院 (本のある生活)
が今回紹介する「主に神学ブログ」である。

このシリーズの過去記事①~⑧はこの記事にまとめてある。
最新⑨はこれ。(2015年6月28日)
専門から言って「主に神学」ではないわけだが、『キリスト教』で記事の数を見るとかなり書き溜めたようである。

筆者の興味で幾つか目を通したものを挙げてみる。

1. 信仰にとって、何が本質か

 「・・・洗礼の有無にかかわらず、神は、私を見ておられるであろう。私がキリスト者であるかどうかは、おそらく私が決めることではない。」

 日本の歴史的環境下、隠れキリシタンや無教会の伝統があるので、このような信仰論に類似か関連のある論考はこのブログでも幾つか取り上げた。

 ・「非キリスト者による信仰論」
 ・「生きる意味: 柳澤桂子」
 ・「若松英輔『イエス伝』」
 ・「『霊性』を神学する」シリーズ(1、2、3、4)

2. 加藤圭氏の論文「史的イエスの第三研究、その輪郭と妥当性」

 キリスト教信仰にとって「歴史は(そして史的イエスは)避けられない」こと、むしろ信仰構造的には歴史を避けることはグノーシス化することを指摘している、と云う点に共感なさっておられるようだ。

 加藤氏の論文がどのような研究と対話しているか分からないが、N.T.ライトを「史的イエス第三探求の旗手の一人」と紹介している筆者としては、カトリックの方では「史的イエス研究」に悲観的な岩島忠彦教授に対して好意的な見方を紹介しているものとして読んだ。

3. カトリック知識人の存在感

 戦前の岩下荘一以下、日本でマイノリティーのキリスト教知識人が論客として存在感を示していたのに、現在(2008年)70歳以下くらいで殆どカトリック論客がいないことを嘆いている。


さて神谷さんが加藤周一の「キリスト教信仰」についてどんな論考をするのだろうか・・・。

[2016/10/22 追記]

2015年11月29日日曜日

(4)タカ牧師のセブンー6

何と最後に「タカ牧師のセブン」を投稿したのは三ヶ月以上も前でした。

その間「候補記事リスト」はたまるばっかり。

でも少しずつ在庫整理するしかない。


1. The Problem of Irrational, Unteachable Christians
  『頑固でわからずやのクリスチャン、という問題』

 PATHEOSというブログを集めたサイトがあるのだが(右側コラムで言うとジーザス・クリードとかユーアンゲリオン)、同じ「福音派」カテゴリーにあるのがロジャー・オルソンのブログだ。カリスマ派の出自で、カルヴィニズムに対抗する論陣を張ることで知られる。
 日本では今年「反知性主義」が話題になったが、クリスチャンの中でオープンな議論を頑固に拒否して持論に居座り、馬鹿馬鹿しいと非難されても一向に構わないようなタイプの人たちのことを論じている記事。

2. Fundamentalists and Scholarship
  『根本主義者と学術研究』

 これも上と同じサイトにあるジェームズ・マグラスのブログ記事。
 熱心で敬虔なクリスチャンの中には「聖書の学術的研究など必要ない。自分はただ聖書を読むだけでいい。」などとうそぶく向きがあるが、その見識の浅はかさを「図」を用いて解説しているところが味噌。(誰か日本語に置き換えてくれないかな。)

 (『根本主義者がいかに学術研究に依存しているか』を示す図)

3. Chagall's Jewish Jesus
  『シャガールが描くユダヤ人イエス』

 ハシディック派ユダヤ人であるシャガールの絵画を解説している(動画)。
 ナチ政権下の1938年、シャガールはユダヤ人イエスを描くようになった。「ユダヤ人迫害は実のところクリスチャンの迫害に等しい。彼らのイエスはユダヤ人だから。」と絵画で訴えたのだ。

4. Are We Mormons a Cult?
  『モルモンってカルトなの?』
 モルモン教のライターは昔バプテストの信者との会話の中で「カルト」呼ばわりされたことがある。では、「カルト」とは何か・・・ポイントを挙げながら、該当する点、該当しない点、を整理してモルモン教がカルとではないことを弁明している。

5. 102-Year-Old Finally Awarded Ph.D. She Was Denied Under Nazis
  『102歳で、ナチ政権下で中断させられた博士号をついに取得』

   すごいです。もちろん視力等衰える中、仲間の助けもあり、オンライン情報を駆使して完成。取得の挨拶では「私のようなことをナチのために断念させられたりした方々のためにも」とその喜びを語っていたそうです。

6. 「相手の心に刺さる言葉はどう選ぶか」

 心に刺さるコトバは、ツイッターでフォローする某キリスト教雑誌編集長が使っていた表現で気になった。で、グーグルしてこの記事に。

7. 「井上達夫『リベラルのことは嫌いでも・・・』を読んでしまった」

 イスラーム研究がご専門の池内恵(さとし)東大教授のブログ記事。同じく東大教授の法学研究者井上教授へのオマージュを込めた著作紹介読書暦を綴っている。


2015年6月28日日曜日

(3)主に神学ブログ⑨

さてさて、昨日は米国で「同性婚」に関する最高裁の判決が出された。

このブログの読者はキリスト教関係の方が多いだろうと思うので、しかも「福音派」と呼ばれる立場の方が多いと思われるので、戸惑ったり、気が重かったりしていることと思われる。

(※ステレオタイプに理解されると多少不本意なので断っておくと、この問題は複雑で難しい要素があり、単純に喜んだり、腹を立てたりできないものと思う。)

この「主に神学シリーズ」を始めて気になっていたことがある。

それは「女性」の神学ブログをなかなか紹介できないでいたからである。

そう言うことで今回初めて女性による「神学」ブログをシリーズに加えることがほっとしている。


地の果てまで福音を

はKinukoさんによるブログだ。

どのような方かはよく知らないのであるが、どうも翻訳をなさっているみたいだ。

かなり頻繁に更新なさっている。

そしてカバーするトピックはかなり限られている。(殆ど遊びのような記事は見当たらない。)

特にパウロ書簡(Ⅰコリント11章1-16節)の「かぶりもの」について、驚くほど丁寧に追求されている。

「主に神学」という基準からいうと、まさにこの問題を聖書解釈、歴史神学、実践神学、と多角的に検証している点が素晴らしいと思う。


さて、冒頭アメリカ最高裁判決のことを持ち出したが、「性」「ジェンダー」をめぐる考え方や態度の混乱が続いているが、日本のキリスト教会においてもこれらの一連の問題に対する対応が緊急性を帯びて迫ってくるのではないかと思う。

筆者の見たところこのブログの立場は「保守的」、いやかなりの人は「超保守的」と捉えるのではないかと思う。

しかし、読んでいくうちに気がつかれると思うが、様々な検証の上に、このような立場を選び選択しようとする態度は、反対の立場の人にも理解されるのではないかと思う。

2015年5月11日月曜日

(4)タカ牧師のセブン-1

またまた性懲りもなく新しいシリーズをば始めます。

シリーズ名はトレヴィン・ワックスのTrevin's Seven/TGCからのパクリです。


近頃まとまった文章を書くのが面倒くさくなりました。

かと言って読んだものを紹介したい気持ちはあります。

簡単な紹介コメント程度で、幾つかまとめて、アップ・・・方式はやりやすいと思って採用します。


英語ものが多いと思いますが、限りません。

ジャンルも神学関係が多いと思いますが、限りません。


記念すべき1回目ですが、特にこれと言うわけではありません。

では前口上はその辺にして・・・。


1. 10 Things I Wish Everyone Knew About Jesus
  『イエスについて、これだけは知ってて欲しい10のこと』
  ジェームズ・マーチン神父による、史的イエス超入門(2014年11月)

2. The Good News Hasn't Changed But How We Proclaim It Must
  『福音が変わるのではなく、伝え方が変わるのだ』
  ジェームズ・スミス(カルヴィン大学哲学科教授)のによる「テイラーの読み方一例 」
  ポスト世俗化の宗教は『何を』ではなく『どのように信じるか』が問題だ。伝道、牧会の専門家たちは、テイラーのこの診断を見過ごしにすべきではない。(2014年11月)

3. The Backward Culture
  『退行する文化』
  福音の土着化によって、キリスト教文化が出来上がってきたのに、今やネイティヴィティーがパブリックから排除されたりしている。何と言う反キリスト教文化の動き・・・。とカトリックの方が嘆いておられます。 (2013年4月)

4. Christocentric Hermeneutic Part 1: Against Principlizing
  『キリスト中心的解釈論、パート1 原則化に抗する』
  女性ブロガーのレスリー・キーニーさんが、クリスチャン・スミスの『The Bible Made Impossible』が標的にしたビブリシズムの問題・・・即ち聖書をあたかも「真理体系のマニュアル」が如きものとみなして行ってしまう“科学主義”的な聖書解釈アプローチ。それへの修正案・対案として「キリスト中心的解釈論」を提示するにあたっての緒論・試論的な考察。(2011年11月)

5. Christocentric Hermeneutic Part 2: Can A Narrative Be Authoritative
  『キリスト中心的解釈論、パート2 ナラティブは権威となるか』
  キーニーさんの「キリスト中心的解釈論」を提示するにあたっての緒論・試論的な考察のパート2。ナラティブとしての聖書は「権威」として機能しうるか、の問題を論じる。(2012年1月)

6. 外国人に話しかけられた時の衝撃の一言
  ぐっと趣向が変わって、笑いもの。(Naverまとめ)(2012年5月)

7. [東京版2015年] 美味しいワンコインランチ特集 [秋葉原編/食べログ]
  食べる方も一つ。場所に関してはオススメと言うわけではありませんが。とにかくワンコインの魅力で。


  

2015年4月19日日曜日

(2)主に神学ブログ まとめと展望

暫く前「現代の英語圏神学者」シリーズを立ち上げたので、幾つかある「シリーズもの」を整理していこうと思っている。

今回は「主に神学ブログ」シリーズ。


このシリーズでは、日本語のキリスト教/クリスチャン・ブログから適宜選出して紹介している。

以下にこれまでの経緯概観も兼ねて、シリーズ開始からの記事を順に列挙してみる。

日本のクリスチャン・ブログ・・・このシリーズを始めるきっかけになった記事。

主に神学ブログ・序・・・単なる前置き。

主に神学ブログ 1・・・「どこかに泉が湧くように」(百姓とんちゃん)

主に神学ブログ 2・・・「教会・礼拝・聖書・説教・伝道・神学」(春原禎光すのはら・よしみつ牧師)

主に神学ブログ 3・・・「関口康:説教・神学・日記」(関口康牧師)※ただ「日記」に変名した模様。

主に神学ブログ 4・・・「のらくら者の日記」(H牧師)※2015年1月から更新休止中

主に神学ブログ 5・・・「自然神学・環境・経済」(LogosOfficeさん)

主に神学ブログ 6・・・「日本人のためのキリスト教神学入門」(佐藤優)

主に神学ブログ 7・・・「伊那谷牧師の雑考」(大杉至牧師)

主に神学ブログ 8・・・「鏡を通して」(山崎ランサム 和彦神学校校長)


神学の話題を取り上げるとなるとやはり牧師(元も含め5名)のブログが多いのかなー、と言うのがヒトマズの感想。

でも神学校教師や大学の神学部で教鞭を取っている方が、ブログで専門的なことを記事にしている、などとはあまり聞いたことはないし・・・。

この「まとめ」を記事にするにあたって《神学》 《神学校》 《神学者》 などで一応検索をかけてみた。(「主に神学ブログ」記事を書く時にやることなので、もう何度か繰り返しているのだが・・・。)

一応今回ヒットしたものの中から、二本書けそうな気がしている。


読者の方で、もし適当なブログがあったら教えて頂けるといいなー。


それでは乞うご期待!!


2015年3月29日日曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑭

こちらも久し振り。

たまたま今朝[注、もう書き始めて2週間が経ってしまいました]目にした記事が簡単で良かったので・・・。

ピーター・ライトハート(Peter J. Leithart)



はFIRST THINGSという"America's most influential journal of religion and public life"と自分で謳うほどのカトリック論壇誌でブログ(コラム)を持っている神学者です。

最近始めた「英語圏神学者」に加えてもいいかもしれませんが、コラムの記事は殆どが「短い断想」系でその点で少し規準に合わないかなと思いますので「英語圏ブログ」でご紹介・・・。

義のための器官
We die to sin in baptism, Paul says. Liberated from sin, we are to devote the members of our bodies to God and His righteousness. We already participate in Jesus' resurrection; His resurrection power is already at work in our bodies (Romans 6).
私たちはバプテスマにおいて「罪に死」んでおり、罪から解放された私たちはその体を神と神の義のささげものとする、とパウロは言います。私たちは既にイエスの復活に与っているのであり、その復活の力が私たちの肉に働いている、と言います。(ローマ人への手紙6章)

では「私たちの体・器官が義のための道具になっている」とは一体どんな感じのことを言っているのでしょう・・・とライトハートは問いかけます。


(と、ここで早くも道草)
何代か前の自民党首相で「言語明瞭意味不明瞭」 と言われた方がおりました。

単に日本語で読めるからと言ってその意味がいつでも明瞭か、と言うとそうではありません。

言葉の意味はその言葉だけでは成立せず、最低でも一つの文章と言う「意味の単位」に置かれた中で明瞭となります。
(実際には意味の単位はなるべく「大きく構える」ことが大切であることを、たった2回で中断してしまった『聖書入門』シリーズで書きました。特に「分かるようで分からない聖書入門、2」参照。)

小学校5年生で受洗した時に聖書をもらい、それから段々と通読も含めて聖書を読むようになったのですが、日本語で読めるということは聖書を理解する時にしばしば勘違いを起こしやすいのではないかと長い経験から筆者は思うのです。

単に字を読めたことを「理解」と勘違いしやすい、ということです。

通読などしていると、ほぼそんな感じで読んでいることがしばしばです。
理解しようとして読んでいないのですね。

理解するためには、読んでいる箇所をある程度意識的に「解釈」する(=意味を定める)必要があります。

これは訓練が必要です。
「一体パウロはここで何を言っているんだ」、と読んで分かったつもりにならないで、「意味を問う」ステップを作るのです。


(と、ここで本題に戻って)
「私たちの体・器官が義のための道具になっている」とは一体どんな感じのことを言っているのだ?

このようにライトハートが読者に「意味を問う」ているわけです。

ライトハートの提案は「体の器官」に注目して、聖書中に「文学的繋がり」を探す、と言う手法です。

言葉は文学(神学も文学ですが)的な表現になればなるほど、背景となる、あるいは参照枠となる他の文学表現があるものです。

パウロの書簡も含めた新約聖書の場合、最も緊密な関係にあるのはヘブル語聖書ですから、その中で類似の表現や思想を探して参照する、と言うのがオーソドックスなやり方です。

ライトハートが提案するのは詩篇15篇です。
15:1 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。

Our feet walk perfectly (v. 3)
 それは、完全な道を歩き、

and our hands work righteousness (v. 4).
 正しいことを行う人。

Our hearts are true (v. 5).
 心には真実の言葉があり

We don't misuse the tongue (v. 6).
 舌には中傷をもたない人。

Our eyes make appropriate judgments, despising a reprobate and honoring those who fear the Lord (vv. 9-10).
 主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び

Our tongues swear and we keep our oaths, even to our own loss (v. 11).
 友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
この後は「体の諸部分」から、その「延長」としての 「富の使用」へと移行する。

「義のために体の器官をささげる」」とは、利息を取ったり、賄賂を受け取ったりしない、と言う意味になります。
金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

※新共同訳から引用。





2014年12月17日水曜日

(3)主に神学ブログ⑧

ちょうど取り上げるのにぴったりのサイトが最近立ち上がった。

鏡を通して

は『聖書、神学、その他の随想』をカバーする、日本語のブログとしては割合はっきりとした専門ブログと言えるだろう。

英語圏では「聖書ブログ」「神学ブログ」などと分類され、その中でもさらに専門領域が細分化したブログが色々あるが、日本ではまだそこまでの専門化は到底望めないので、このような専門ブログが満を持して立ち上がったことは、オメデタイことではないかと思う。

ブログ主は、
山崎ランサム 和彦(Kazuhiko Yamazaki-Ransom)
  • 1970年大阪生まれ。東京大学教養学部卒、同理学系大学院修士課程修了。米国Bethel Seminary (M.A.T.S.)、Trinity Evangelical Divinity School (Ph.D.) 卒業。専門は新約聖書学。現在、リバイバル聖書神学校(愛知県新城市)校長。日本福音主義神学会中部部会理事長。
と博士課程を修められた専門家である。

「満を持して」と書いたが、このブログを立ち上げて、いきなり14回連載の使徒たちは聖書をどう読んだか(14) を次々アップされた。

このシリーズは連載(1)に説明されているように、日本福音主義神学会全国会議で発表された論文に基づくもので、一定の問題意識のもとに書かれたもので、(その意味では)単なる「聖書解釈入門」ではない。

(もちろんそのように読んでもいいのかもしれないが・・・。)

現代の福音主義キリスト教会には標準的な聖書解釈法があります。それは「歴史的・文法的方法」と呼ばれるものです。・・・この解釈方法を今一度見直してみようというのが、私の発表の論旨でした。誤解を恐れずあえて言うなら、このシリーズでは、「歴史的・文法的方法」が唯一の「聖書的」な解釈法なのか?ということを考えてみようと思います。

何はともあれ、充実したコンテントが次々アップされているようなので是非ご覧あれ。

2014年5月20日火曜日

(4)英語圏ブログ紹介⑬ ニア・エマオ

ただ今ブラウザー(ファイアー・ォックス)がクラッシュした後、再立ち上げでこの記事を書いています。
少し制限がある中での文章ですので、ご寛容のほど。

さて今回取り上げるのは、本日、5月20日を持って閉鎖となる「聖書ブログ(Biblioblog)」です。
Near Emmaus
(名称の由来は、ルカ24章の「エマオの旅人」から来ています。「近辺」というところも味噌ですが。)

ブライアン・ルポートが中心となって5年前から始めた「グループ・ブログ」が、本人が「余り興味を持てなくなった」と言う理由で閉鎖するそうです。

米国時間ではまだ暫くありますが、間もなく最後の記事がポストされて、閉鎖・整理に入るとのこと。

でも書き溜めた記事は整理されて今後も閲覧できるそうです。

さてブライアンは、まだ(新約聖書)学者ではありませんが、スコット・マクナイト、ニジェイ・グプタ、等、新約聖書学者でブログをやっている方々からも一目置かれる「情報通」です。

いち早く目ぼしい情報をアップしたり、書評を掲載したり(今はそれで忙しいようですが)、ネット界への貢献度はかなり高かったように思います。

そう言う意味では少々「バーナウト」気味になったのかもしれません。

別に浅田真央さんの「休養宣言」に時期を合わせたわけではないと思いますが・・・。

ブログ紹介(というより送別の辞でしょうか)ついでに、最近の記事を一本紹介。

最近「キリスト教神学」で言うと『キリスト論』が盛んです。

まだこのブログでは取上げていませんが、日本では『捏造された聖書』である程度名が知られたバート・アーマンの最近刊、How Jesus Became Godへの書評が福音派内からも幾つか出ています。

アーマンは元々は福音派の信仰から出発して、懐疑主義に辿りついた学者で、ルートは違いますが、『グノーシス福音書』の著者、ハーバードのイレイン・ページェルスと似た背景があります。

いずれにしても福音派内からはある種のバイアスがかかった批評(批判)的学者と見られています。
(しかしアカデミックな内容からは、バートン・マックなどとは一線を画す、それなりの実績を示していることでほどほどの尊敬も受けています。
N.T.ライトも2008年頃?だったかアーマンと討論しています。このリンク参照)

マイク・バードはいち早く反応し、How God Became Jesusを他の3人の学者たちの協力を得て出版しました。

筆者はバードは過剰にアーマンに反応しているな、との印象を持ちましたが、仲間内での書評は概ね好評のようでした。

しかしアーマンに対してアカデミックなレベルで公正ではない、と言う福音派内からのかなり厳しい批判的書評が「ストーリード・セオロジー」ブログ(未紹介)のJ・R・D・カークによって提出されました。(この記事)

と言うことでかなり遠回りになりましたが、「ニア・エマオ」ブログでもまたもう一本バード本批判の書評記事が出ています、と言うことです。

ダニエル・マクレラン(モルモンの背景の人かもしれません)が書いた記事です。
Bird, et.al, How God Became Jesus 書評、パート1

ゲスト・ポストとなっているので、ブライアンが要請したか、ダニエルの方が申し込んだか、・・・その辺のところはよく分かりませんが。(マクレラン本人のブログを見ると後者のようですね、多分。)


しかしまだ「パート1」なのに、閉鎖となってしまってマクレランさん残念でしたね。(余計なお世話ですね。)

2014年4月16日水曜日

(5)主に神学ブログ⑦

 こちらのシリーズも大分更新が停滞している。

 今回紹介するのは今最も旬な話題を取上げ、それを「サタイアー」を効かせた小説の形で表現し、しかも矛先を「キリスト教会の牧師養成問題」としてパロディー化すると言う、結構念の入った記事を発表し終ったところのブログである。

 伊那谷牧師の雑考は、日本同盟キリスト教団伊那聖書教会の大杉至牧師のブログ。

 大杉牧師とはツイッターで相互フォローしているが、自教会と教団の仕事でお忙しいのか、余りツイートにもお目にかからないし、ブログの方も(ちゃんと定期的に巡回しているわけではないが)それほど更新がなかったように記憶する。

 それなのに2014年4月、一挙にブレークしましたね。

 小説 冲方晴男(うぶかたはるお)牧師 1

 実は少し遅れて読ませていただいたのですが、改めて大杉牧師が「生命科学研究者」として仕事をしておられたことを再確認させられました。

 たまたまと言うわけではないですが、今回のオボカタ事件に関し人並み位の興味しかなかったのですが、伊那谷牧師の次の記事で眠っていたものを少し覚醒させて頂きました。

 問うべきこと

 筆者のアズベリー神学校時代の話、神学遍歴⑥、でも書いたように、「キリスト教倫理」のクラスで遺伝子操作技術(リコンビナントDNA)について小論文を書いたのですが、その後いわゆる「生命科学倫理(bioethics)」については休眠したままになっていました。

 今回の伊那谷牧師の記事で少し目が覚めた感があり、以下のようなコメントを書かせていただきました。
 多分初コメントとなると思いますが、一言。
 ご指摘の通り様々なレベルでの問題を内包していることはある程度分かります。(生命科学者や、牧師や、様々な立場で、この問題が孕む哲学的・神学的・倫理的含意を類推できる範囲は異なりますが。)
 一般に先端科学は倫理的問題(それが問題として構成されるにはそれなりの哲学的・神学的掘り下げが必要になりますが)を解決してから次に進むと言う手順を待ってはいられないと思います。
(その時々の大枠は作られますが、それは絶えずそのような実験が可能になったり、実施されたりしてから後になってしまいます。)
  やはり「科学者」と「哲学・神学・倫理学者」との不断の対話、情報交換、さらには受益者となる「パブリック」との間の橋渡しをする役割(の人たち、やはり 一種の専門家)が確立して行かないと、今回のような「周辺的な話題」が先行して報道され、問題の核心にまで立ち入らないまま問題が雲散霧消、と言うことに なる恐れは十分あるのだと思います。
現在の生命科学の技術についてはおよそ門外漢となっている筆者が下手なことを言うことは出来ない。今の段階では筆者は「パブリック」の一人、マスメディアに煽られる一人に過ぎないのである。

 しかし、今日理研の笹井会見が行われている時、イトケンさんのツイートではっとさせられた。

 このSTAP細胞技術が生命倫理問題にどの程度関わっているのか、上のコメントではただ漠然と感じていたものが、このツイートで「至近距離に来ているかも」との予感がしたわけである。

 筆者の印象ではメディアは実験過程や結果についての様々な疑惑については識者のコメントを求めているが、この細胞生成技術の生命倫理的側面については殆んど追跡していないように思い、早速

 stem cell research obokata ethical question
でググってみた。

 今のところ目ぼしいのはこれだけか・・・。
 Why Easy Stem Cells Raise Hard Ethical Questions

Yet these cells have a troubling potential. One of the surprising features of these cells, which Obokata has called “stimulus-triggered acquisition of pluripotency” cells, or STAP cells, is that they are not only able to develop into all embryonic tissue types—they can also contribute to the development of a placenta. Neither embryonic stem cells nor iPS cells can develop into placental tissue. In fact, this has often been seen as a defining difference between embryonic stem cells and actual embryos: embryonic stem cells cannot, on their own, develop into adult organisms the way an actual embryo can, in part because they cannot grow the extra-embryonic placental tissues needed for fetal development in the womb. If STAP cells can indeed support fetal development, clusters of these cells may actually be embryos. If so, the creation of these cells would be tantamount to human cloning.

But the wide range of developmental potential these cells have does not necessarily make them embryos. There’s an old motto in biology, attributed to the great seventeenth-century anatomist William Harvey: “omne vivum ex ovo,” or “all life from eggs.” In the animal kingdom, this doctrine still holds true; embryos are fertilized egg cells, and the egg cell provides a great deal of material necessary for the embryo’s early development. Just because an adult cell has been “reprogrammed” to a state of developmental immaturity that allows it to branch off into any of the different cell lineages, that does not mean that it will be able to undergo the highly coordinated development of an embryo on its own, or even together with other such reprogrammed cells.

We should still take the possibility seriously, however, that this new method of reprogramming might make embryos. Rumors are already circulating that scientists have attempted this in mice. According to a story in the New Scientist, one of the co-authors of the study, Charles Vacanti, said that he asked an unnamed collaborator to transfer a spherical cluster of STAP cells to a mouse. Vacanti reports that the cells began to develop as a fetus, but that halfway through the pregnancy, the fetus stopped developing normally. According to Vacanti, “There was some sort of glitch—which is probably a good thing due to the ethical issues that would occur if we were able to create a live clone.” But if it is true that these cells are able to develop as embryos, then the fact they develop defectively is not reassuring. Okotaba, for her part, said that her team was interested in regenerative medicine, not human cloning.
昨年5月、既にクローニング技術で人のES細胞形成が成功している(らしい)ことがネーチャー誌に報じられている。


 はてさて現在クローニング技術でES細胞などを作っている研究者たちは「冒険家(ヴァカンテイー)」な面を持っているかも・・・だったり、「先生には内緒でクローンマウスをつくってい」た、理研の若山研究員の話を聞くと、倫理的な資質に???が感じられ、少し恐いシナリオもあり得るのかな、と思ってしまうのであった。

 とにかくキャッチアップ(する気があるかは分からないのだが)が大変そうだ。

2014年3月1日土曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑪

時々しかこのシリーズ更新しないので、毎回何回目だったか忘れてしまいます。

それでまたリストを作って確認。

① Chuck De Groat・・・ブログの新アドレスはこちら
② Rachel Held Evans 
③ Tim Gombis 
④ Larry Hurtado 
⑤ Andy Rowell 
⑥ Michael Gorman・・・リンク戻りました。 
⑦ Jason Goroncy
⑧ Andrew Jones・・・ブログの新アドレスはこちら
⑨ Chris Tilling
⑩ Nijay Gupta (Crux Sola) 

今回紹介するのはサイドバーにもある、Ben MyersのFaith and Theology。
今回取り上げたのは、最新記事が宮崎駿アニメ作品の寸評が出ているから。
Hayao Miyazaki In Praise Of Air 

宮崎監督を誰と比較しているかと言うと、
Lover of all that flies or that dreams of flight or that flies only in dreams! Of the four mythical elements, Tarkovsky made films out of Earth, Kubrick made them from Fire, Orson Welles from Water – but to you belongs the consummate artistry of Air.
と言うわけです。

原初世界は四元素からなっていた、と言う神話の世界を映画では
タルコフスキー・・・地
キューブリック・・・火
オーソン・ウェルズ・・・水
と来た後に
宮崎駿・・・空
となるのだそうです。

以下その記事で取り上げられている宮崎作品は
  1. 風の谷のナウシカ
  2. 天空の城ラピュタ
  3. となりのトトロ
  4. 魔女の宅急便
  5. もののけ姫
  6. 千と千尋の神隠し
  7. ハウルの動く城
  8. 崖の上のポニョ
  9. 風立ちぬ
となります。

どうやらバルトなど難しい神学書を読むベンが愛しているのはイマジネーションに溢れたアニメなのですかね。
少なくともベンは宮崎アニメファンのようです。

2014年1月28日火曜日

(5)主に神学ブログ⑥

このシリーズも大分停滞している。

筆者の既知の或いは普段閲覧している神学ブログと、検索して新たに探した神学ブログとを、交互に紹介する、と言う意図で始めたが、最早そんな余裕はない。

今回紹介するのは、既知であり、しかし新しくもある。

佐藤優の「日本人のためのキリスト教神学入門」(リンク)は、筆者が何回かコメントした同氏の「キリスト教神学概論」の言わばリスタート版です(2012年11月から現在まで連載中)。
(その経緯についてはどこかに書いたと思いますが・・・。)

今回紹介したのは、この連載が「キリスト論(リンク)」に入っているためだ。

佐藤が「上からのキリスト論」と「下からのキリスト論」に対して、前者を取ると主張しているのに、ジョン・ドミニク・クロッサンの『イエスとは誰か 史的イエスに関する疑問に答える』(新教出版社、2013年)が出版され、読者の質問に応ずるように「史的イエス」の問題について少し脱線し始めているようだ。

恐らく佐藤は余り「史的イエスの第三の探求(関連記事)」については読んでいないのだろう。

近代批評学の歴史懐疑主義(ブルトマンなど)に対して、歴史的アプローチが有益で有効であることを実証的に研究する学者たちが増え、キリスト教起源に対する神学的再解釈も含めた包括的な研究枠組み(特にN.T.ライトの『キリスト教起源』シリーズ)が出てきていることを見逃しているようだ。

「キリスト論」においては、いかにしてナザレ出身の預言者イエスが「神」となったかを歴史的に探求する議論、つまり「下からのキリスト論」が面白い。

先日も聖書学及び原初期キリスト教歴史学からのアプローチで「高いキリスト論(high christology)」が歴史段階的に(進化論的に)形成されたのではなく、ごく初期から(イエスの死後20年以内に)既にあったことが実証的にも合理的な説だ、と言う研究者間合意が出来つつある、との見方を報告した。(この記事)

どちらかと言うとかなり歴史懐疑主義的なスタンスを取る新約聖書学者(福音派の出自で懐疑論者となった)、バート・イァーマンの近著のタイトルが刺激的だ。
How Jesus Became God: The Exaltation of a Jewish Preacher from Galilee (New York: HarperOne, 2014).


これを論駁する本も用意されている。
寄稿者の一人マイク・バードが自分のブログで紹介している。(リンク)

筆者はライトのものを読むようになって、つまり史的イエス研究のアングルから、「イエスの神性」の問題に対し、非常に深く関心を持つようになった。

どう言う意味でイエスは「神」なのか。
新約聖書の主張はどうなっているのか。

神学的に定まった見方はそれとして、ユダヤ人である初期キリスト者がどのようにイエスをヤハウェと「同一(identify)させて行ったのか」と言う極めて歴史的に興味深い問題である。

ライトはこの疑問を歴史の地平で徹底的に問おうとする。

しかし盟友であるリチャード・ヘイズは、ガベンタ(当時プリンストン神学校で現在はベイラー大学)とともに「信条」を解釈枠としたアプローチを提唱し、



これが発表された2008年のSBL(北米聖書学会・・・聖書学者たちの学会としては世界最大級)では、ライトから「歴史からの撤退」とばかりに厳しい批判に遭う。(この辺の消息はマイク・バードのCanonical Jesus vs Historical Jesusを参照のこと。)

ライトが昨年出した、How God Became Kingは幾分sketchyだが、「下からのキリスト論」と言う点でも、「受肉論」や「贖罪論」も統合的に視野に入れる野心的な「福音書」解釈であった。

ヘイズは最近も福音書の「正典的解釈」の実効性を訴えている。
(冒頭の部分で、盟友ライトとのアプローチの相違が依然として続いていることにも言及しているところも興味深い。)


「キリスト論」の歴史的研究は暫く目が話せないホットなトピックになるだろう。



2013年9月9日月曜日

(3)南部バプテスト連盟

これはたまたまの記事です。

まっそれ自体は大したことない、などと言うとバプテスト連盟の方から顰蹙を買ってしまうので、説明しますと、

「大したことない」のはこれから紹介することではなく、筆者が単に英語圏ブログを巡回してて見つけた記事、と言う点が「大したことない」と言う意味です。
記事の中身が「大したことない」のではなく、筆者がたまたま見つけたこと自体が「大したことない」と言うだけです。

なんかかなりくどい説明から入って申し訳ありません。

北米のプロテスタント教団で最大のものは、the Southern Baptist Conventionです。

その理事長に初めてアフリカ系アメリカ人がなった、と言うのが昨年の大会でのニュースですが、そのフレッド・ルーター・ジュニア牧師は2013年の大会で再選され、それが筆者が巡回する「英語圏ブログ」の一つであるトレヴィン・ワックスのキングダム・ピープル・ブログで紹介されていました。(この記事)

実はなぜ記事にしたのかと言うと、次の表現に引っかかったからです。
His ascendancy to the presidency in the SBC grew from decades of service within the denomination.
この後文章は、フレッド・ルーター・ジュニア牧師どのようにして理事長にまで選ばれるかその経緯を説明しています。

気になったのは、ascendancyと言う語です。
訳せば「(理事長職に)登り詰めた」とでもなるのでしょうが、教会と言う「組織のトップになる」と表現することはそれほど不自然ではないのかもしれませんが、「アフリカ系アメリカ人初」と言うことも合わせて「強調」されているように感じます。

たまたま昨日の午後、近くの巣鴨ときわ教会(日基)で「荒井献講演会」があり、話を聞いてきたのですが、その中で「下に上る」と言う話をしていました。

詳細は忘れてしまったのですが、ピリピ2章6-11節のような「ケノーシス」 的理解で行動することを言っていたのだと思います。
そのような行動を取ることを「下に上る」と表現したのだと思います。

別にトレヴィン・ワックスが「権威主義的な人」とか言う話ではありません。
ただ彼が、フレッド・ルーター・ジュニア牧師が南部バプテスト連盟理事長に「なる」ことを、ascendancyと表現したことに筆者が違和感を感じただけ、と言うほどの「大したことない」話なのでした。

※ 南部バプテスト連盟に所属する日本人の牧師でしょうか、2012年の大会でのこの「歴史的出来事」を簡潔に報告しているブログ記事です。

2013年8月27日火曜日

(4)主に神学ブログ⑤

このシリーズ前回④、「のらくら者の日記」を紹介したのが4月8日だから大分経ってしまった。

これは今後は更に難しくなって行くことを予感している。

かてて加えて、他にも幾つかブログを抱えていたり、第2回N.T.ライト・セミナーの準備等で、このブログの更新がままならなくなってきている。

それに加えて2、3ヶ月前、午前3-4時頃に目が覚めていたのが(それで大分ブログ記事を書いたりする時間が出来ていたのだが)、ここに来て起床時間が遅くなり、具合悪いことに(主に)午前中であったり、午後であったり何の気なしに少し目をつぶっていたりすると、そのまま「一眠り」って言うことが増えてきた。

まっ言い訳はそれ位にして本題に入る。

今回取上げるブログは自然神学・環境・経済と言う大変視野の広いものです。

当然筆者の今回の主な関心は『自然神学』にあるわけですが、今回このブログを取上げようと思った直接の記事は、パネンベルグからクレイトンへです。

最近は余り読んでいないのですが、神学の中での筆者の関心領域の一つは「自然神学」です。
殆んどエントリーはありませんが、このブログを始めた頃、有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明、などと言う大それたタイトルの記事を書きました。

その頃はこの記事が「人気の投稿」のトップを独走していました。(あーあ懐かしい。)

この記事では筆者はパネンバーグと英語読みしていますが、「自然神学・環境・経済」ではパネンベルクと多分ドイツ語読みなのでしょうね。
20世紀、特に1970年代以降は、自然神学再考の動向が顕著になった時代であり、それは現在から未来への広がりを予感させている(本ブログもこの動向の 一端を担っているわけであるが)。その動向の一つの中心を形成しているのが、バルトやブルトマン世代以降のドイツ語圏のプロテスタント神学を牽引した神学者の一人であるパネンベルクである。
と紹介されていますが、確かに自然神学が近代の実証科学の飛躍的進歩に対して後れを取ってきていたのを少しでも取り戻そうとしている一人がパネンバーグなのだと思います。

興味深いのは、筆者にとっては少し古い方との印象のあるパネンバーグの他に、ナンシー・マーフィーの名が挙がっています。

彼女についてはまだブログで取り上げたことはありませんが、
Nancey Murphy, Beyond Liberalism & Fundamentalism
は自然神学の領域ではありませんが、「リベラリズムと根本主義の二項対立の図式」を科学哲学的素養から分析している好著ではないかと思っています。(書評のレベルにも至らない多分に印象的なコメントであることをお断りしておきます。)

そしてフィリップ・クレイトン。
個人的には彼の著作は一つも読んだことはないが、METANEXUSを購読してきた者には聞きなれた名前だ。プロフィール

さて「自然神学・環境・経済」ブログだが、欧米の研究動向を知る一つのアンテナとして有用なサイトかと思う。(何て偉そうに聞こえる言い方は慎むべきだろうが・・・。)

このエントリーを書いたおかげで、筆者がこの方面も関心があることを再確認し、いつの日かまた「自然神学」分野の本にチャレンジしよう・・・と言う動機付けになったらいいなー。

《追記》
どうやらミーちゃんはーちゃんと知り合いになったのはこの有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明という記事からであることを再度確認(コメント・セクション)。 

2013年6月28日金曜日

終末論の意義

英語でimplication(インプリケーション)と言う語がある。通常「含蓄」とか「言外の意」と訳されるらしいが、筆者は大抵「含意」と訳す。
なかなか含みのある語である。(それって洒落か・・・。)

いきなりキリスト教信仰の中核的使信である「十字架」と「復活」を持ち出して説明するのもなんだが、「十字架」にしても「復活」にしても、その出来事を叙述する場合には、Ⅰコリント15章にあるように、「キリストが・・・死んだこと」「また三日目に復活したこと」(新共同訳)と至って簡潔な形もある。
(もっともキリストの死には「私たちの罪のために」と言う意味が付加されているが・・・。)

この使徒的使信(福音)が指示する「ナザレのイエスにおける出来事」のクライマックスである「十字架」と「復活」は新約聖書の中で(様々な文脈の中で)多様なイメージや言語表現を通して提示されている。
つまり出来事としての「単純な意味」の他に、そこから様々なインプリケーション(解釈とも言える)が湧き出ているのである。

例えば、当教会では、毎月1回、ジョン・ストット『キリストの十字架』を用いて学びをしている。
キリスト教神学的には『贖罪論』(救済論のうちキリストの死の意味を考察する分野)と言われる。
ストットはアングリカンの神学的伝統を意識しながら(保守的な態度で)、教会史の中で展開された幾つかの重要な『贖罪論』を紹介する。

(読者の中で、「あれっ、タイトルは『終末論』なのになんで『贖罪論』の話になるの」と訝っている方に説明しておくと、依然として導入となるインプリケーションの話をしているのであって、『贖罪論』はその一例なのだ、と言うことを申し上げておこう。)

『犠牲』やら『血』やら『小羊』やら旧約聖書の祭儀や出エジプトなどを背景としたイメージが、『贖罪』がそれらのイメージが指し示すのは、第一義的には『神の怒りを宥める』のか、それとも『罪を取り除く』、あるいは同時に両方なのか、・・・と議論されるわけである。

さて話は変わって、現在筆者がお世話を手伝っている「N.T.ライトFB読書会」では、Surprised By Hopeと言う本を読んでいる。
まさに終末論に関わる本である。

イエスの復活が、キリスト者の将来の「身体(からだ)の甦(よみがえ)り」の希望を保証するわけである。
しかしキリスト者は地上にある間、ただその時をぼーっと待っているだけなのか。
あるいはその間はひたすら多くの人を出来るだけ天国に入れる伝道することに意義を見出すのか。

それとももっと何か他の役割やら目標があるのか。

そうやって「将来」的視点から「現在」を見つめて、「今、ここで」の意義を見出そうと言うのがSurprised By Hopeの趣旨である。だから「終末」の「現在」へのインプリケーションを探るわけだ。

ところでなぜこんなことを考えているかと言うと、時々遊びで当ブログ名「大和郷にある教会」でググってみるのだが、たまたま今回は「伊那谷牧師の雑考」の『終末を日常のように生きる』 がヒットした。

その記事を書くためのヒントの一つになったのが拙ブログ記事だったと言うわけだ。
確か「大和郷にある教会」だったと記憶しているのですが、終末論について伊坂幸太郎の『終末のフール』を引き合いに出しながら終末を生きる意味についてブログ主の小嶋牧師が小論を投稿しておりました(注:ございました。「終末」を想像して現在を捉える)。その内容に深く教えられ共感し、僕も『終末のフール』を急いで買って読んだことを思い出しました。
何と筆者はネットで入手した書評でこと済ませていたのに対し、O牧師は買って読んだという。
その辺の姿勢が筆者のようなぐうたら牧師と違うんだな。

(筆者はせいぜい図書館で借りて読むくらいで、最近FB友となったK牧師などとは真逆である。K牧師の書斎は平積みされた小説などがあちらこちら山積みされているそうな・・・。)

ライトは「終末」への希望から、かなり積極的な現在への関わりを提案するが、O牧師は「たんたんとした日常」と言うインプリケーションを引き出している。

思えば、「来るべき世」に生きていると言うことをエクスタティックに(羽目を外したようなライフスタイル)現したキリスト者たちがいたことをパウロは書簡(Ⅰコリント)で示唆している。

一方では将来のクライマックスまで待つ間を、まるで伸びたゴムのようにのんべんだらりと暮らしていたキリスト者たちもいたようだ。
彼らへのパウロの指示は、
ところが、聞くところによると、あなた方の中には怠惰な生活をし、少しも働かず、余計なことをしている者がいると言うことです。そのような者たちに、わたしたちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。(Ⅱテサロニケ3:11-12、新共同訳)
さて私たちはどんな将来像を描き、そこから現在へとどんなインプリケーションを引き出すのだろうか。毎日が正念場だ。






2013年4月8日月曜日

主に神学ブログ 4

冬眠明けでまだ頭がぼんやりしている時にこのブログを紹介してしまっていいものか、ちょっと迷いましたがブログ主は(多分)温厚なお方でしょうから、お許しくださると思います。

のらくら者の日記

ブログ主とはまだ実際にお会いしたことはないとは言え、ネット上で親しくさせていただいていますので、その意味では客観的な紹介が難しいとも言えます。

てなことを書きましたが、実際はこと神学に関し、特に英語圏の神学事情、更に特に英国のそれに関しては幅広い知見と見識を持つ方です。

さて筆者がこのブログを何かの拍子に発見し、その後購読するようになってから大分経ちます。
紹介のため調べてみたら開始しなさったのが2008年1月のようです。
ブロガーとしてはかなり先輩です。

カテゴリーをご覧になれば分かるように守備範囲が広い。
クワガタの飼育やギターのこと、クラシック音楽についての造詣が深く、よくぞここまでと言う感じです。

政治や社会など時事問題についても時折鋭い指摘のエントリーがあり驚くことがあります。
と言うかいかに筆者自身がこれらの問題に対して日頃無関心・不勉強であるかを反省させられてしまいます。

筆者が最初にこのブログを読むようになった時、背景画像はブログ主の書斎であり、部屋一杯の書棚に蔵書が埋まっていました。
とてつもない読書家なのだなー、と漠然とした印象を持ったことを思い出します。

実名は出ていませんのでこのブログ主は一体誰なのだろう、果たして筆者の知っている人なのだろうか・・・、などと記事のテーマや傾向などから推理して楽しんでいました。


オックスフォードのウィクリフ・ホールご出身と言うことでどうやら自分が名前を知っている人ではないな、と思いながらエントリーの中に度々N.T.ライトのことも出てくるので、思い切ってメールを出してみようと思いつきました。

ちょうど3年前のことです。

ご好意で筆者の主宰する「N.T.ライト読書会」のことをブログで紹介してくださるなどそれ以来度々お世話になるようになりました。
「神学」のカテゴリーで検索して頂くとそのお世話のほどが幾分かお分かりになると思います。

筆者がこのブログで楽しんでいることの一つは、ブログ主の留学時代の恩師たちの人物描写です。
恩師たちへの敬慕の念、そして彼らの学識と人柄の織り成す人物像が温かいタッチでよく伝わってきます。

著作は読んでいても実際に面識のないこれらの主に英国の学者たちのバイオグラフィカルなエピソードを知ることはとても有益です。
筆者にはそれがとても役立っています。

恩師たちを描いた資質はまたブログ主の神学・思索との取り組みにも反映している様に思います。
それはやはり英国の持っているいい意味での保守的で経験に裏打ちされた知性を大事にする傾向ではないかと(勝手に)推察しています。

なお時折舌鋒鋭い(辛辣な)記事にも遭遇しますが、それらの記事の背景には是々非々をはっきりさせようとするブログ主の熱意があると思っています。

そのような物言いのできる「硬派」なブログの筆頭ではないかと、かかる資質の貧しい筆者としては読みながら反省している次第です。

と言う訳で今後もますますのご活躍を期待したいと思っております。

物足りない紹介で失礼しました。

2013年2月7日木曜日

主に神学ブログ3

久々の投稿。

(冬眠中なので寝ぼけまなこのボヤキを一席)

父(現在84歳)が説教から引退して数年が経つ。
今も元気でやっている。
毎日散歩を一時間ほど。
何しろ自分のペースを崩さない人。

筆者はずぼらで何でも適当にやってしまうタイプ。
最近は何をやるにも青息吐息な風情。

それで父に「年に1-2回説教どう?」とカムバックを打診してみた。
「頼まれれば、必要ならば(やりますよ)」と言うご返事。

ではご好意に甘えて・・・と思い、
しばらく説教をやっていないので、はたしてどんなキリスト教書を読んでいるのか聞いてみた。

バルトの「教義学要綱」とのこと。
今まで何度も繰り返し読んでいるが飽きることがないらしい。

珍しくそんな質問をされたものだから、自分の部屋からその本を持ってきて見せてくれた。

自分で紙のカバーをかけた小さな本。
かなり変色している。
発行は1946年となっていたようだ。

最初のところを読み始めてみると、難しい漢字が多く、いかにも「昔の本」と言う感じ。
これでは(筆者などは)何度も読まないと分からないだろーな。

それが数日前のこと。

今日ツィッターでフォローしている人のリツイートに
関口 康 説教・神学・日記: カール・バルト『教義学要綱』の序文(超訳)
と言うのがあったので、思わずクリックしてみた。

一読して「これは面白い。バルトがこんな風に読めたら楽でいいのに。」

実はこの方の名前はまるっきり違うことで目にしていた。
その時は硬派なタイプかと思っていた。

関口康:説教・神学・日記

を見るとA.A.ファン・ルーラーという神学者にかなり傾倒している様子。
「なんか神学マニアっぽい?」と言う印象。

でもその前のエントリーを見てもざっくばらんで砕けた内容の文章。
なかなか面白いバランスの牧師さんのようだ。

なになにスカイプで「カール・バルト研究会」をやっているとな。
「バルト主義者にならないこと」を唯一の入会条件・・・だって。
面白そーだなー。

スカイプで神学研究とかキリスト教研究とか、少しずつそんなことを始める人が出ているのだなー。

ふぁー、んなことを書いていたらまた眠くなってきた。
では冬眠に戻りますかな・・・。

2012年11月30日金曜日

主に神学ブログ 2

さて前回シリーズ1は筆者が時々巡回しているブログを紹介した。
今回は新しくこの連載のために探索した「主に神学ブログ」になる。
交互に紹介して行く予定だ。

リサーチして見るとガチに「神学ブログ」それほど多くなさそうだ。
と言うわけで余りジャンルに拘泥すると紹介できなくなってしまうので、連載タイトルはあくまで目安と思っていただきたい。

しかしこんなことをやり始めてしまってから思うのであるが、ひと様のブログを勝手に紹介するのは土足で人の家に上がるみたいなことにならないかしらん、との心配もある。

失礼なことを言わないためにはそれなりに中身を見なければならないから多少時間がかかる。
まっどっちにしても「野次馬根性」に近いので、もしご本人に知られてしまった時はご勘弁を、と言うことにしておこう。

前置きが長くなった。

教会・礼拝・聖書・説教・伝道・神学
は日本基督(キリスト)教団柏教会の牧師、春原禎光(すのはら・よしみつ)先生によるブログだ。

かろうじて最後に神学が入っているのでご紹介しても構わないだろう。
2010年3月に始めたブログのようだから当ブログより少し古い位。まだ新しい。

一見して日本の教会の牧師が仕事を通して関心ありそうなことを色々取り上げている。
余り趣味とかすっ飛んだ話題はないようなので(ことに牧師のような)読者には安心して読めるブログではないか。

ご本人が読んでいる本のメモなどもけっこうあるので、書籍紹介のような便利さもある。
特に筆者のようなキリスト教関係書籍でも日本語のものはめったに購入しない者にとっては助かる。

記事の長さは適当で、余り混み入ったことは書かないポリシーのようだ。
それもブログ巡回する者にとっては助かる。

「ミニストリー」誌の八木谷涼子さんの記事を特集した『ミニストリーの八木谷』と言う連載があって、これがこのブログの持つ重要な目線の一つかもしれない。
教会運営の実際面に対する関心が高いと言えるだろうか。

牧師が書くブログは色々あるだろうが、このブログなどは日本の牧師がどんなことを関心持ちながら、考えながら、仕事をしているのかを垣間見ることのできる言ってみれば(こんな表現失礼かもしれないが)「定点観測」用ブログではなかろうか。
筆者にとってはアンテナの役割を果たしてくれそうである。

以上簡単な紹介で申し訳ありません。

2012年11月21日水曜日

主に神学ブログ 1

神学、と短縮形で言ってしまうと宗教多元主義の文脈では厳密ではなく、不遜に映ってしまう危険がある。
キリスト教神学の短縮形とご理解いただきたい。

日本語で読める「主に神学ブログ」のトップバッターに選んだのは、東京にある教会の牧師職を辞されて今は北海道の余市で生活をなされている後藤敏夫先生の
どこかに泉が湧くように 
である。
(まだ先生と呼んだ方がいいのか、それとも最早そのような呼称には何の未練もないのか、筆者には何とも言えないのだが、ここでは便宜上「先生」と呼ばせていただく。)

もともとはこの「主に神学ブログ」の連載でも取り上げることになるだろう、
のらくら者の日記
に何本か北海道での生活ぶりや神学的随想などを寄稿していたのだが、ご自身でブログを開設される事になり、以後続々とこれまで書き溜めた(?)説教敲やら、随想やらをアップなさっている。

2012年2月に開設して、既に160本以上のエントリーがあると言う極めて充実したブログである。

筆者もその一部しかまだ読んでいないのだが、僭越ながら「牧師の先輩」として学ぶばせていただくことは多いと思っている。
もちろんそれは神学に限らない。

さて最近の記事で関心を持って読んでいるのは「『神の国の証人ブルームハルト父子』覚書」 シリーズである。

後藤先生が「井上良雄先生」と言うブログ・カテゴリーを用意しているように、大いに影響を受けている方であるその井上良雄氏の『 神の国の証人ブルームハルト父子』(新教出版社:1983)について後藤先生が30年前に書いた文章がブログに再録された訳である。
はじめに
Ⅰ 敬虔主義から出て敬虔主義を越える
 1 敬虔主義の特質
 2 決定的転回点——ゴットリービン・ディトスのいやし
 3 敬虔主義を越える特質
Ⅱ 終末論をめぐって
Ⅲ 父ブルームハルトに対する幾つかの疑問
おわりに
 という構成になっているので、目下連載の途中である。

筆者はバルトも殆んど読まないし、ブルームハルト父子についても殆んど知らないが、暫く前
FEBC 
で井上良雄氏の「ブルームハルト父子」についての講演のようなものを聴く機会があった。
(期間限定なので今は見つけられないようだ。)

後藤先生の「覚書」の文章から読み取れるのは、ブルームハルト父子が敬虔主義の伝統の中から、「神の国」の福音のリアリティーを牧会経験を通して回復していくプロセスである。

また余白に後藤先生自らの福音派の伝統に対する反省的省察が挿入されている。

このあたりのことは書かれたのが30年前とは言え、日本の福音派の現状を考える時、依然として有効であると思う。

少し長くなるが引用する。
それよりもまず私たち福音派にとって重要なのは、福音を「神の国の到来」と理解すること から、先に述べたような敬虔主義を越える父ブルームハルトの特質が生まれたということである。著者も言うように、これは敬虔主義には終末論がないというの ではない。「『最後の事物の問題』の再発見は、敬虔主義においてこそ起こった」(182頁)とバルトもその事実を認める。しかし、著者はすぐに続けて、 「ただし、それは、千年王国説という形における終末論であった」(182頁)と言う。この指摘は、敬虔主義的伝統に立つ教会の終末論に対して、今日でもほ ぼそのままあてはまるだろう。

現在福音派に支配的な終末論的関心は、主に究極的終末に至るシナリオをめぐるものであり、そこでは、今も含めた「歴史」は、 まったくと言っていいほどに関心の対象とはならない。「歴史」が問題となるのは、人々に救いの時を与える舞台としてであるか、終末論的シナリオの成就とし てである。もちろん、福音派諸教会の終末論を大雑把に一つに語ることは、歴史的にも神学的にも厳密さを欠くことではある。しかし、そのようなものが福音派 に支配的な終末論的雰囲気であることは確かなことのように思われる。

これは福音派の教会において、「神の国」について語られないということではない。もちろん、そういうことはあり得ない。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ 6:33)という御言葉が引用される機会は少なくない。しかし、多くの場合、それは、「神さまのことをまず第一にする」というように、「私」の生活の優先 順位のこととして語られる。それが大切なことではないというのではない。すべての神奉仕は人間奉仕であるべきだというような「気の効いた逆説」(18頁) が、活ける神への畏れを忘れさせ、単純にキリスト者としての生活があるということさえあいまいにするとしたら、そこで見つめられているものは一体何だろ う。だがしかし、私たちが「神さまのことを第一に」と言うとき、そこで言われている「神さまのこと」とは何だろう。神の国をまず求めるということが、ほとんど「私」の生活におけることだとすれば、神の義をまず求めるのは、神の国のためだろうか、それとも「みな与えられる」ためだろうか。(以上「覚書」5から。アンダーラインは筆者。)
先日久し振りに「日本福音主義神学会」の東部部会研究会講演に行って来た。テーマは「キリスト者と原発」である。
このようなトピックが選ばれたこと自体は喜ばしいことだが、神学的分析の切り口(「キリスト教の科学観」や「文化命令」)がいささか旧態然と感じた。
「主イエス・キリストの主権」や「神の国」と言う新約聖書の福音メッセージとは殆んど切り結ばれていなかったような印象を覚えた。


最後の一文は乱雑な感想で蛇足だが、日本の福音派も少しは後藤先生の30年前の分析より一歩進んだかもしれない、と言うことの例証として言及しただけ。


いささか尻切れトンボのような感じだが、とにかくまずは日本語で読める神学ブログの紹介をスタートさせたことでよしとしよう。