2010年9月30日木曜日

ブログを毎日更新する

今日で九月も終わり。

七月初めから始まったこのブログもようやく三ヶ月になる。

毎日更新するつもりで始めたわけではないが、気が付いたらほぼ毎日更新することになってしまった。

特に九月はこれで「毎日更新」が完結する。

自分なりには「良くやっている。」
しかしブロッガーの中には一日に幾つもポストする人もいるのだから驚きだ。

この三ヶ月のブログポスト、最初の構想から少しずれてきた点も無きにしも非ず。
教会の伝道ツールの一つとなるのではないかと思って始めてみたが、日々更新するにはトピックが続かない面がある。
と言うか「一本調子」。

それで少し違うトピックを入れてみたのだが、たまたま他のブログに書き込みした関係でまとめた「有神論的世界観と『被造世界』の科学的解明」ポストが、殊の外ヒット数が多く、他にもヒット数の多いポストは、どちらかと言うと“知的な話題”のものが多かった。
なぜだろう。

今後も続けて行くつもりであるが、「教会と世間のインターフェース」的面と、少し神学的な面と、その他もろもろと、バランスを取りながらやっていこうかなと思っている次第であります。

左側のカウンターをご覧のように、まもなく3500を超えようとしています。
予想外のペースで増えています。
誰も読まないようなブログを続けるのも大変でしょうが、ある程度リピートしてくださる読者がいるのを想定して書くのも知恵がいりそうです。

コメントを残してくれる方も何人かありました。
またこのブログを紹介したり、ポストの中に入れ込んだりしてくれたブロッガーさんたちも何人かおりました。
この場を借りてお礼申し上げます。
そのようなエクストラ・プッシュは根気良くブログを続けるのに力になります。

それでは明日から十月。
なるべく今のペースに近い更新を続けたいと思います。

2010年9月29日水曜日

「・・・とは一切関係ありません。」

教会の看板、週報、ホームページに次のような記載(具体的表現は個々の教会で多少異なると思いますが)をすることについての是非を考えてみました。(カトリックやギリシャ正教ではこのようなことか゜あるのかどうか不勉強のため不明です。)
「当教会は正統的プロテスタントに属する教会であり、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。」
巣鴨聖泉キリスト教会では、余り深く考えてではありませんが、以上のような文言をどこにも記載したことがないと思います。

筆者が主任牧師となってから、あっちの教会、こっちの教会で、こう言う文言を目にするにつけ、しばし「いかがなものか」と思ったりしますが、それ以上は深く考えないで来てしまいました。

筆者の教会で、現在このような文言をどこにも記載しないのは、以上のようにちゃんとした考えからではなく、筆者の直感で「しっくりこない」、あるいは「ニュアンスがどこかずれている」感じがしているからではないかと分析しております。

さて、とは言えこの“問題”には以前から気にかかっていましたので、昨日のポストではありませんが、「世間」と「教会」のインターフェイス上、どんな効果があるのかネット検索したところ、興味深いブログ・ポストをヒットしました。

(ハンドル名、宗教ミーハーさん)
日本のプロテスタント教会には、おおむね、以下のような文言が教会の看板に書いてあります。これってわざわざ言わないといけないことなんでしょうか?前半の文言はいいと思うんですけど、後半は言わない方がいいと思います。こういうことが書いてあると、エホバとかで悩んでいる人が、改宗のために教会にいきづらいと思います。異端のキリスト教の人たちが来ると対応が面倒くさいって告白しているようなものだと思います。習慣でどこの教会もこういうふうに書いていますけど、考え直した方がいいのではないかと私は思います。
「私たちの教会は正統的なプロテスタントです。エホバの証人、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。」
先に少し紹介しておきますと、この「宗教ミーハー」さん、まだ二十代前半の女性で、芸能人・政治家・スポーツ選手等と宗教との関わりの情報を追っかけているようです。そして彼女のブログを読んで行くと、結構ミーハーな面だけではないことも書き綴っています。(最後にウェッブサイトのアドレス等を紹介します。)

このポストにコメントがついていましたので、それも紹介しておきます。
(Aさん) 自意識過剰なんでしょうね・・・。
(ブログ主) 統一教会と関係ない!ってわざわざかいてあったら、元統一教会の人や、統一教会に疑問を持っている人は、なかなか教会の門をくぐりにくいでしょうね。「異端の人」が来るのは迷惑だと牧師が思っているのがばればれの看板だと思っちゃいます。
(Aさん) 反対牧師がいる所はそうじゃないんでしょうけどね・・・。
(ブログ主) いろんな牧師に聞きましたけど、統一教会、エホバ、モルモンのことを異端だとしょっちゅう悪口言ってる牧師でも、それぞれがどういう教義なのかをさっぱりわかっていない人が多いですね。
反対牧師は、それぞれの宗教に関わった人たちを救援しようと必死な人もいますけど、ほとんどの牧師は、わざわざそういう信者に関わらずに、キリスト教に関心がある人を相手にしたいようです。
そんなものなんでしょうね、実態は。
筆者にズキリと来た部分は「・・・それぞれをどういう教義なのかをさっぱり分かっていない・・・」です。まさにその通り、「異端視している組織」をどう言う根拠でそうしているのか、自分自身では真面目に学んだことがない、と言う指摘です。もう既に大方がレッテルを押しているので、わざわざ自分が綿密に調べるまでもない。と言うか頭から相手にしていないのです。
もし仮にこれらの組織から脱退してきた人が、筆者に相談に来られたら、殆ど無知である筆者は狼狽することでしょう。
よく「真贋を見分けるには本物だけ見せておけ」みたいなことが言われますが、キリスト教に関しても「わざわざ異端のレッテルを貼られている組織の教義まで、真面目に勉強できるか」と言うのが本音です。

さて、問題は筆者のような無知・無関心に留まらないのは言うまでもありません。

西洋中世から近代にかけての「キリスト教文明圏(Christendom)」における正統と異端の問題の文脈と、現代とでは大きくかけ離れています。
信教自由の原則から言えば、どの宗教・信仰を取るかは個人の裁量であり、たとえ伝統的な見方で「異端」であっても、現在の市民社会で活動する「教会」は自分から見た「異端組織」を“裁く”ことはできません。
但し、「異端」であろうが「正統」であろうが、市民社会の「法」に触れるような活動をすれば、その「法」に従って裁かれます。(その教会内で有効な固有の法規や規律を持つのはまた別のことです。)

以上のような背景から、上記のような「文言」について筆者が思い至った点は二つあります。

①上記のような「文言」が、どの文脈で有意義なものになるかを考えることが大切。
看板やウェッブサイトのトップページにこのような文言を記載するのは、「パブリック・ステートメント」としての意義を持つことになるだろうと思います。と言うことは、「自分たちは何であり、何でないか」と言うアイデンティティーに言及する内容から言って、宗教ミーハーさんが指摘しているように、前半と後半ではその用法が異なるように思います。
どのようにプロテスタントの正統に位置するのかを言い切ることの方が優先的であり、特定の「異端」とは関係ない、と言及することは少々蛇足な観を否めません。
もしそのことを言いたいのであれば、別の括りでなされるのが良いだろうと思われます。

②現代人(筆者がよく使う表現で言えばポストモダン)の感性では、正統異端の別は相対化され、それらも含め、オカルト・占い・ニューエイジ・スピリチュアルなどと並列されます。
これ自体はよく考えなければならない問題ですが、現に「宗教一般を並列化」して眺める現象は「パブリックな場」で「キリスト教」と言う一宗教を伝道する者にとって想定内でいた方が良い。
これは「キリスト教も一宗教」と言う解釈のことではなく、一般現代人が「キリスト教」を見る時にはそうなるだろう、と言う意味です。

・上掲ブログ・ポスト

(補記、ポストモダンの「スピリチュアル」や「宗教」への関心は、「ミーハー」に見えて侮れないと思います。上記ブログのヒット数をご覧ください。またブログ・ポストをしばらく読んで行くとはっとする記事もあります。少なくとも「現代への伝道」を考えていく上で、このような宗教の取り上げ方があることをよく把握していくことは必要なことだろうと思われます。)

2010年9月28日火曜日

教会ミシュラン・ガイド?

いや、まだそんなものはないでしょう。


しかし、教会もそのうち「新来会者」に、“消費者目線”でサービス業に位置付けられるような時代が来るかもしれません。
そして、そんな時代が到来したならば、教会のミシュラン・ガイドのようなものが出版されるかもしれません。

現にそんなガイドに近い本が刊行されています。

「万年教会新来者」が既に日本中の教会、教派を越えて、会堂や、牧師や、週報や、集会進行や、伝統・歴史について細かく調べ、比較検討して発表されている方がいるのです。

読者の中には「ははーんあの方かな」と思いつくひともいるかもしれません。

筆者の念頭にあるのは「八木谷涼子さん」。
面識はありませんが、しばらく前ご著書を読んで、「なるほど、新来会者はこういう目線で教会のことを見ているのだな」と変に感心させられました。
そしてすぐには実行できなくても改善すべきは改善しなければ、と思わされました。

後でウェッブサイトを紹介しますが、

例えば、
 「教会天動説」(八木谷の造語)というのは、「いつも来ている人」「事情を知っている人」、つまり身内にしか頭が回らなくなることを指します。 どこの社会にもこうした現象は多かれ少なかれ存在します。
 「どなたでもおいでください」「お気軽にどうぞ」などといって人を招いている教会も、例外ではありません。
 「教会天動説」に従って回転している教会は、新来者への配慮が欠けがちです。たとえば、

 * 礼拝中、いきなり式文や信仰告白を唱えたり、歌ったりする(メンバーは全員そらんじているため、わざわざどの本の何ページに載っています、などとアナウンスしない)
 * 献金の前に、「献金は礼拝参加費ではない、強制でもない」という意味の説明がない(新来者がいるとわかっているときに、これをしないのは本当に不親切です)
 * 聖体拝領や聖餐式で、受洗していない者はパンを受けられないことに対する説明が不十分(非信者の疎外感をなるべく軽くするような、わかりやすい説明をしてください)
これには思わず笑っちゃいました。
「イエスさまを信じて告白したい人は、どうぞ前に出てきてください!」
「はいっ、最低5人の人と握手してください!」
「両隣の人に、“あなたは愛されています”と3回いってください!」
「隣の人と、手をつないで賛美しましょう、はいっ、今度は手をあげて!」
誰もが、こういうノリについていけるわけではありません。

もちろん、教会ごとに個性があるのは当然です。
どこの教会に行っても同じ単純な礼拝ばかりやっていたら、それこそおもしろくありません。

わたしのいいたいのは、その教会のスタイルは活かしつつ、同時に、新来者のために工夫できることはないか? ということです。
ほんの少しの配慮があれば、新来者が楽についていけるようになるのに、ただ
「昔からこうやってきたから」
「教会とは、こういうものだから」
「つづけて通って、(あなたが)慣れればいいこと」
そんな理由で、見過ごしていることはないでしょうか?
このブログを読んでいる牧師の方、教会に通っている方、「新来会者目線」でアドヴァイスされているこのサイトから色々学ぶことが出来ると思いますよ。

このサイトは「万年新来者の声」だけでなく、各宗派・教派の違いなどを一覧にした比較表など、便利な情報も満載です。

・くりホン キリスト教教派の森 ウェッブ版 (トップページ)
・「万年教会新来者」の声 

2010年9月27日月曜日

読書の秋

酷暑も過ぎ、ようやく、と言うか急に秋になった。

秋と言えば、食欲、行楽、そして読書。
やっと本に手を伸ばすのが億劫でなくなった。

今日は読書の話題二つ。


Owen Barfield (1898-1997)

今読んでいるのは「ワールズ・アパート(Worlds Apart: A Dialogue of the 1960's)」。
邦訳はないようです。

しばらく前のブログ・ポストで「科学と信仰」のようなテーマのものを書きましたが、まさにこの本はそんな関連の本。

フィクションです。
ナレーターは、バージョン(言語学に関心のある法律家、と言うことは著者バーフィールド自身の投影)。
他に登場する対話者は、ハンター(神学者)、レンジャー(ロケット研究所員)、ブロディー(物理学教授)、サンダーソン(隠退した校長)、アップウォーター(生物学研究者)、ダン(言語哲学者)、そしてバローズ(精神分析医)。

これらの人たちが「三日間」に渡り、宇宙の進化、生物の進化、精神、意識と無意識、感覚・知覚行為と外的世界の関係、などなどを討論する、というもの。
興味深いのは、それぞれが専門的知識を持ちながら、専門外の領域、しかし関心事についてどのように対話を組み立てていくか、と言う思考(試行)錯誤の過程。
討論参加者はそれぞれ知的関心は高いが、かといって議論はそう簡単に進展しない。少し組み上がったかと思うと、別な問題が持ち上がり、その分析を始めると、また別な課題が出てくると言う、スパイラルな思考循環の繰り返し。でもそれがソクラテス的な前提の突き崩し、知識・思考の根拠を掘り下げる知的運動の活写になっている。

現在「三日目」の討論に入ったところ。果たしてどこか結論めいたところに到達できるや否や・・・。

同著者の、Saving the Appearances: A Study in Idolatry も読みたくなって本棚のあっちこっちを探し回っているが未だに捜索中。どこかに埋もれてしまっている。残念。

このバーフィールドと言う人は、ウィキペディアで調べてみたらC・S・ルイスの友人であり、J・R・R・トルキーンやT・S・エリオットにも影響を与えた人だそうな・・・。自身はルドルフ・スタイナーの影響を受けているのだとか。そう言えばスタイナーの名前出てきたっけ。

なぜ筆者がこんなオタクの様な著者の本を二冊も持っているのかって?

答えは筆者が真面目な留学生ではなく、遊学生だったから。

勉強そっちのけでキャンパス街の古本屋をはしごするのを娯楽にしていました。
特に、バークリーは立派なビルの古本屋から、間口の狭いかび臭いにおいのするみすぼらしい古本屋まで、10軒くらいあったろうか。それぞれ品揃えに特徴があった。

何が魅力かって、先ずその値段の安さ。
例えば出版時の値段が一ドルだとすると、現行価格に直して古本価格を設定するのではなく、出版時の価格を半額とか四分の一の価格にしてしまうこと。

英語の本は学術書のペーパーバックが多いので、適当に著名な本が25セントくらいで結構買えてしまうからたまらない。もうお宝探しの世界でした。


おかげで遊学を終えて帰国する時、半端じゃない量の蔵書を段ポール箱に詰めて船便に出すことになりました。全部本棚に並べられないので、ダンボール箱に眠っているのものも結構あります。いつかは日の目を見せてあげたいのですが・・・。

とまあ、そんなわけで自分の専門とか殆ど関係なく、面白そうな本で安い本は買いまくった結果、バーフィールドの本を手に入れるようになったわけ。彼の著書は確か文芸批評学コーナーあたりに並んでいたものと記憶している。

それでは皆さんも良い読書の秋をお過ごしください。

2010年9月26日日曜日

説教と学問

プロテスタント教会の牧師の主たる任務の一つは説教、と言うことには異論はないと思います。
日本に幾つくらいプロテスタントの教会があるか正確な数は知りませんが、少なくとも毎日曜日何千もの説教がなされているはずです。

説教をタイプに分けると大体次のようになると思います。
①講解説教
②主題的説教(神の愛、赦し、隣人愛、etc.)
③一応聖書箇所には言及するが、最近の問題とか、信者さんのこととか、何でも話題を選んでしゃべり通す。最後に祈りで何とか締めくくる。

もちろん「説教タイプ」について網羅しようと言う意図はありません。
ただ牧師が説教するに際しどのように読書や学問が関わってくるか、と言う問題と絡めるために大雑把にまとめてみたのです。

③のタイプは、現在その教会やその信徒が抱えている問題に対して、新聞やテレビや、雑多な読書や、それこそ今だったらネットサーフィン等、外から入ってくる情報を取り込んで関連させるような“お話し”が中心になるでしょう。聖書の引用はそれらの問題や話題に関連すると思われる箇所を“適当に選ぶ”ことになるでしょう。
筆者の勘ですが、いくつも集会を抱えていたり、忙しくて聖書、そして聖書に関連することを十分学ぶような時間のない牧師は、大体このような説教を多くするのではないかと思います。

②のタイプの説教をするためには、それなりに神学の勉強や、キリスト教書を読む必要があります。ただ主題の選択に関しては、その教会や通っている信者の必要や関心に左右されることも多く、聖書が教える主題を系統的・通覧的に説教する牧師はそれ程多くないと思われます。

①のタイプの説教をする牧師は、聖書辞典や注解書をネタ本にしていることが多いと思います。原典釈義を行った上で説教している牧師も稀にいるかもしれません。

①のタイプは、最もオーソドックスと言えます。書斎に聖書辞典や神学辞典、注解書をいくつも揃え、聖書各本の研究書も時々必要に応じて購入し、とにかく聖書からなるべく綿密に説教できるように準備しようと言う構えを持った牧師です。(実際に購入した本を読むか、積読かは様々な条件に左右されます。)

筆者は副牧師時代から、殆ど①のタイプできました。
と言っても、ある時までは神学校時代の学びの蓄えを食い潰す形でやっていました。
新しい本の学びに入る度に、注解書をいくつも買って、比較しながら、・・・なんて言うようなものではありませんでした。

ある程度行き詰まりを感じて始めている時でした。と言うのも「聖書全体に明るい」と言うレベルには到底達していない訳ですから、確かに聖書から説教はしていても、自分が暗い部分(筆者の場合は特に『終末論』)にはなかなか踏み込めませんでした。

そんな状況にいた筆者に、一つの大きな転機を与えた本があります。
それは自分で探して購入した本ではなく、たまたま友人から贈られた本でした。

G. B. Caird, NEW TESTAMENT THEOLOGY (1994)

この本はそれまでどう解釈していいのか困難であった(だから無意識に避けていた)終末論的箇所に「目からうろこが落ちる」ような光を何回も与えてくれました。
聖書は読み方によってはこんなに理解可能なのだ、と言う面白さ、解放感を与えてくれた本でした。

それだけでなく、博識な聖書学者であるケアードは聖書学の専門雑誌の編集もしていた関係で、最近の研究書にも通じていて、例えばマタイ福音書研究ならこれとこれとこれ、と言う風に脚注に丁寧に紹介していました。それを頼りに十冊余購入しました。
この本がきっかけで俄然「聖書学」の学びに火が点いたわけです。

それ以来十余年が経ちますが、二つのことを気付かされています。何とかしなければならない重要な問題だと思っています。
①仮に最近30年くらいの期間を考えても、聖書学(特に新約学)の研究は広範に深く進んでいます。
②聖書から説教するはずの牧師たちが、これら最近の研究成果を説教に反映させられていません。

この大きなギャップをどう埋めたら良いのか、と言うのが筆者のこの十年余の課題となっています。

一つ目のギャップは、牧師自身が先ず最新の聖書学研究を学ばなければなりません。
学びを通して、今までの聖書解釈を大きく変更させられる可能性があります。その葛藤や軋轢と対峙しなければなりません。
二つ目のギャップは、最新の聖書学の成果を説教に反映させる場合、聴衆をどうリードするかと言う問題です。やたらに「彼はこう言っている」「最新の学説によるとこの箇所はこういう解釈になる」などとぶつけても、聴衆はなかなか咀嚼できず、信徒が説教に期待していることとも齟齬を来たし、混乱が生じます。


試行錯誤の中で、筆者が会得し始めているポイントは、「聖書の包括的メッセージ」の視点から説教する、と言うことです。
この「聖書の包括的メッセージ」の視点自体が、最近の大きな研究成果です。
この「大きな絵」を絶えず意識しながら、講解箇所を説教することを心がけています。
「大きな絵」を意識することが、その時学ぶ「一節」「一パッセージ」の字義的・歴史的・文脈的詳細に埋もれてしまわないために必要である、と肝に銘じています。

2010年9月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

9月26日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:20
説 教 題 「約束を賜る神は唯一者です」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(47)
ガラテヤ人への手紙(35)
・律法の暫定的・限定的役割 3:19-22

※夏時間は終了、普通時間に戻ります。
(礼拝時間は約一時間です。)

2010年9月24日金曜日

N. T. ライトと「パブリック」

「パブリック・スクエアでの神学」
に寄せて

最新の「のらくら者の日記」に久し振りにライト師のことが取り上げられていました。
「のらくら者の日記」ブログは度々N. T. ライト師のことを紹介してくれる希少なサイトです。

筆者はライト師とは直接面識はありませんが、「のらくら者」さんは直に講義を聞いたり、同席したりしたことがあるので、そのお人柄をより肌で感じられていることと思います。

さて「パブリック・スクエアでの神学」のポストで、ライト師が「公共の場」に出て論ずることの重要性を強調しておられたことを、「のらくら者」さんは回想されておられます。

この「パブリック」と言う言葉、ライト師にとって幾つか重要なニュアンスを含むものです。

現在筆者は、10/9の「N.T.ライト読書会」に向け、発表メモを用意しているところです。
(当ブログでも9/9のポストで案内させていただきました。)

あらためてこの「パブリック」の意義を考えさせられています。

以下簡単に二点だけ紹介します。

① パブリック・ヒストリー
パーソナル・ヒストリーという表現がありますが、敬虔主義やリヴァイヴァリズムの影響(パーソナルな信仰表現の強調)、によって「イエスの救い」が所謂「救いの証し」のように“個人史的”に語られることへのチャレンジとして、ライト師はprivateに対するpublic と言うことをたびたび強調されます。

また神学論議(キリスト論)でも、The Story of Jesus を語る時、一世紀ユダヤ社会における、ナザレのイエスのイスラエル宣教、ローマ政権のもとでの十字架刑、復活顕現に対する多数の弟子たちの証言、など、しっかりとした歴史的基盤に則って議論されることが必要だと主張されます。
そうでなければ「自分たちの都合のいい部分だけつまみ食いしたイエス」を語ることになりかねません。
啓蒙主義は歴史批評的ツールをキリスト教に突きつけました。しかし、それは却って「史的イエス」への懐疑論的態度を強めました。
また、啓蒙主義の「信仰を公的領域からプライベートな領域に押しやる傾向」は、学者たちを「パブリック・ヒストリー」に支配されない「イエス像」を作りやすくしたと思われます。
But there is simply no point using the word 'Jesus' at all within theology unless one intends to refer to the Jesus who lived and died as a Jew of the first century. Unless quite strict controls are in place here, a whole range of theological debates wander off into pointlessness. And such controls are, I suggest, in place when we attempt serious 'Christian theology'. ...
The Christian reader of the New Testament is committed to a task which includes within itself 'early Christian history' and 'New Testament Theology', ... And this fuller reading of the New Testament neither 'excludes' nor 'contains' Jesus, nor does it merely presuppose him. Rather, it includes as one vital part of itself the task of telling the story of Jesus, with the assumption that this story took place within public history.
(The New Testament and the People of God, p.139.)
②他の世界観的ストーリーとの対峙
聖書が内包する「世界観的ストーリー」を語ることは、宗教的であれ非宗教的であれ、他の世界観的ストーリー(グノーシス主義、汎神論、啓蒙主義、諸宗教)と対峙せざるを得ません。
そしてそれが公開の場でなされる対話ではなく、対内的な場であっても(教会での信者向けの説教)、「ナザレのイエスのストーリー」を語る際、他の世界観的ストーリーとの対話を意識するべきであり、「イエスのストーリー」が「パブリック・ストーリー」であることを自覚するべきでしょう。
The more open we make the Bible, the more we must expect that dialogue with our friends and neighbours of other faiths will include the clear statement of radically different world views. (The Book And The Story)

At the same time, theology-any theology-needs biblical studies, since the claims of any theology must sooner or later come into contact, perhaps, conflict, with the stories contained in the Bible, and if a worldview of any sort is to be sustained it must be able to meet the challenge posed by its rivals.  (The New Testament and the People of God, p.138.)