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2018年6月30日土曜日

今日のツイート 2018/6/30

へー、あの若松英輔さんがこんなのをRTしている



・・・と思って見てみると、なになに Lamb of God?

どうもこのヘヴィーメタルのバンドの歌詞にはやたらと聖書関連のボキャビュラリーが出てくるではないですか。

しばらく調べてみると特にクリスチヤン・バンドではないらしい。

ついでにその流れで検索していたら
Test your knowledge: Heavy Metal Lyric or Bible Verse?
(『知ってるかな? ヘヴィーメタル音楽の歌詞でしょうか、聖書の言葉でしょうか』)

で、このリンクに出てくるクイズをやってみたら結構難しい。
(筆者は16問中13問正解でした。)

興味のある方はどうぞ。

2017年5月21日日曜日

今日のツイート 2017/5/21

先ずはこれ。
それから、これ
そして、これ

感じ方は人それぞれなのだが・・・「一流の方」と「神対応」にはちょっと???と思った。

2015年1月18日日曜日

(1)うどんより歌

日曜夜はどちらかと言うとゆるくなる。

そのついでに今日は役員会があったのだが、帰っていく役員の一人とグルメ談義になり、「評判のラーメン」についてあれやこれや。

その余韻が残っていたのか、何気なくユーチューブで「美味しい立ち食いそばや」で話しかけて出なかった「鰹出汁のきいたツユ」の店を探していた。

多分これは、と言うのを探し当てた後、ついでにぶらぶら「うどん」も見ていたら・・・。

これに行き当たった。



もちろん最初はうどんを眺めていたのだが・・・。

終わり頃になって歌の歌詞が沁みてきた。
森へ行こう
いのちかがやく
自由な森へ
へーなかなか感じいい。

サウンドも心地いい。


誰が歌ってんだろ・・・。

でも、リワインドしても画面には歌のクレジットは出てこない。


と言うことで、少し歌詞で検索してみた。

大貫妙子「森へ行こう」

何か名前は結構聞く感じだけど・・・。

しかしこの曲がゲーム音楽の一曲だったなんて。


※劇場版「どうぶつの森」オリジナルサウンドトラックのサイトで視聴できます。


あら、もう9時過ぎちゃった。

ではまたいつか・・・。

2015年1月17日土曜日

「いぶせき」考 2014クリスマス 追記

先日、クリスマス礼拝の様子を少しだけご紹介しました。

その後、演奏してくださった北方さんがご自身のサイトでご紹介くださったので、リンクをお知らせします。

クリスマス礼拝(巣鴨聖泉キリスト教会)を終えて

色々な角度から撮られた画像が8枚もあります。

建物や庭の様子、ステンドグラスのことなど、色々と解説や感想を書き加えてくださっています。

改めてありがとうございました。

2015年1月15日木曜日

(4)『作品』をめぐっての会話

昨年末、帰日中の在米・音楽関係の仕事をする友人と築地のカフェでの会話。

話がたまたま(か、ちゃんと脈絡があったかは覚えていない)指揮者のことに及んだ。

友人は面白い話を聞くのもするのも大好きな人物。

早速指揮者に関するジョークを紹介してくれた。

元が英語なので少し翻訳に手間取ったが・・・。

ここでは聞いた通りをお話しすると少し説明的になるので、ネットから入手した(多分同じジョーク)のリンクを貼っておく。

以下のように始まるので『検索』をかけてもいいかもしれない。
昔々、めくらのウサギと蛇がいて、お互いに近くに住んでいた。
ある気持ちのよい日に、めくらのウサギはうちに帰るために通りを軽い足取り跳ねていた時、誰かとばったりと突き当たってしまった。
要するに友人がこのジョークを紹介したポイントは、いかに指揮者が楽団員からは複雑な感情で遇せられているか、ということ。


そうだ、思い出した。

その時話していたのは「村上春樹」の作品について。

村上と小澤征爾の対談本があるが、その話題がいつの間にか「指揮者とは如何にエゴイストか」みたいな方向に行ったのだった。

友人曰く。(大分デフォルメすることになるが。)
指揮者はオーケストラを纏める時に、やたらと楽譜の背後にある作曲家の思想とか生涯のエピソードとか薀蓄を傾けることがあるが、私に言わせればそんなの無駄だ。楽団員はそんな指揮者の話など聞いてやしない。
(楽団員だってそれなりに音楽の勉強をしてきたんだ。今更現場に臨んで音楽理論について滔々と講釈を垂れるのを聞かされるのはかなわない。)
指揮者はただ、楽譜を使って、如何にその場で音楽性豊かに楽団に表現させるかだけ考えていればいいのだ。

とこの辺りで『作品』解釈を巡る会話になった。
(こちらは幾分茶々を入れるつもりで、)「あなたの楽譜の取り扱い方はポストモダンだね。」
(友人)「それはどういう意味だい。」
(筆者)「楽譜に作者の思想や歴史的背景を極力入れないで解釈すると言うのは、authorial intentionを否定する方向に見えるからポストモダンと言ったんだ。」
(筆者)「それに楽譜を独立した作品として(指揮者も含め)演奏者の自由な解釈に委ねる方向はreader-responseと言う点でもポストモダンだね。」
と言った会話が続いたのだが、それほど話は深まらなかった。

解釈を巡っては、聖書をホームフィールドにする牧師である筆者と、スコアを相手にする演奏家とかなり次元が異なるのかもしれないが、それなりに刺激されることがある。

その後も「ダブル・エクスプレッソ」を頂きながら会話は多岐に及んだが、いつの間にか夕食の時間となり、丸の内に場所を移してその夜は過ぎたのだった。



2014年6月21日土曜日

(2)「トイレの神様」を神学する

いやー土曜日の夜なので・・・。

やっとこ明日の週報を作成したところで、頭を幾分柔らかくしようと思って・・・。

ただ「神様」だけで思いついたので・・・。


はい、歌のタイトルは知っていました。
でも聞いたことなかった。


何かほんわかした歌だね。
かなり単調なメロディー。

やはり実話に基づいたストーリーだからかな、すんなり聞けるのは。

「喪失」と「帰還」がモチーフかな。

なんでおばあちゃんなのだろう。
そして両親が不在。

誰でもが成長と共に家族から離れて行く時がある、それが喪失の原風景。

東京に行って離れて、おばあちゃんが具合悪くなって帰るとすぐ亡くなる。

これは大きな喪失だったけど、おばあちゃんの記憶をより強く呼び戻す。


で、「神学する」だけど

別に「神様」が出てくるから「神学している」ことにはならないと思うけど
「トイレの神様」はおばあちゃんがこさえたストーリー神学なのかな

ちょっと引用しようかと思ったら、歌詞が表示されているサイトから歌詞をコピーしようと思っても出来ないや・・・。

トイレ掃除が苦手なので
おばあちゃんは
トイレ掃除をやる気にさせるために
編み出したんだろうな

だからおばあちゃんが女神様を作っちゃったんだ
でも女神様は別にトイレにいるだけで
特に何かをするわけではないね

要するにトイレれを磨くと自分も磨かれるよ
べっぴんさんになるよ
ということなのだね

人は「意味ない行為」はしたくない
というかあまりやりたくない

でもその行為に「意味がある」とやりやすい

でもトイレ掃除をしたら100円あげる
では余り面白くないよね

自分が変わるストーリー
を生きるのは楽しいよね

女神様はそのストーリーを引き出す
あるいは動かす仕掛けだ・・・
って別にたねあかしみたいなことをしても面白くないよね

きっとその気になってやったんだね
そしてできるようになって
良かったと思っているんだね

お嫁さんになった(結婚なさったそうです、その後)
今では孝行の意味でトイレ掃除がんばっているのかな


と、遊んでいたらもうお風呂に入る時間になりました
お風呂にはどんな神様おるんやろ


※この記事に対するキリスト教神学的批判その他は受け付けておりません。あしからず。

2014年1月31日金曜日

(4)小澤征爾と村上春樹

小澤征爾と村上春樹の対談本を図書館から借りてきた。
「小澤征爾さんと、音楽について話しをする」

と言うタイトルどおりの本だ。

そもそものきっかけは、もう一冊図書館から借りてきた、丸谷才一の「エホバの顔を避けて」だ。

ネットで調べている時、たまたま丸谷がこの本について書評のような文章を書いているのが目に留まった。

それで面白そう、と思って借りたのだ。

読んでみたら、丸谷は小澤の桐朋学園時代の英語の先生だった、とあるではないか。
しかし小沢は英語を全然勉強しなかったと述懐している。

それでレナード・バーンスタインの下で副指揮者をやっていた時、英語が分からなかったことで大変損をしたことを度々嘆いている。

一応メモとしてその中から以下を引用する。
(色々興味深いことはあるのだが、筆者がメモに残しておこうかなと思ったものだ。)
村上「特別ということで言えば、マーラーを聴いていて僕はいつも思うんですが、彼の音楽にとっては、深層意識がかなり大きい意味を持っているみたいです。フロイト的というか。バッハとかベートーヴェンとかブラームスとかそういう音楽の場合、やはりドイツ観念哲学的というか、地上に出ている意識の整合的な流れが、大事な意味を持っている。でもそれに比べるとマーラーの音楽にあっては、アンダーグラウンド的というか、地下の暗闇に潜っている意識の流れみたいなものが、積極的に取上げられているように感じられます。そこには矛盾するもの、対抗するもの、混じり合わないもの、峻別できないもの、そういういくつもノモチーフが、まるで夢を見ている時のように、殆んど見境なく絡み合ってる。それが意図的なのか非意図的なのか、そこまではよく分かりませんが、少なくともきわめて率直で正直ではある」

小澤「マーラーが生きたのは、たしかフロイトとほとんど同じ時代ですよね」

村上「そうです。どちらもユダヤ人ですし、生まれ故郷もすぐ近くだったと思います。フロイトの方が少し年上ですね。マーラーは奥さんのアルマが浮気したときに、フロイトの診察を受けています。フロイトはマーラーを深く尊敬していたそうです。そういう無意識の水脈の率直な追求みたいなものが、ところどころ辟易させられる部分があるにせよ、マーラーの音楽を現在、優れてユニヴァーサルなものにしている原因のひとつじゃないかと、僕は考えています」

小澤「そういう意味では、バッハからハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームスといったドイツ音楽の骨太の潮流に、マーラーは反抗したということになると思います。十二音音楽が出てくる前に、ということですが」(249-251ページ)
この他には「楽譜を読み込む」と言うことで、小澤が「カラヤン先生」から学んだこととして、小さなフレーズではなく、もっと大きなフレーズの塊を読み込むこと、その中から音楽のディレクションを探ることの大切さを学んだ、と言うようなことが書いてあった。

これは以前氷の塊をとかすで書いたように「説教を作る過程と似ている」と重なる。
その中で引用したように、「のらくら者の日記」さんが、
聖書の<スコアリーディング>なる訓練が非常に有効であることはもうお分かりかと思います。 与えられた聖書テキストのエッセンスをいかに効率よくテーマ で括るかを鍛える訓練です。 音楽の世界のスコアリーディングを聖書の読み方に適用する訳です。 ここで重要なのは、細部の正確さに拘泥しないということです。 むしろ<抽出>という作業に徹することです。
と書いている部分の<抽出>は多分カラヤンの<音楽のディレクション>を細部の正確さより重視する、と言うのと相通じているのではなかろうか。


2010年7月27日火曜日

教会と制度

今日はちょっと玄人的な話題

教会と言えばごく自然にクリスチャンが集まる場所や集まりを想像すると思います。
でも“自然に”と言うことを厳密に取れば、教会が自然に集まることは殆どありません。

集まる場所や時間は決めておかなければなりません。集会(礼拝)でなされることも殆ど順序や決まりがあります。(※カリスマ派のような人たち、クエーカーのような人たちは、決められた順序より霊の導きを優先すると言われているが・・・。)

 そもそもなぜ日曜日に礼拝なのか。

 教会堂はどうしても必要なのか。

 クリスチャンが数人集まればそれが教会ではないか。

 さらに、牧師(聖職者)は必要なのか。

 十一献金は聖書的なのか。

 教会は霊的な集まりだと思ったら会議ばかりやっている・・・。

これらは「制度的」な教会の面を示す事柄であると言えます。

先日米国や英国で神学を勉強してきた友人・知人と色々と話す機会がありました。
その中で話題の一つとなったのが様々な教会の伝統の違いや長所・短所について。

アメリカを発祥としてこの十年余『イマージング』と言う主に二十、三十代クリスチャンのムーヴメントが拡がっています。基本的に福音的ですが、よりポストモダンの文化を意識しています。また環境問題や社会正義の問題により敏感です。

彼らは「制度的な教会」に批判的です。それで小グループで自由に集まって信仰を育てているようです。
しかしある程度グループが歴史を積み重ねると「制度的教会」と同じ問題に直面します。色々と話し合って決めていかなければならないのです。

もう一つ興味深い動向があります。

福音派の信仰に育った人たちの中からカトリックやギリシャ正教に宗旨替えする流れが目立つようになってきています。

一番有名なのは一昨年であったか『全米福音主義神学会』の理事長まで務めた方がカトリックに移ったのです。

この動きの背景には「福音派の信仰のあり方」に満足しない、もっと深い霊的伝統に傾倒する傾向があるようです。

日本でもヘンリー・ナウエンがよく読まれているように、いわゆる福音派の「霊性」に対して浅薄さを感じているのではないでしょうか。

戦後開始した殆どのプロテスト教会は教会数を増やしたり、信徒数を増やしたり、いわゆる「教勢的」なことにばかり熱心で、信徒の霊的深まりのような課題とちゃんと取り組んでこなかったツケを今支払わされているのではないでしょうか。

筆者は例えば『プレイズ系』の賛美にはあまり関心がなくなってきました。むしろ古い賛美歌の方に魅力を感じます。
典礼(リタージカル)な面の学びが必要と感じています。

何はともあれ「教会は信仰者の母」と言われたりするように、霊性の深まりにしても、制度的面の充実にしても、キリスト者共同体が自由かつ生き生きと御霊の実を現す方向に導かれていきたいと思っています。