当教会のニュースレターは「活水」と言って、一応季刊(年4回)発行です。
(最近発行者である筆者の不調でイーブンペースではなくなってきているが・・・。)
今度出そうと思っているのは11月始め。
筆者の母が天に召されて一年余経つのだが、その追悼特別号となる。
時期は少し神学的辻褄合わせだが、「万聖節」に合わせて。
と言っても、当教会は教会暦に従っているわけではない。
さらにカトリックの「聖人(セインツ)」の考え方や習慣とは違う。
すべてのキリスト者は死ぬ前にも「聖徒」と言う理解でいる。
ただ追悼号を出そうという元気が出てくるまで時間がかかり、イースターにも間に合わなかったし、一周年(7月)にも間に合わなかっただけ。
それで教会暦の「万聖節」をちょっとお借りしたわけである。
「宗教改革記念日(10月31日)」とも繋がるし、教会史のちょっとしたお勉強にもなるし・・・。
これだからプロテスタントの牧師はいい加減、と言われるのだろーなー。
現在追悼号の原稿を募集中。何点か集まってきた。
そのうちの一つ。昔教会学校の生徒だった(今は3児のママ)方から原稿を預かった。
それに目を通しながら、思いの外「子供心」と言うのは感受性が強いと言うか、素直な心で人の言うことを聞くものなのだなー、と改めて思わされた。
内容はここでは紹介できないが、教会学校の働きと言うのは結構大きいものだと感じさせる内容であった。
まああの時代(1970年代中盤から80年代後半にかけて)当教会は教会学校の働きを中心として回っていた。それだけ力を注いだこともあるだろうが・・・。
残念ながら、教会学校の働きが途絶えてもうかれこれ15年くらい経つであろうか。
当教会だけでなく、教会学校の働きが縮小したり、閉鎖した教会は数多いことであろう。
少子化や、塾や習い事で子供たちが忙しい等、問題を挙げればきりがない。
教会学校を継続するのは難しいのは現実、事実。
でもやはり子供たちの心に働きかける何かは欲しいなー。
あれっ、「教会ニュースレター」の話が、いつのまにか「教会学校」の話しになってしまった。
話が散漫になってきたところで、今日はこれでペンを置くことにしよう。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2010年10月19日火曜日
2010年10月18日月曜日
賛美歌 旧新
当教会で使用している讃美歌は「インマヌエル賛美歌」と言う。
所謂「賛美歌」と、もう一つ時代の新しい「リヴァイヴァル聖歌」が一緒になったものである。
一昨年、「そろそろ新しい賛美歌を・・・」と言うことで、二つの賛美歌を候補にして、一年かけて選定しようとした。
結論は、現行の「インマヌエル賛美歌」に落ち着いた。
讃美歌を選ぶのは難しい。
教会によっては、プレイズ系など最近の賛美歌を多く取り入れている教会も多くあろう。
当教会も40年くらい前は「友よ歌おう」(その時代の空気を知っている人は読者の中にどれほどいるであろうか・・・)を盛んに使ったし、その後はミクタムのプレイズなどもつい最近まで歌っていた。
「新しい賛美歌」候補に上げた『賛美歌21』も『新聖歌』も、従来の賛美歌に最近のプレイズ系などを補充している。
やはり「歌は世につれ、世は歌につれ」みたいなところがあるのだろう。
先日も、この「大和郷にある教会」ブログを度々取り上げてくださる「一キリスト者からのメッセージ」ブログの「かわむかい」さんが、当ブログポスト「教会のヴィジョン(続)」に関連して、「ヴィジョンをめぐるもろもろ」と題して、古い賛美歌、Be Thou My Visionを紹介しておられた。
この賛美歌、実は筆者が好きなものの一つである。
ところがこの賛美歌が「インマヌエル賛美歌」には見当たらない。
公用賛美歌は個人の好き好みで選ぶわけには行かないので、結局新旧色々取り混ぜながら、なるべく誰にでも親しまれるように讃美歌を選んでいるのであろう。
そそれはそれで良いと思うし、致し方のないことである。
ただどうしても、この賛美歌、あの賛美歌が、こっちには入っていて、別の方には入っていない、ということになる。
痛し痒しである。いっそのことその教会でよく歌う讃美歌集を作ってしまえばよいのかもしれないが、著作権問題などで難しそう。
そのうちこの問題がクリアされれば、オンデマンドで個々の教会用にカスタマイズされた讃美歌集が出来るようにならないかなー。
さて、Be Thou My Visionに戻ろう。
KJV風英語、と表現されておられたが、手元にある「賛美歌21」では、8世紀アイルランド賛美歌の英訳詩が、さらに邦訳されて「ヴィジョン」は「のぞみ」になっている。
いや、筆者が今回書いているのは「ヴィジョン」についてではない。
このような古い賛美歌が現行の讃美歌集から少なくなっていかないようにしてもらえたらなー、ということである。
クリスチャン人生も中年になってみて、最もしっくりいく賛美歌は、筆者の場合は古い賛美歌なのである。
例えば、グリゴリオ賛美「父の神よ夜は去りて」とか。
シンプルなメロディーと「私の証、感動的体験」みたいなものを前面に押し出さない、平板、平凡、日常的な時の流れの中で紡がれる「賛美の詩」が歌詞になっている。そのような賛美歌が心に染み入る感じがするのだ。
多分「中世」的なキリスト者生活(修道的、霊的)に対し、親近感を感じるようになっているからなのかもしれない。
だからと言って「中世キリスト教」がどのようなものであったかを良く知った上でのことではなく、ただ漠然とその時代の生活のリズムに染み込んだキリスト教が、イメージとして憧憬されるのであろう。
所謂「賛美歌」と、もう一つ時代の新しい「リヴァイヴァル聖歌」が一緒になったものである。
一昨年、「そろそろ新しい賛美歌を・・・」と言うことで、二つの賛美歌を候補にして、一年かけて選定しようとした。
結論は、現行の「インマヌエル賛美歌」に落ち着いた。
讃美歌を選ぶのは難しい。
教会によっては、プレイズ系など最近の賛美歌を多く取り入れている教会も多くあろう。
当教会も40年くらい前は「友よ歌おう」(その時代の空気を知っている人は読者の中にどれほどいるであろうか・・・)を盛んに使ったし、その後はミクタムのプレイズなどもつい最近まで歌っていた。
「新しい賛美歌」候補に上げた『賛美歌21』も『新聖歌』も、従来の賛美歌に最近のプレイズ系などを補充している。
やはり「歌は世につれ、世は歌につれ」みたいなところがあるのだろう。
先日も、この「大和郷にある教会」ブログを度々取り上げてくださる「一キリスト者からのメッセージ」ブログの「かわむかい」さんが、当ブログポスト「教会のヴィジョン(続)」に関連して、「ヴィジョンをめぐるもろもろ」と題して、古い賛美歌、Be Thou My Visionを紹介しておられた。
この賛美歌、実は筆者が好きなものの一つである。
ところがこの賛美歌が「インマヌエル賛美歌」には見当たらない。
公用賛美歌は個人の好き好みで選ぶわけには行かないので、結局新旧色々取り混ぜながら、なるべく誰にでも親しまれるように讃美歌を選んでいるのであろう。
そそれはそれで良いと思うし、致し方のないことである。
ただどうしても、この賛美歌、あの賛美歌が、こっちには入っていて、別の方には入っていない、ということになる。
痛し痒しである。いっそのことその教会でよく歌う讃美歌集を作ってしまえばよいのかもしれないが、著作権問題などで難しそう。
そのうちこの問題がクリアされれば、オンデマンドで個々の教会用にカスタマイズされた讃美歌集が出来るようにならないかなー。
さて、Be Thou My Visionに戻ろう。
KJV風英語、と表現されておられたが、手元にある「賛美歌21」では、8世紀アイルランド賛美歌の英訳詩が、さらに邦訳されて「ヴィジョン」は「のぞみ」になっている。
いや、筆者が今回書いているのは「ヴィジョン」についてではない。
このような古い賛美歌が現行の讃美歌集から少なくなっていかないようにしてもらえたらなー、ということである。
クリスチャン人生も中年になってみて、最もしっくりいく賛美歌は、筆者の場合は古い賛美歌なのである。
例えば、グリゴリオ賛美「父の神よ夜は去りて」とか。
シンプルなメロディーと「私の証、感動的体験」みたいなものを前面に押し出さない、平板、平凡、日常的な時の流れの中で紡がれる「賛美の詩」が歌詞になっている。そのような賛美歌が心に染み入る感じがするのだ。
多分「中世」的なキリスト者生活(修道的、霊的)に対し、親近感を感じるようになっているからなのかもしれない。
だからと言って「中世キリスト教」がどのようなものであったかを良く知った上でのことではなく、ただ漠然とその時代の生活のリズムに染み込んだキリスト教が、イメージとして憧憬されるのであろう。
2010年10月17日日曜日
牧師の書斎
筆者の場合、それは事務室も兼ねる。
広さにして六畳弱。
天井の高さが2.9mあるので、自作の書棚は天井まで一杯に作ってある。
部屋が狭いので広く見せるために床置きではなく、途中からにしている。
「のらくら者の日記」のブログ主「もし大地震がきたら・・・」のような「専用本棚」ではなく、個人的で乱雑なアイテムが棚に並べられているので、お恥ずかしくて写真で見せるわけにはいかない。
だから後は筆者の貧弱な描写力による文章で想像してただきたい。
道路側の窓のある壁はゆるくカーブを描いている。
このカーブに合わせて切断した「霧島ツガ」の一枚板(厚さ五センチ、全長1.7m、平均奥行き60センチ)が置かれている。上にはデスクトップのPCが2台。
このデスクの左端上部棚には聖書類やA5版程度の大きさの本や、週報とかCD、カセット類も置いてある。
さらに一番天井に近い部分二段棚には、長さ2mくらいに渡って、哲学の本が並んでいる。プラトン、アリストテレス辺りから始まり、キケロ、すぐ中世に入ってドン・スコタスとかパドゥアのマジリウスが一冊、後はすぐデカルト、スピノザ、ホッブス、ジョン・ロック、ベンサムと啓蒙主義哲学者(ディドロ、ヴォルテール、ダレンバート、モンテスキュー、など)が並ぶ。
後はヒューム、カント、ヘーゲル、シェリング、シャフツベリー、キルケゴール、ブラッドレーとか。
これらのほぼ半分はあの黄色い表紙のボッブス・メリル社の廉価版哲学書シリーズものである。
部屋の反対側には同じく哲学、人文科学、社会学、アメリカ史、文学も少し、所謂ポケット・ペーパーバックの大きさの本が二重になって置かれている。段にして二段。残念ながら表面のを動かさないと裏に何があったか思い出せない。埋もれたまんまである。
ようやくその下三段が帰国後、アマゾンで購入した新本が並び始める。大体は聖書学関係。
一番使う頻度が激しいのが下に位置する。もちろんN.T.ライト。リチャード・ヘイズやリチャード・ボーカム、サンダース、ベン・ワイザリントン、等も並ぶ。
道路の窓と反対側の壁は無垢の栗板を五段に重ねた本棚。大きく右半分は現代哲学や社会学。特にフランクフルト・スクールの著者たち(マルクーゼ、ホルクハイマー、アドルノ、など)や別格でフーコー、ハーバーマス、ロバート・ベラーの著書が並ぶ。最近また読まれるようになったらしいマルクス、ヴェーバー、デュルケーム、古典としてまた別枠に並べてある。
変っているのは右側の上二番目の棚にはアメリカ・ピューリタン研究者ペリー・ミラーの著書が幾冊か。それにアメリカの文化史的なシリーズ、またボッブス・メリル社の「アメリカン・ヘリテージ」シリーズが八冊くらい。
(ここまでついてきた人何人くらいいるかなー。)
向かって左側は主に神学書。現代古典から少し古いのまでそれほど多くはない。
筆者の傾向として一人の著者を重点的に読む傾向があるので、H.R.ニーバーがいいとなったら、彼の本を買い集める、というパターン。
後は文化人類学(レビ・ストロース)や心理学、宗教学、文芸批評関係などが少しまとまりがある程度。
こうして見ると「牧師の書斎」としては偏っている。
何が一番少ないかというと、定評のある注解書群や辞書類。
無くては恥ずかしいTDNT、バルト教会教義学シリーズもない。
それから一番問題なのは日本人著者によるキリスト教関係書籍の圧倒的少なさ。
じゃあ集めた本は役に立っているのか。
読まなくても本に囲まれているのは、筆者には精神衛生的によろしい。
それから何かを読んでいて、はっと思う「著者」や「時代」や「領域」に何かしら関係のある本が一冊でもあると、手にとってわずかでも背景とかを知りうるのがよろしい。
最後に、筆者の場合「大地震」のことは余り心配していない。何しろこちらは大工的な工夫で棚自体は倒れたりしないように壁付けしたりしている。本が落っこちてきても大した量ではないから大丈夫だろう。
でもどこに隠れるか想定しておいた方が良いだろうか・・・。
広さにして六畳弱。
天井の高さが2.9mあるので、自作の書棚は天井まで一杯に作ってある。
部屋が狭いので広く見せるために床置きではなく、途中からにしている。
「のらくら者の日記」のブログ主「もし大地震がきたら・・・」のような「専用本棚」ではなく、個人的で乱雑なアイテムが棚に並べられているので、お恥ずかしくて写真で見せるわけにはいかない。
だから後は筆者の貧弱な描写力による文章で想像してただきたい。
道路側の窓のある壁はゆるくカーブを描いている。
このカーブに合わせて切断した「霧島ツガ」の一枚板(厚さ五センチ、全長1.7m、平均奥行き60センチ)が置かれている。上にはデスクトップのPCが2台。
このデスクの左端上部棚には聖書類やA5版程度の大きさの本や、週報とかCD、カセット類も置いてある。
さらに一番天井に近い部分二段棚には、長さ2mくらいに渡って、哲学の本が並んでいる。プラトン、アリストテレス辺りから始まり、キケロ、すぐ中世に入ってドン・スコタスとかパドゥアのマジリウスが一冊、後はすぐデカルト、スピノザ、ホッブス、ジョン・ロック、ベンサムと啓蒙主義哲学者(ディドロ、ヴォルテール、ダレンバート、モンテスキュー、など)が並ぶ。
後はヒューム、カント、ヘーゲル、シェリング、シャフツベリー、キルケゴール、ブラッドレーとか。
これらのほぼ半分はあの黄色い表紙のボッブス・メリル社の廉価版哲学書シリーズものである。
部屋の反対側には同じく哲学、人文科学、社会学、アメリカ史、文学も少し、所謂ポケット・ペーパーバックの大きさの本が二重になって置かれている。段にして二段。残念ながら表面のを動かさないと裏に何があったか思い出せない。埋もれたまんまである。
ようやくその下三段が帰国後、アマゾンで購入した新本が並び始める。大体は聖書学関係。
一番使う頻度が激しいのが下に位置する。もちろんN.T.ライト。リチャード・ヘイズやリチャード・ボーカム、サンダース、ベン・ワイザリントン、等も並ぶ。
道路の窓と反対側の壁は無垢の栗板を五段に重ねた本棚。大きく右半分は現代哲学や社会学。特にフランクフルト・スクールの著者たち(マルクーゼ、ホルクハイマー、アドルノ、など)や別格でフーコー、ハーバーマス、ロバート・ベラーの著書が並ぶ。最近また読まれるようになったらしいマルクス、ヴェーバー、デュルケーム、古典としてまた別枠に並べてある。
変っているのは右側の上二番目の棚にはアメリカ・ピューリタン研究者ペリー・ミラーの著書が幾冊か。それにアメリカの文化史的なシリーズ、またボッブス・メリル社の「アメリカン・ヘリテージ」シリーズが八冊くらい。
(ここまでついてきた人何人くらいいるかなー。)
向かって左側は主に神学書。現代古典から少し古いのまでそれほど多くはない。
筆者の傾向として一人の著者を重点的に読む傾向があるので、H.R.ニーバーがいいとなったら、彼の本を買い集める、というパターン。
後は文化人類学(レビ・ストロース)や心理学、宗教学、文芸批評関係などが少しまとまりがある程度。
こうして見ると「牧師の書斎」としては偏っている。
何が一番少ないかというと、定評のある注解書群や辞書類。
無くては恥ずかしいTDNT、バルト教会教義学シリーズもない。
それから一番問題なのは日本人著者によるキリスト教関係書籍の圧倒的少なさ。
じゃあ集めた本は役に立っているのか。
読まなくても本に囲まれているのは、筆者には精神衛生的によろしい。
それから何かを読んでいて、はっと思う「著者」や「時代」や「領域」に何かしら関係のある本が一冊でもあると、手にとってわずかでも背景とかを知りうるのがよろしい。
最後に、筆者の場合「大地震」のことは余り心配していない。何しろこちらは大工的な工夫で棚自体は倒れたりしないように壁付けしたりしている。本が落っこちてきても大した量ではないから大丈夫だろう。
でもどこに隠れるか想定しておいた方が良いだろうか・・・。
2010年10月16日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
10月17日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:21
説 教 題 「神の約束と律法」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(48)
ガラテヤ人への手紙(36)
・律法の暫定的・限定的役割 3:19-22
※当教会の「オープンチャーチ」、11月3日(水)、午前11~午後3時。気軽にお茶しに来てください。
10月17日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:21
説 教 題 「神の約束と律法」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(48)
ガラテヤ人への手紙(36)
・律法の暫定的・限定的役割 3:19-22
※当教会の「オープンチャーチ」、11月3日(水)、午前11~午後3時。気軽にお茶しに来てください。
2010年10月15日金曜日
イラン・コネクション
現在日本に居住するイラン人はどれくらいいるのだろうか。
2005年の統計では在住許可を所持しているイラン人は五千人を超えるくらいらしい。
バブル経済がはじける前はイラン人は滞在許可(ビザ)なしで、短期間労働者として来日し、その数は五万人を超えていただろうと言う。エンサイクロペディア・イラニカ「日本にいるイラン人」
筆者の「イラン・コネクション」は二つある。
一つは米国留学での最初の地、カンザスの大学での「短期英語集中コース」で仲間となったイラン人たちである。
三十人を超える仲間たちのうちイラン人は四人、日本人も四人であったように記憶している。
クラスは三つに分けられていたが、一番出来るクラスにイラン人たちが数人いた。
彼らは日本人とは対照的にとにかくブロークンでも何でも英語をどんどんしゃべった。
日本人は自分も含めて留学生だとちょっと安心してしゃべるが、アメリカ人だと緊張する風だった。
明らかに英語をしゃべる能力はイラン人学生の方がめきめき上達した。
仲良くなったイラン人の男子学生、ジャバッドとファラハッドは同じイラン人でもこれだけ違うかというほど対照的な性格だった。
ジャバッドは遊び好きで社交的、明るい外向的な性格。
ファラハッドは物静かでいつも瞑想しているような深みを感じる青年だった。
私たち日本人の学生は特にこのファラハッドと仲良しになり、よく一緒にご飯を作ったりして親しくなった。
あの時代はまだイラン革命の前だった。結構裕福な家庭から米国に留学しに来ていたのだろう。
彼らは今どこでどうしているだろうか・・・。
二つ目の「イラン・コネクション」は、筆者が1993年、マニラで開催された世界福音同盟の大会に参加した時に出会った男性、デーヴィッド・イグナザール。
お父さんがサム・イグナザールと言ってイラン人宣教をイギリスから支援している団体の主宰者だった。
筆者は大会の前に持たれた「信教自由委員会」設立のための準備委員会に出席していたが、そこでデーヴィッドに会ったのだった。
とにかく米国以外の外国で暮らしたことはなく、準備委員会で報告される各国でのキリスト者への迫害の様子を聞きながら何か場違いなところに来てしまった、と言う印象が強かった。
その後彼らの宣教団体を個人的に支援することで、今日まで、年に数回機関紙を頂きながら、イランのことを気にかけていた。
今日届いた機関紙で、この団体が二十周年を迎えたことを知らされた。
これまでの歩みを回顧する記事が書かれていたが、大変な歩みであったことを改めて思わされた。
最初の頃は経済的に逼迫し、また本国にいる指導者たちが何人も続けて殉教し、先の見えない数年を過ごしたようだ。
その後は、クリスチャン指導者の養成機関の設立、メディア伝道(聖書の翻訳、トラクト、デジタル・メデイア)の充実、等イラン国内での宣教にもインパクトを与えるようになってきた。
毎回のニュースレターで報告されるのは、如何にイラン国民が霊的に餓え乾いているかということ。福音を受け容れる地であることを知らされる。
キリスト教は遡れば中近東から始まった。
今キリストの福音の種は中近東にも蒔かれている。
イラン宣教の様子を知りたい方、現在のイランの実情も知りたい方、
以下のサイトをご覧ください。
・宣教団体イラム ELAM Ministries
・イラン30 Iran30
2005年の統計では在住許可を所持しているイラン人は五千人を超えるくらいらしい。
バブル経済がはじける前はイラン人は滞在許可(ビザ)なしで、短期間労働者として来日し、その数は五万人を超えていただろうと言う。エンサイクロペディア・イラニカ「日本にいるイラン人」
筆者の「イラン・コネクション」は二つある。
一つは米国留学での最初の地、カンザスの大学での「短期英語集中コース」で仲間となったイラン人たちである。
三十人を超える仲間たちのうちイラン人は四人、日本人も四人であったように記憶している。
クラスは三つに分けられていたが、一番出来るクラスにイラン人たちが数人いた。
彼らは日本人とは対照的にとにかくブロークンでも何でも英語をどんどんしゃべった。
日本人は自分も含めて留学生だとちょっと安心してしゃべるが、アメリカ人だと緊張する風だった。
明らかに英語をしゃべる能力はイラン人学生の方がめきめき上達した。
仲良くなったイラン人の男子学生、ジャバッドとファラハッドは同じイラン人でもこれだけ違うかというほど対照的な性格だった。
ジャバッドは遊び好きで社交的、明るい外向的な性格。
ファラハッドは物静かでいつも瞑想しているような深みを感じる青年だった。
私たち日本人の学生は特にこのファラハッドと仲良しになり、よく一緒にご飯を作ったりして親しくなった。
あの時代はまだイラン革命の前だった。結構裕福な家庭から米国に留学しに来ていたのだろう。
彼らは今どこでどうしているだろうか・・・。
二つ目の「イラン・コネクション」は、筆者が1993年、マニラで開催された世界福音同盟の大会に参加した時に出会った男性、デーヴィッド・イグナザール。
お父さんがサム・イグナザールと言ってイラン人宣教をイギリスから支援している団体の主宰者だった。
筆者は大会の前に持たれた「信教自由委員会」設立のための準備委員会に出席していたが、そこでデーヴィッドに会ったのだった。
とにかく米国以外の外国で暮らしたことはなく、準備委員会で報告される各国でのキリスト者への迫害の様子を聞きながら何か場違いなところに来てしまった、と言う印象が強かった。
その後彼らの宣教団体を個人的に支援することで、今日まで、年に数回機関紙を頂きながら、イランのことを気にかけていた。
今日届いた機関紙で、この団体が二十周年を迎えたことを知らされた。
これまでの歩みを回顧する記事が書かれていたが、大変な歩みであったことを改めて思わされた。
最初の頃は経済的に逼迫し、また本国にいる指導者たちが何人も続けて殉教し、先の見えない数年を過ごしたようだ。
その後は、クリスチャン指導者の養成機関の設立、メディア伝道(聖書の翻訳、トラクト、デジタル・メデイア)の充実、等イラン国内での宣教にもインパクトを与えるようになってきた。
毎回のニュースレターで報告されるのは、如何にイラン国民が霊的に餓え乾いているかということ。福音を受け容れる地であることを知らされる。
キリスト教は遡れば中近東から始まった。
今キリストの福音の種は中近東にも蒔かれている。
イラン宣教の様子を知りたい方、現在のイランの実情も知りたい方、
以下のサイトをご覧ください。
・宣教団体イラム ELAM Ministries
・イラン30 Iran30
2010年10月14日木曜日
「教会」のヴィジョン(続)
10月1日のポストで、同題で書いたものの続き、のようなものです。
前回、当教会が「目指すもの」として明文化されたものの第一弾を紹介しました。
これは当教会ホームページ(巣鴨聖泉キリスト教会ウェッブサイト)の標語のようにして掲載されています。
これをもう少し膨らました文章として、同サイトの「説教」ぺーじの左のコラムに以下のような文章が掲載されています。
かいつまんでポイントとなる概念を列挙してみます。
①キリストの主権
福音書でイエスが弟子たちを召し出された時、イエスは「神の国」運動の指導者(預言者)としてでした。しかし十字架の死と復活後、全世界に派遣された弟子たちは、キリストの主権確立後の宣教を担う「弟子たち」です。(マタイ28:18-20、使徒の働き1:8)
イスラエル宣教が急務であった宣教と、イースター後の世界宣教とは、弟子としての歴史的文脈が異なります。二十一世紀に生きる私たちキリスト者は、当然イースター後の世界宣教を担う「弟子たち」です。その意味で私たちの宣教の働きはイースター後の使徒たちの宣教と密接に繋がっています。
②「メシヤの体」
教会は「キリストの体」と表現されていますが、神秘主義的に受け取られたりしますが、筆者は「メシヤ共同体」と言う解釈を中心線にして考えています。
バプテスマによってキリスト者は「メシヤと一体となる」、あるいは「メシヤ共同体に加えられる」のであり、聖餐は「メシヤとの一体性」を継続的に現すものであり、「メシヤ共同体」が“見える言葉”を通して相互に認識されるものであると考えています。
③「神の国」の福音
「神の国」は共観福音書において、ナザレのイエスが「福音」として語り、行い、象徴表現したものです。現代の福音的教会は「イエス・キリストの福音」を「個人の魂の救済」に焦点を絞って理解する傾向があり、「神の国」は言葉としては使われますが、その意味するところは曖昧で、なかなか具体的に明示されることがないように感じます。
筆者は「神の国」の福音は「イエス・キリスト」において成就した、それ故「イエス・キリストの福音」は「イエス・キリストにおいて成就し、また完成される神の国の福音」として、その連関を捉えています。(詳しくは「二つの福音?」をご覧ください。)
④「主の宣教」
教会の宣教は、その時代や置かれた社会のニーズに合わせて取捨選択するするような次元の問題を取り扱う前に、その根源であるお方から説き起こされる必要があると思います。ですから、宣教は先ず「神の宣教(ミッシオ・デイ)」です。
最近の宣教学では、ディヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』(上・下)(新教出版社)「本を枕にスピリチュアルな日々」ブログで紹介されています。の中で次のように書かれています。
(余計なことかもしれませんが、N・T・ライトに対して、O・T・ライトと、N. T. Wright自身がジョークにしていました。)
以上巣鴨聖泉キリスト教会が目指している「教会の姿勢・自己理解」を、牧師である筆者が説明してみました。
前回の「教会のヴィジョン」に書き込まれたコメントのように、これが教会員による共同作業になったら素晴らしいのでしょうが・・・。
前回、当教会が「目指すもの」として明文化されたものの第一弾を紹介しました。
わたしたちは、聖書からじっくり学ぶ、キリストの弟子たちの群れを目指しています。
これは当教会ホームページ(巣鴨聖泉キリスト教会ウェッブサイト)の標語のようにして掲載されています。
これをもう少し膨らました文章として、同サイトの「説教」ぺーじの左のコラムに以下のような文章が掲載されています。
巣鴨聖泉キリスト教会が目指すのは、キリストの主権の下に、一人一人が「主イエス・キリストの弟子」として集まり、交わり、学び、礼拝をささげる群れです。これもまだまだ未完成な文章で、今後も神学的編集作業が必要だと思っています。
バプテスマを通して「メシヤのからだ」の一員とされ、主日礼拝を通し、聖餐を通して、「神の国」の福音を今に伝える「主の宣教」に参画する群れです。
かいつまんでポイントとなる概念を列挙してみます。
①キリストの主権
福音書でイエスが弟子たちを召し出された時、イエスは「神の国」運動の指導者(預言者)としてでした。しかし十字架の死と復活後、全世界に派遣された弟子たちは、キリストの主権確立後の宣教を担う「弟子たち」です。(マタイ28:18-20、使徒の働き1:8)
イスラエル宣教が急務であった宣教と、イースター後の世界宣教とは、弟子としての歴史的文脈が異なります。二十一世紀に生きる私たちキリスト者は、当然イースター後の世界宣教を担う「弟子たち」です。その意味で私たちの宣教の働きはイースター後の使徒たちの宣教と密接に繋がっています。
②「メシヤの体」
教会は「キリストの体」と表現されていますが、神秘主義的に受け取られたりしますが、筆者は「メシヤ共同体」と言う解釈を中心線にして考えています。
バプテスマによってキリスト者は「メシヤと一体となる」、あるいは「メシヤ共同体に加えられる」のであり、聖餐は「メシヤとの一体性」を継続的に現すものであり、「メシヤ共同体」が“見える言葉”を通して相互に認識されるものであると考えています。
③「神の国」の福音
「神の国」は共観福音書において、ナザレのイエスが「福音」として語り、行い、象徴表現したものです。現代の福音的教会は「イエス・キリストの福音」を「個人の魂の救済」に焦点を絞って理解する傾向があり、「神の国」は言葉としては使われますが、その意味するところは曖昧で、なかなか具体的に明示されることがないように感じます。
筆者は「神の国」の福音は「イエス・キリスト」において成就した、それ故「イエス・キリストの福音」は「イエス・キリストにおいて成就し、また完成される神の国の福音」として、その連関を捉えています。(詳しくは「二つの福音?」をご覧ください。)
④「主の宣教」
教会の宣教は、その時代や置かれた社会のニーズに合わせて取捨選択するするような次元の問題を取り扱う前に、その根源であるお方から説き起こされる必要があると思います。ですから、宣教は先ず「神の宣教(ミッシオ・デイ)」です。
最近の宣教学では、ディヴィッド・ボッシュ『宣教のパラダイム転換』(上・下)(新教出版社)「本を枕にスピリチュアルな日々」ブログで紹介されています。の中で次のように書かれています。
MISSION AS MISSIO DEIまたこのテーマを旧約聖書神学の観点から包括的に扱った好著として、Christopher J. H. Wright, THE MISSION OF GOD があります。
During the past half a century or so there has been a subtle but nevertheless decisive shift toward understanding mission as God's mission. (Transforming Mission: Paradigm Shifts in Theology of Mission, p.389.)
(余計なことかもしれませんが、N・T・ライトに対して、O・T・ライトと、N. T. Wright自身がジョークにしていました。)
以上巣鴨聖泉キリスト教会が目指している「教会の姿勢・自己理解」を、牧師である筆者が説明してみました。
前回の「教会のヴィジョン」に書き込まれたコメントのように、これが教会員による共同作業になったら素晴らしいのでしょうが・・・。
2010年10月13日水曜日
本の紹介と推薦
このブログで筆者が読んでいる本とか、読んだ本とかを紹介したことはありましたが、今日は「是非買って下さい」と言う推薦も付いた紹介です。
ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず」

原題は、Paul Marshall, HEAVEN IS NOT MY HOME
内容の紹介については、訳者の島先克臣さんのサイト「キリスト教世界観ネットワーク」の方をどうぞ。
今回のご紹介は、訳者から直接購入するディスカウントについて。
重版(正価税込1680円)
価格:一冊1500円。
送料:無料。
とのことです。
注文と支払いに関しては:島先克臣、knshimasaki(アットマーク)gmail.com
までご連絡ください。郵貯口座を教えてくれます。
振込確認後の送付となりますので、その点ご了承くださいとのこと。
(※2013/6/15補記・・・お振込みの時送付先住所記入お忘れなきようご注意ください。在庫少なくなりつつあります。在庫切れの際はご容赦を。)
さて、この本とは筆者も二重の意味で関わっているのでかなり思い入れがあります。
①巣鴨聖泉キリスト教会でこの本をテキストにして「キリスト教世界観セミナー」を実施しました。
2005-2009年の五年にかけて、全17章中、1,2,4,5,6,8,9,10,11,13,14,16の計十二章をカバーしました。一番の問題は“挑戦的な”タイトルです。
今まで何ともなくクリスチャンとして生活してきた方には「天が故郷」と言うのは至極当然、暗黙了解、の事柄のように思えていたはずです。
この本はその様な考えと裏腹になっている「この世からの退避的」姿勢を鋭くあぶり出し、クリスチャンが本来持つべき「この世で仕えるために与えられている賜物・召命」に気付かせます。
人間的なことを「聖俗ニ元論」のめがねで見て、真正面から取り組むことが出来ず、及び腰で捉えてきた「仕事、学問、政治、文化(ファッション・アート・文学)」等について、どのように積極的にアプローチできるか沢山の示唆をくれます。
②筆者はこの本全十七章を、一章ずつ、懇切丁寧に解説する「読書随想」を書きました。
「小嶋崇による『わが故郷天にあらず』の読書随想連載」
読み通してみて、聖書神学的基盤(少々「ネオ・カルヴィニズム」のフィルターがかかっている印象があるが)の上で「諸文化(この世を治める文化命令)」の問題を扱っています。
またN.T.ライトほどの重厚さはありませんが「創造から新創造」の視点でカバーしています。「身体的復活観」もライトに共通します。
(※ある教会では、この本をテキストに、また筆者の読書随想を参考にして、学びをしたそうです。)
・聖書の教えがどれだけ“世俗の問題”に応用可能か、窓を開いてくれる本だと思います。
・一人で読むには大変と言う方には、是非何人かで読みあって感想を言い合いながら読むと良い本です。
・昨日ポストでも書いた、ゲイブ・ライオンズ、The Next Christiansで、次代を担うキリスト者として描写されている「リストアラー(文化の回復者)」にも繋がる内容をカバーしてます。
とまあ色々と書いてきましたが、要するに買って損はしない本だと思います。
最後に著者のマーシャルについて一言。
彼の現在の専門は「政治と宗教」、特に信教自由、宗教迫害の問題について多く本を書いたり、マスメディアで発言したりしています。
・Paul Marshall Profile
ポール・マーシャル「わが故郷天にあらず」

原題は、Paul Marshall, HEAVEN IS NOT MY HOME
内容の紹介については、訳者の島先克臣さんのサイト「キリスト教世界観ネットワーク」の方をどうぞ。
今回のご紹介は、訳者から直接購入するディスカウントについて。
重版(正価税込1680円)
価格:一冊1500円。
送料:無料。
とのことです。
注文と支払いに関しては:島先克臣、knshimasaki(アットマーク)gmail.com
までご連絡ください。郵貯口座を教えてくれます。
振込確認後の送付となりますので、その点ご了承くださいとのこと。
(※2013/6/15補記・・・お振込みの時送付先住所記入お忘れなきようご注意ください。在庫少なくなりつつあります。在庫切れの際はご容赦を。)
さて、この本とは筆者も二重の意味で関わっているのでかなり思い入れがあります。
①巣鴨聖泉キリスト教会でこの本をテキストにして「キリスト教世界観セミナー」を実施しました。
2005-2009年の五年にかけて、全17章中、1,2,4,5,6,8,9,10,11,13,14,16の計十二章をカバーしました。一番の問題は“挑戦的な”タイトルです。
今まで何ともなくクリスチャンとして生活してきた方には「天が故郷」と言うのは至極当然、暗黙了解、の事柄のように思えていたはずです。
この本はその様な考えと裏腹になっている「この世からの退避的」姿勢を鋭くあぶり出し、クリスチャンが本来持つべき「この世で仕えるために与えられている賜物・召命」に気付かせます。
人間的なことを「聖俗ニ元論」のめがねで見て、真正面から取り組むことが出来ず、及び腰で捉えてきた「仕事、学問、政治、文化(ファッション・アート・文学)」等について、どのように積極的にアプローチできるか沢山の示唆をくれます。
②筆者はこの本全十七章を、一章ずつ、懇切丁寧に解説する「読書随想」を書きました。
「小嶋崇による『わが故郷天にあらず』の読書随想連載」
読み通してみて、聖書神学的基盤(少々「ネオ・カルヴィニズム」のフィルターがかかっている印象があるが)の上で「諸文化(この世を治める文化命令)」の問題を扱っています。
またN.T.ライトほどの重厚さはありませんが「創造から新創造」の視点でカバーしています。「身体的復活観」もライトに共通します。
(※ある教会では、この本をテキストに、また筆者の読書随想を参考にして、学びをしたそうです。)
・聖書の教えがどれだけ“世俗の問題”に応用可能か、窓を開いてくれる本だと思います。
・一人で読むには大変と言う方には、是非何人かで読みあって感想を言い合いながら読むと良い本です。
・昨日ポストでも書いた、ゲイブ・ライオンズ、The Next Christiansで、次代を担うキリスト者として描写されている「リストアラー(文化の回復者)」にも繋がる内容をカバーしてます。
とまあ色々と書いてきましたが、要するに買って損はしない本だと思います。
最後に著者のマーシャルについて一言。
彼の現在の専門は「政治と宗教」、特に信教自由、宗教迫害の問題について多く本を書いたり、マスメディアで発言したりしています。
・Paul Marshall Profile
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