当プログでも案内させて頂いたキリスト教世界観ネットワーク
2月26日(土)午後、御茶ノ水クリスチャンセンターで持たれた会合で筆者が行った講演の概要(当日配られたプリントに少し修正・加筆したもの)が「キリスト教世界観ネットワーク」サイトに掲載されました。(リンク ※右コラムにある「マイブログリスト」の同サイトをクリックして頂いても結構です。)
多少粗雑な議論で分かりにくいかと思いますが、大衆的福音理解の神学的構造を分析し、その非歴史性、抽象性を指摘しながら、これをライトによる歴史的アプローチと対比させようとしたものです。
ご興味ある方はご覧ください。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2011年5月30日月曜日
2011年5月28日土曜日
2011年5月27日金曜日
2011年5月25日水曜日
キリスト教世界観
数年前、ある方とのメールの交換でキリスト教世界観について以下のような文章を書いたことがある。
《引用始》
「キリスト教世界観」というのは私見では、「『啓蒙主義以降、ヒューマニズムに侵食され外見はキリスト教に見えるがその実は啓蒙主義・人文主義を駆動力とした文化的キリスト教』つまり世界観的な次元では啓蒙主義・人文主義が中心になっているキリスト教に対抗して出てきた動き」と感じています。
端的には19世紀末から20世紀初頭の新カルヴィン主義(アブラハム・カイパー、ハーマン・ドーイウェルト)らの運動です。
彼らが「世界観的な次元でもキリスト教に貫かれた思想と文化を(衰退していく西洋キリスト教文明に)回復しよう」としたものが大雑把な意味で「キリスト教世界観」と言っているものだと思います。つまりキリスト教思想運動としては一世紀経っています。
世界史的には「西洋キリスト教文明」は明らかに衰退しており、ほぼ「脱・キリスト教文明」段階に入っていることは誰もが認めるところではないで しょうか。つまり新カルヴィン主義のルネッサンス運動はオランダとその文化圏に一時期影響を及ぼしたけれども大勢は変えなかったのだと思います。
アメリカ福音主義でも表面上の福音主義の文化的復興・隆盛の陰に隠れて余り意識されてこなかった「キリスト教国アメリカにおける脱キリスト教化」 が懸念されるようになり、キリスト教系大学などで「キリスト教世界観」が主張されるようになっています。ようやく啓蒙主義・人文主義の影響をキリスト教的 にどう整合させるかと言う思想的大問題が「大学教育」レベルでの切実な問題になっていることが伺われます。
アメリカでは福音主義の影響が表面上は大きかったのでこのような問題をまともに受け止めてこなかったのではないかと思います。
しかし、いずれにしても、新カルヴィン主義運動は啓蒙主義・人文主義に対する哲学的アンチテーゼとして『聖書の思想的枠組み』の中に「キリスト教 世界観」の祖形を求めた観があり、必ずしも原始キリスト教の福音そのものを動力とするに至っていないのではないか。まだ思想的哲学的アンチテーゼとして対 抗しようとしているのではないか、と私は思っています。
しかしここに来て「聖書学」が没落していくキリスト教アカデミズムに結構深い影響を与えてきているのではないか。そのような1人が私が関心を持って追跡している「N.T.ライト」です。
彼のようなアプローチまで来ると、『聖書の思想的枠組み(創造・堕落・贖い)』の中に哲学的に対抗しうる「世界観的何か」を抽出しようと言う神学 的関心・解釈を越えて、より本格的に「使徒的福音」そのものの世界観的構造に遡ろうとしている、と見ています。アプローチ的には歴史学ですが、その関心は 原始福音を基点と考えるキリスト教です。だから歴史学的にならざるを得ないわけです。途中にギリシャ的二元論の影響や啓蒙主義以降の文化的キリスト教の影 響が入っていますから・・・。
詳論を省いて言えば、新カルヴィン主義のキリスト教世界観とライトが目指すキリスト教世界観の違いは、前者がアンチテーゼ的であったのに対し、ラ イトの方は「原始キリスト教の福音、使徒的福音」そのものの回復・修復を目指している、ということでしょうか。そして使徒的福音が提示するキリスト教世界観が現代でも、いやむしろポストモダンの時代に復権すべきアプローチではないか、と言う主張であると思います。
《引用終》
先日、筆者の属する教会連合の牧師たちの集まり、研鑽の時があった。
発表者は最近の自身の牧師としての働きを省みながら、特に「説教」に対する自信のなさを反省していた。そしてその原因を「福音理解」の甘さにあるのではないか、これまでちゃんと「福音」と言うものを(神学的に)突き詰めてこなかったからではないか、と述懐していた。
筆者も似たような経緯を通ったことを、リバイバル・ジャパン誌で文章にしたが(当ブログ掲載記事「ご案内」参照)、他にも似たような悩みの中を通っているキリスト者があるいはいるかもしれない。
そのような方々に新カルヴィン主義の「キリスト教世界観」的アプローチは一つの提案になるだろう。
そしてN.T.ライトの使徒的福音の世界観を歴史的に再構成するアプローチは非常に魅力のある試みではないだろうか。
《引用始》
「キリスト教世界観」というのは私見では、「『啓蒙主義以降、ヒューマニズムに侵食され外見はキリスト教に見えるがその実は啓蒙主義・人文主義を駆動力とした文化的キリスト教』つまり世界観的な次元では啓蒙主義・人文主義が中心になっているキリスト教に対抗して出てきた動き」と感じています。
端的には19世紀末から20世紀初頭の新カルヴィン主義(アブラハム・カイパー、ハーマン・ドーイウェルト)らの運動です。
彼らが「世界観的な次元でもキリスト教に貫かれた思想と文化を(衰退していく西洋キリスト教文明に)回復しよう」としたものが大雑把な意味で「キリスト教世界観」と言っているものだと思います。つまりキリスト教思想運動としては一世紀経っています。
世界史的には「西洋キリスト教文明」は明らかに衰退しており、ほぼ「脱・キリスト教文明」段階に入っていることは誰もが認めるところではないで しょうか。つまり新カルヴィン主義のルネッサンス運動はオランダとその文化圏に一時期影響を及ぼしたけれども大勢は変えなかったのだと思います。
アメリカ福音主義でも表面上の福音主義の文化的復興・隆盛の陰に隠れて余り意識されてこなかった「キリスト教国アメリカにおける脱キリスト教化」 が懸念されるようになり、キリスト教系大学などで「キリスト教世界観」が主張されるようになっています。ようやく啓蒙主義・人文主義の影響をキリスト教的 にどう整合させるかと言う思想的大問題が「大学教育」レベルでの切実な問題になっていることが伺われます。
アメリカでは福音主義の影響が表面上は大きかったのでこのような問題をまともに受け止めてこなかったのではないかと思います。
しかし、いずれにしても、新カルヴィン主義運動は啓蒙主義・人文主義に対する哲学的アンチテーゼとして『聖書の思想的枠組み』の中に「キリスト教 世界観」の祖形を求めた観があり、必ずしも原始キリスト教の福音そのものを動力とするに至っていないのではないか。まだ思想的哲学的アンチテーゼとして対 抗しようとしているのではないか、と私は思っています。
しかしここに来て「聖書学」が没落していくキリスト教アカデミズムに結構深い影響を与えてきているのではないか。そのような1人が私が関心を持って追跡している「N.T.ライト」です。
彼のようなアプローチまで来ると、『聖書の思想的枠組み(創造・堕落・贖い)』の中に哲学的に対抗しうる「世界観的何か」を抽出しようと言う神学 的関心・解釈を越えて、より本格的に「使徒的福音」そのものの世界観的構造に遡ろうとしている、と見ています。アプローチ的には歴史学ですが、その関心は 原始福音を基点と考えるキリスト教です。だから歴史学的にならざるを得ないわけです。途中にギリシャ的二元論の影響や啓蒙主義以降の文化的キリスト教の影 響が入っていますから・・・。
詳論を省いて言えば、新カルヴィン主義のキリスト教世界観とライトが目指すキリスト教世界観の違いは、前者がアンチテーゼ的であったのに対し、ラ イトの方は「原始キリスト教の福音、使徒的福音」そのものの回復・修復を目指している、ということでしょうか。そして使徒的福音が提示するキリスト教世界観が現代でも、いやむしろポストモダンの時代に復権すべきアプローチではないか、と言う主張であると思います。
《引用終》
先日、筆者の属する教会連合の牧師たちの集まり、研鑽の時があった。
発表者は最近の自身の牧師としての働きを省みながら、特に「説教」に対する自信のなさを反省していた。そしてその原因を「福音理解」の甘さにあるのではないか、これまでちゃんと「福音」と言うものを(神学的に)突き詰めてこなかったからではないか、と述懐していた。
筆者も似たような経緯を通ったことを、リバイバル・ジャパン誌で文章にしたが(当ブログ掲載記事「ご案内」参照)、他にも似たような悩みの中を通っているキリスト者があるいはいるかもしれない。
そのような方々に新カルヴィン主義の「キリスト教世界観」的アプローチは一つの提案になるだろう。
そしてN.T.ライトの使徒的福音の世界観を歴史的に再構成するアプローチは非常に魅力のある試みではないだろうか。
2011年5月23日月曜日
「教会における聖書の解釈」②
カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの二回目です。
今日は『第1部 聖書解釈の方法と近づく道』についての感想です。
先ず第一部のアウトラインをご覧になって頂ければ大体どんな感じかイメージできると思うので載せてみます。
A. 歴史批判学的研究方法
1. 修辞分析(Analyse rhetorique)
2. 語りの分析(Analyse narrative)
3. 記号論分析(Analyse sémiotique)
C.伝承を基礎として近づく道
1. 正典論的に近づく道(Approche canonique)
2. ユダヤ教的聖書解釈の伝統を援用して近づく道
3. 聖書本文の影響史によって近づく道(Wirkungsgeschichte)
D.人文科学を用いて近づく道
1. 社会学的に近づく道(The Sociological Approach)
2. 文化人類学的に近づく道(The Approach through Cultural Anthropology)
3. 心理学的に、精神分析的に近づく道(Psychological and Psychoanalytical Approaches)
E.社会的文脈から近づく道(Contextual Approach)
1. 解放の神学から近づく道(The Liberationist Approach)
2. 女性解放運動から近づく道(The Feminist Approach)
F.ファンダメンタリズムによる解釈
まっざっと見てもらって分かるように「聖書解釈」に関する批評学的方法や解釈アプローチの概観になっています。
時代的に古いものから順に並んでいるとともに、カトリック教会の評価から見て最も評価の高い定着したものから並んでいる、とも言えます。
各研究方法あるいはアプローチの紹介と評価に割かれる紙数も大体それを反映しています。
「歴史批判学的研究方法」は聖書が歴史的文書であることを踏まえた上で欠くべからざるものとしてほぼ全面的にその研究方法の妥当性が認められる。
しかしそれは「歴史批判学的研究方法」で聖書解釈が十分にできると言っているのではなく、本文批評から始まり様式批評のような細かい分析的な手法によって聖書本文そのものの持つ意味が見失われることのないよう、編集史的批評や、《共時的》批評を加えるにことによってバランスされる必要がある。
まっどちらにしてもこの後紹介されている様々な方法やアプローチと比較して「歴史批判学的研究方法」がカトリック聖書解釈の中心になっている印象は否めない。
「文学性に注目して分析する新しい研究方法」では、修辞分析、語りの分析、記号論分析、の三つが紹介されているが、筆者がよく引き合いに出すN.T.ライトやR.B.ヘイズらなどは積極的にこれらの研究方法を新約聖書解釈に援用している。カトリックの学者たちも概ねその可能性に好感を持っており、この研究方法の援用に期待している様子が伺える。
「伝承を基礎として近づく道」も同様「歴史批判学的研究方法」を補完するものとして位置づけられている。特に正典論的アプローチに関しては、
(蛇足だが正典論的アプローチで紹介されている、ブレヴァード・S・チャイルドは、Brevard S.Childではなく、Childsである。)
「人文科学を用いて近づく道」と「社会的文脈から近づく道」あたりになってくると、その方法論的有益性をある程度認めつつも、どの程度聖書解釈に貢献できるか問題点の方も具体的に指摘される。概ね一定の評価を与えつつも、あくまで補助的な解釈方法と見ている印象である。
しかし解放の神学アプローチとフェミニスト聖書解釈アプローチに一定の評価を与えていることは、保守的に見えるカトリックとしてはかなりリベラルな見方、と言う感じがする。
さて、最後に残った「ファンダメンタリズムによる解釈」だが、これは頭から否定的な聖書解釈アプローチとして取り上げている。「・・・ファンダメンタリズムの信奉者の聖書読書法・・・は聖書解釈のあらゆる方法論的努力を拒む。」
筆者の印象では、ここだけ分析と言うか描写と評価が粗雑な感じを受ける。根本主義と言ってもプロテスタントの一部を形成するイデオロギーとしてではなく、宗教改革を根に持つすべてのプロテスタントの聖書解釈に影響を及ぼしているような印象を与える書き方になっていないか。
背景にはこのような反知性主義的「聖書読書法」がカトリック信徒にも影響を及ぼしていることがあるようだが・・・。
さてアウトラインだけ見ると「歴史的批判学的研究方法」と(ファンダメンタリズムは別にして)「最近台頭している解釈技法」の簡単な紹介と評価のように見えなくもないが、これらの解釈技法にある程度の知識がない人には少々不親切な入門紹介と映るだろう。
今日は『第1部 聖書解釈の方法と近づく道』についての感想です。
先ず第一部のアウトラインをご覧になって頂ければ大体どんな感じかイメージできると思うので載せてみます。
A. 歴史批判学的研究方法
1. 研究方法の歴史
2. 研究方法の基本原理
3. 研究方法の概略
4. 評価
B. 文学性に注目して分析する新しい研究方法2. 研究方法の基本原理
3. 研究方法の概略
4. 評価
1. 修辞分析(Analyse rhetorique)
2. 語りの分析(Analyse narrative)
3. 記号論分析(Analyse sémiotique)
C.伝承を基礎として近づく道
1. 正典論的に近づく道(Approche canonique)
2. ユダヤ教的聖書解釈の伝統を援用して近づく道
3. 聖書本文の影響史によって近づく道(Wirkungsgeschichte)
D.人文科学を用いて近づく道
1. 社会学的に近づく道(The Sociological Approach)
2. 文化人類学的に近づく道(The Approach through Cultural Anthropology)
3. 心理学的に、精神分析的に近づく道(Psychological and Psychoanalytical Approaches)
E.社会的文脈から近づく道(Contextual Approach)
1. 解放の神学から近づく道(The Liberationist Approach)
2. 女性解放運動から近づく道(The Feminist Approach)
F.ファンダメンタリズムによる解釈
まっざっと見てもらって分かるように「聖書解釈」に関する批評学的方法や解釈アプローチの概観になっています。
時代的に古いものから順に並んでいるとともに、カトリック教会の評価から見て最も評価の高い定着したものから並んでいる、とも言えます。
各研究方法あるいはアプローチの紹介と評価に割かれる紙数も大体それを反映しています。
「歴史批判学的研究方法」は聖書が歴史的文書であることを踏まえた上で欠くべからざるものとしてほぼ全面的にその研究方法の妥当性が認められる。
しかしそれは「歴史批判学的研究方法」で聖書解釈が十分にできると言っているのではなく、本文批評から始まり様式批評のような細かい分析的な手法によって聖書本文そのものの持つ意味が見失われることのないよう、編集史的批評や、《共時的》批評を加えるにことによってバランスされる必要がある。
まっどちらにしてもこの後紹介されている様々な方法やアプローチと比較して「歴史批判学的研究方法」がカトリック聖書解釈の中心になっている印象は否めない。
「文学性に注目して分析する新しい研究方法」では、修辞分析、語りの分析、記号論分析、の三つが紹介されているが、筆者がよく引き合いに出すN.T.ライトやR.B.ヘイズらなどは積極的にこれらの研究方法を新約聖書解釈に援用している。カトリックの学者たちも概ねその可能性に好感を持っており、この研究方法の援用に期待している様子が伺える。
「伝承を基礎として近づく道」も同様「歴史批判学的研究方法」を補完するものとして位置づけられている。特に正典論的アプローチに関しては、
これは聖書をその全体において受けとめるという信仰の明示的な枠組みから出発して、まさに神学としての聖書解釈の責務に取り組もうとする。との評価をしている。
(蛇足だが正典論的アプローチで紹介されている、ブレヴァード・S・チャイルドは、Brevard S.Childではなく、Childsである。)
「人文科学を用いて近づく道」と「社会的文脈から近づく道」あたりになってくると、その方法論的有益性をある程度認めつつも、どの程度聖書解釈に貢献できるか問題点の方も具体的に指摘される。概ね一定の評価を与えつつも、あくまで補助的な解釈方法と見ている印象である。
しかし解放の神学アプローチとフェミニスト聖書解釈アプローチに一定の評価を与えていることは、保守的に見えるカトリックとしてはかなりリベラルな見方、と言う感じがする。
さて、最後に残った「ファンダメンタリズムによる解釈」だが、これは頭から否定的な聖書解釈アプローチとして取り上げている。「・・・ファンダメンタリズムの信奉者の聖書読書法・・・は聖書解釈のあらゆる方法論的努力を拒む。」
筆者の印象では、ここだけ分析と言うか描写と評価が粗雑な感じを受ける。根本主義と言ってもプロテスタントの一部を形成するイデオロギーとしてではなく、宗教改革を根に持つすべてのプロテスタントの聖書解釈に影響を及ぼしているような印象を与える書き方になっていないか。
背景にはこのような反知性主義的「聖書読書法」がカトリック信徒にも影響を及ぼしていることがあるようだが・・・。
さてアウトラインだけ見ると「歴史的批判学的研究方法」と(ファンダメンタリズムは別にして)「最近台頭している解釈技法」の簡単な紹介と評価のように見えなくもないが、これらの解釈技法にある程度の知識がない人には少々不親切な入門紹介と映るだろう。
2011年5月21日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
5月22日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:3-5
説 教 題 「わたしたちを神の子と」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(60)
ガラテヤ人への手紙(48)
・4:1-7 子であり、相続人である
5月22日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:3-5
説 教 題 「わたしたちを神の子と」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(60)
ガラテヤ人への手紙(48)
・4:1-7 子であり、相続人である
2011年5月20日金曜日
ホーキング博士の天国
めったにインタヴューに応じない人らしいが、つい先日英国ガーディアン紙が行ったホーキング博士とのインタヴューが記事になっている。(Stephen Hawking: 'There is no heaven; it's a fairy story.')
難病で20代で余命僅かと言われた人が69まで生きてきて人生観(死生観)を語ると言うわけだからそれなりに重みがある。しかも博士は一大宇宙物理学者だ。その発言がニュースになるのも頷ける。
さてメディアで一番注目されているのが以下の質問と答えだ。
彼の言う「ヘブン(天国)」や「アフターライフ(死後の命)」は大衆的キリスト教の一般概念のように思う。神学的にニュアンスされた「身体の復活」「死者からの復活」のような意味は含んでいない。
キリスト教からは当然反論が起こる。特に「復活」をキリスト教信仰の中核と見る者にとっては、ホーキング博士のこの言は中途半端で満足行く議論ではない。(例、Ross McKenzie)
またキリスト者かどうか分からないが「イエスの復活」の事実(可能)性から反論している方もおられる。この方はホーキング博士と同じ病気を持つ人であるが、インタヴューが短い会話にならざるを得ず、ホーキング博士が必ずしも言いたいことを尽くしているとは思っていないが、妥当な反論を試みている。(一読者のコメント、I'd stake my life that Stephen Hawking is wrong about heaven)
難病で20代で余命僅かと言われた人が69まで生きてきて人生観(死生観)を語ると言うわけだからそれなりに重みがある。しかも博士は一大宇宙物理学者だ。その発言がニュースになるのも頷ける。
さてメディアで一番注目されているのが以下の質問と答えだ。
You had a health scare and spent time in hospital in 2009. What, if anything, do you fear about death?一見普通の無神論者が「宗教は心の弱い人が抱くもの」みたいに聞こえるが、人間をコンピューターになぞらえているところが徹底して物質主義的と言うべきか。
I have lived with the prospect of an early death for the last 49 years. I'm not afraid of death, but I'm in no hurry to die. I have so much I want to do first. I regard the brain as a computer which will stop working when its components fail. There is no heaven or afterlife for broken down computers; that is a fairy story for people afraid of the dark.
彼の言う「ヘブン(天国)」や「アフターライフ(死後の命)」は大衆的キリスト教の一般概念のように思う。神学的にニュアンスされた「身体の復活」「死者からの復活」のような意味は含んでいない。
キリスト教からは当然反論が起こる。特に「復活」をキリスト教信仰の中核と見る者にとっては、ホーキング博士のこの言は中途半端で満足行く議論ではない。(例、Ross McKenzie)
またキリスト者かどうか分からないが「イエスの復活」の事実(可能)性から反論している方もおられる。この方はホーキング博士と同じ病気を持つ人であるが、インタヴューが短い会話にならざるを得ず、ホーキング博士が必ずしも言いたいことを尽くしているとは思っていないが、妥当な反論を試みている。(一読者のコメント、I'd stake my life that Stephen Hawking is wrong about heaven)
Strangely enough, my theory that there is a form of life after we die is not some sort of wishful thinking. It's based on evidence. If the brain is a computer, then, when I was studying where Stephen Hawking now teaches, I came on a mass of data of which the most convincing, the neatest, explanation was that death is not the end of life. It wasn't the most comfortable nor most obvious of conclusions, but the forensic case was forceful and beautiful, providing "simple explanations of phenomena or connections between different observations". The best exposition I found was by the then director of the Institute of Advanced Legal Studies in London, Professor Sir Norman Anderson, in The Evidence for the Resurrection (later republished as part of Jesus Christ: The Witness of History). My disturbing conclusion was that, if it happened once, as seemed beyond reasonable doubt, then I needed to revise my whole world view. What you see is not all you get.少なくともホーキング博士のこの度の発言で、「天国」というふわふわした大衆的キリスト教観念を鍛え直す機会になればそれもまたよし、ではないだろうか。
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