2011年8月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月28日 午前10時30分

朗読箇所 マタイの福音書 10:28-31
説教箇所 マタイの福音書 10:28-31
説 教 題 「恐れるな(Don't be afraid.)」
説 教 者 ケン・テイラー宣教師


II. ゴスペル・ワークショップ(45分)
指導  ケン・テイラー宣教師
歌う曲  ①Oh, Happy Day!  ②Praise The Lord With Me

※12時までにはすべて終わる予定です。

2011年8月26日金曜日

「ホットスポット巣鴨」のその後

先日「巣鴨がホットスポット?」と言う記事をポストした。

その後豊島区や調査結果を発表した「放射能防御プロジェクト」の代表(だと思う)の方とメールで連絡した。その経緯をここに報告しておこう。
何しろ心配している方も多いだろうから(逆にまだ知らない方も結構多いのかもしれないが・・・)。

先ずこの「首都圏土壌調査結果」を豊島区が把握しているかどうか問い合わせてみたところ
区は、会見の翌日にインターネットにて当該調査結果を把握しました。
調査結果には大変驚いていると同時に、事実ならば行政としても対策を講じる必要があると考えております。
インターネット上では、「豊島区巣鴨」の「道路脇の砂」しか情報がないため、8月9日より放射能防御プロジェクトに対して要求をしておりますが、いまだ詳細な場所等の情報を提供していただいておりません。
区では、詳細な場所が判明し次第、当該場所及びその周辺の調査も含めて、必要に応じた対策を講じることを検討しております。
今後とも区政にご理解とご協力を賜りますようお願いいたします。
清掃環境部環境課長 長戸 明
≪お問合せ先≫
環境課環境保全係
電話:3981-2405
A0015003@city.toshima.lg.jp
との回答を頂いた。早速の回答だったので好感を持てた。
しかし放射能防御プロジェクトから反応がない、と言うことなのでちょっと心配になった。
もし発表された結果が事実なら除染なり何なりの対策が必要であろうと思われたが、区の方にその場所を報告してないのはどうしてだろうか、と訝しく思ったのだ。

それで今度は代表者の木下黄太氏にメールで連絡してみた。
木下氏のブログから、氏は怪我をしていて大変多忙であることが想像できたので果たして返事が来るかどうか期待半分であった。
すると木下氏からも早速簡単な返答があった。
お気持ちはわかります。
要請のあった自治体のうち、
三郷市には伝えていますが、
巣鴨は、個別事情があり、難しいです。
木下
この回答は少し意外だった。
発表でもまたツイッターやネットでも「巣鴨」がホットスポットであることがセンセーショナルに取り上げられているのに、その個別情報を公開できないとは一体どう言う事か、と情報内容についても、採取方法についても少し疑念を感じた。
それでその旨を木下氏に伝えたがそれには回答が来なかった。

その後暫く、豊島区と放射能防御プロジェクト間で情報交換が進展することを期待して数日間何もせず見守っていた。
しかしどちらからも連絡がなかったので、今回は豊島区の方へその後の進展について問い合わせてみた。
そうしたら以下のような回答を頂いた。
 その後、放射能防御プロジェクトに対し再三問い合せています。採取者に対して、「場所を教えていただければ、当該場所及びその周辺の調査を含めて、必要に応じた対策を講じることを検討する」ことを伝えていただくようお願いしているところです。
これに対して、放射能防御プロジェクトから口頭ですが「教える必要があれば採取者本人から区に連絡があるでしょう」という回答がありました。試料採取日5月14日以降道路脇の砂は飛散した可能性がありますが、7月に巣鴨、西巣鴨の施設9か所で実施した地上5cmの空間放射線量率測定では、高い測定値は出ていません。
引き続き、放射能防御プロジェクトと連絡を取りつつ、正確な情報の提供をお願いしてまいります。
今後とも区政にご理解ご協力を賜りますようお願いいたします。
清掃環境部環境課長 長戸 明
≪お問合せ先≫
環境課環境保全係
電話:3981-2405
A0015003@city.toshima.lg.jp
 豊島区と放射能防御プロジェクトの間に情報交換があったことは良かったが、まだ安心はできない。
確かに「地上5cmの空間放射線量率測定」は良心的な測定態度だと思うが、問題は土壌調査結果の方なのだろうと思うので、区の方でも独自に土壌サンプルを適切に複数採取して結果を公開してもらいたいものである。

読者の皆さんには、首都圏が放射能で汚染されている事実は動かし難いので、そのことはよく肝に銘じておくのがよろしいかと付言させて頂く。
前の記事で小出裕章助教の反応を引用しておいたが、ここでもう一度。
ごく一般の場所が、放射線管理区域以上に放射性物質で汚染されてしまいました。
被曝を規制するための多くの法令も意味を失い、私たちは変わってしまった世界で生きる以外にありません。
人々が生活する際、ごく容易に接触する場所で試料を集めることが大切ですし、行政にそうした調査を求めるべきと思います。
行政に対して市民側がもっと働きかけていかなければならないことは、日本国政府の情報公開の経緯を見ても大事な点だろうと思う。

2011年8月25日木曜日

ご案内

8月28日(日)の礼拝の案内です。

時間:午前10時30分~12時
場所:巣鴨聖泉キリスト教会

特別プログラム、と言うことで少し案内をさせていただきます。

I. 礼拝(45分)
説教箇所 マタイの福音書10章28-31節
説教題  「恐れるな(Don't be afraid.)」
説教者  ケン・テイラー宣教師


II. ゴスペル・ワークショップ(45分)
指導  ケン・テイラー宣教師
歌う曲  ①Oh, Happy Day!  ②Praise The Lord With Me

2011年8月24日水曜日

日本人のキリスト教リタラシー

題だけは論文みたいに聞こえるけど記事の中身は至って軽い。
要するに今日たまたまツイッターで目にした「キリスト教」に関連する日本人の一般的知識がどれほどのものか、を想像させる二件。

① "the gospel truth"
毎日jp(毎日新聞)の「英語クイズ」にこんなのが出てきた。
Question
ゴスペルミュージックは教会で耳にする音楽。では「gospel truth」の意味は?
  •  絶対的真理
  •  真実の愛
  •  奉仕活動
で筆者は「絶対的真理」では余りにも素直なので、少しひねって二番目の「真実の愛」を選択した。で、回答を見たら、
Answer
× 真実の愛
回答:【絶対的真理】
例文:He said his story was the gospel truth, but I didn't believe it.
gospel truth は「毎日ウィークリー」8月20日号15面の星占いに出てきました。今週の運勢をチェックしながら、英語も勉強しよう!
正解率 49.1 %
と言うことで、慣用表現としての"the gospel truth"に関しては筆者は無知であった、と言うこと。
英語クイズなのに、聖書(神学)的な理解でアプローチしたのがまずかったなー。

ちなみにネット辞書で調べたら、
Idioms & Phrases
gospel truth
Something that is unquestionably true. For example, Every word he uttered was the gospel truth . The word gospel , which comes from the Old English god spel , "good news," has been used to describe something that is thought to be as true as the biblical gospel (that is, undeniably true) since the 13th century. The current idiom originated in the 1600s, when it referred to biblical truths, and has been applied to truth of a more general nature since the late 1800s. Also see take as gospel.
The American Heritage® Dictionary of Idioms by Christine Ammer.
Copyright © 1997. Published by Houghton Mifflin.
まあキリスト教文化圏で「聖書の真理」が絶対的に見られる環境の中で、それが「gospel truth」と表現されるようになり、更に一般的な言い方として用いられるようになった。と言うことなんですね。

新約聖書神学的には、ただ今「ゴスペル」自体が何を指すかが論議の対象になっています。その視点からは問題は「ゴスペル」の中身で、それが定まってからその真理性とはいかなるものか、と言う問題が出てくるのだと思います。

②「ふしぎなキリスト教」 (講談社現代新書) [新書]、橋爪 大三郎 (著), 大澤 真幸 (著)
が今話題になっています。
と言うかここ一年位の間に雑誌なんかで「キリスト教特集」のようなものがブームになっているようです。この流れに乗じて企画・出版されたのかもしれませんね。

筆者はもちろん手にとって読んだことはありませんが、ツイッターでフォローしている、@synodos、が「『ふしぎなキリスト教』のレビューがえらいことになってるな。」でリンクを見てみました。
そうしたらたら、アマゾン・ブックスのカスタマー・レヴューでその本の内容のお粗末さ、特にキリスト教の基本的知識さえ怪しいレベルで適当に対論をやっている、と手厳しい批判を浴びています。

で、思ったのですが、所謂知識人とされる大学教員同士でも、キリスト教に関する言説がかなり粗雑な知識で討論されたものが公刊される、と言うことは、一般大衆が求めている「キリスト教知識」にある程度親和しているのかなー、と。

キリスト教関係図書がプチブームな時に残念ですが、発想を変えて言えば、キリスト者側から一般大衆に発する「キリスト教入門書」が欠けているのかな、と。

と言うわけで「日本人のキリスト教リタラシー」は、もしかしたら今のような時こそ底上げする機会なのかも知れませんね。

2011年8月22日月曜日

趣味?副業?

筆者の趣味と言うか副業(になるほどまでやっていないが)は木工です。

教会の隣に一戸建て平屋の工房を持っています。
端っこの方とは言え「高級住宅街」と言われる大和郷に、約20畳位の床面積の工房です。
贅沢な話です。(顰蹙をかいそうです。)

今日頼まれている壁面棚(システム収納のような家具の組み合わせ)の打ち合わせがありました。
実は頼まれたのはもう一年以上も前。
「(完成は)いつでもいいから」と言うことなので引き受けたのですが、ずーっと放っぽりぱなでした。
先日「牧師という職業」でうつの話題が出ましたが、筆者もここ2年ほど軽いうつ症状で、なかなか余計な仕事をやる気力が出てこない感じでした。
それでもようやく腰を挙げてデザインをまとめ材料を切り出そう、と言うところまで来たわけでした。

今の状態になる前は結構木工に時間を割いていました。
鉋や鑿で木と戯れている時は本当に時間を忘れるほど夢中になっていたものです。
筆者の木工は手工具で仕上げる時間のかかる作業で、工作のプロセスを楽しむ、その意味ではいい趣味です。
いい仕事をするためには切れる刃物が必要です。
そのために必須なのが刃を砥ぐ作業です。
これがまた没頭してしまうのです。一時間や二時間平気で砥いでいました。

今はなかなかそこまで行きませんが復調してきたらまた没頭するほど木工にはまりたいと思っています。

そう言えば、「ブログ仲間」と呼んでもいいのか、何回か紹介したことのある「はちことぼぼるの日記」のはちこさんが日本に来られた時、筆者のところにも寄られて工房を写真に収めていきました。(フェイスブックの方に載せてあります。)

そう言えば今日筆者の教会が属するグループの他の教会の方から「端材送るよー」と電話がかかってきましたっけ。
うまく行ったらその材料で、9月18日にやる「オープン・チャーチ・カフェ」の時道端に出店する作品を何か作れるかもしれないな。

では最後に木のクイズ。皆さんは次に挙げる樹種をどの位知っていますか。
欅、檜、杉、楡、エンジュ、白樫、赤樫、タモ、楢、桂、栗、桜、胡桃、スプルース、シナ、ネズコ、唐松、ポプラ、黒檀、チーク、花梨、紫檀、楓、ヤマナラシ、松、ブラック・ウォールナット、ヒッコリー、米杉、青森ヒバ、米ヒバ、ピーラー(米松)、・・・まあまだ使った材はその他にもあるけどこの辺でやめておこう。

2011年8月20日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

8月21日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:16-18
説 教 題 「交わりの修復」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(66)
ガラテヤ人への手紙(54)
・4:8-20 訴えかけるパウロ

※8月28日「ゴスペル礼拝・ワークショップ」。
講師ケン・テイラー師(プロファイル・・・英語)

2011年8月19日金曜日

佐藤優「キリスト教神学概論」③

毎度断り書きをしていますが、軽いジャブ程度の扱いで、ちゃんとした神学的論評ではありません。
ゆるーく読んでください。

今回は、
第7回 「日本キリスト教の精神的伝統 (1)」
第8回 「日本キリスト教の精神的伝統 (2)」
第9回 「日本キリスト教の精神的伝統(3)」
第10回 「日本キリスト教の精神的伝統(4)」
をカバーします。
(ウェッブサイトはここ。後はページ末の「次へ」をクリック。)

さて、ここまで佐藤氏の「キリスト教神学概論」を2回に渡って見てきたわけだが、非常に個人的な切り口で、それなりにユニークに(余りキリスト教に縁がない人にも分かりやすく・・・ある意味かなり単純化して)、キリスト教への取っ掛かりを提供してきた。
所謂キリスト教「神学」には(ここまでのところ)余り触れないで、入口を広げて書いて来た様に思う。

彼は既にキリスト教を「個人的救済宗教」、それも多分に主観的なものとして描写してきた。
この後どう展開するのかと思っていたら、急に今回のような主題を持ち出してきた。
筆者はこれをとても唐突に感じた。

これまでの読者へのサービス精神に溢れたキリスト教の説明から(一般的な視点からではなく、彼独自の視点からだが)、一挙に(恐らく)彼個人の神学的課題、問題意識へと読者を導こうとしているように見えるからだ。
(これは筆者の推測だが、彼の出た同志社神学部は多分にこのような問題意識が強く支配する神学教育環境なのだろう。)

これまでは一応キリスト教をどう捉えたらよいのかと言う一つの「説明」を試みてきたのだが、今回から「キリスト教の土着化」を歴史的に神学的に思索すると言う「一神学的試み」に入り込んでしまうと言う方向転換を図ったように見える。
更に言えば、彼のつけたテーマは「キリスト教神学概論」だが、内容的にはここまでの所多分に「キリスト教概論」であった。

キリスト教が一枚岩ではなく、歴史的に多くの類型に分化してきたことを指摘した後で、このようなキリスト教類型学を歴史社会的に分析したトレルチやゼーベルクの名を挙げ、次のように今回の急展開の意義を述べる。
 むしろ、キリスト教には、いくつかの類型(タイプ)があるのが現実です。キリスト教を類型としてとらえていこうとすることを19世紀の終わりからR・ゼーベルク、E・トレルチなどが真剣に考えました。
●魚木忠一の神学的遺産
ここで重要になるのは、ゼーベルクの考え方を更に発展させて、キリスト教の日本類型について真剣に考えた魚木忠一(うおきただいち 1892~1954)です。魚木は、1941年に『日本基督教の精神的伝統』(基督教思想叢書刊行会)を上梓し、日本人でありかつキリスト教徒であるということの意味を徹底して考えました。
と言うわけで、佐藤優の「キリスト教神学概論」は、キリスト教概論的講義から一転、日本の神学者魚木忠一の『日本基督教の精神的伝統』と言う一神学的試論に入っていってしまったのです。

まあこれはこれで面白い取り組みだとは思いますが、自分で立てた課題からはそれてしまった。概論、しかもまだ神学概論もやっていないのに、いきなり一神学者の神学的課題と言う限定された領域へと主題を過激に絞り込んでしまったわけです。

「日本キリスト教の精神的伝統」についての連載は4回続きますが、そこで彼の「キリスト教神学概論」は頓挫し、この方向性をあきらめてそれ以後(余り面白くない)伝統的、(西洋)キリスト教組織神学のなぞりに変更してしまいます。

さて、今回は佐藤の連載の急展開について主に論評して来ましたが、魚木忠一の『日本基督教の精神的伝統』については何も言及していません。最後に一言二言述べて終わりにします。

先ず連載の(8)(9)(10)からポイントとなる文章を引用してみます。(強調は筆者)

魚木は、キリスト教を精神的宗教であると規定します。これは、霊的宗教と言い換えてもよいと思います。魚木自身は優れた歴史神学者ですが、神学的教義や宗教哲学はキリスト教の本質とは関係ないと考えるのです。
魚木は、仏教、儒教と比較した場合に、キリスト教は精神的宗教であることを強調しますが、ここでいう精神とはヘーゲルや京都学派の高山岩男が『世界史の哲学』で強調するような、歴史を動かす精神ではありません。

魚木がいう精神とは、人間の救済を可能にする神からの作用です。キリスト教は三一(三位一体)論を基本教義にします。三一神とは、父、子、聖霊からなる神ですが、ここでいう聖霊こそが魚木が考える精神なのです。

霊とは、命を与える風を意味します。神は土から人間を創りますが、そこに風を吹き込むことによって命、すなわち精神が生まれるのです。ユダヤ教、キリスト教の人間観では、神が人間に息を吹き込んだことにより、人間は他の動植物がもたない精神という特権をもつようになったのです。
「使徒言行録」によれば、聖霊は、イエス・キリストが復活した後、40日間、地上を歩きました。その後、一旦、天に昇ります。さらに10日間経ってから、通算50日目に天から地上に再び降りてくるのです。
魚木が日本の宗教的土壌である仏教や儒教に対して「キリスト教が精神的宗教だ」とした主張と、キリスト教の本質が神学的教義や宗教哲学とは関係ない、としたことについてはもしかしたら「日本におけるキリスト教の土着化」と言う課題が魚木を突き動かしていたかと推測します。

魚木が言う「精神」が聖書思想全般における「霊」、あるいは新約聖書における「父なる神と、天に挙げられたイエスのもとから遣わされた『聖霊』」なのか、それとも「三位一体論における聖霊」という西洋神学の発展形を指すのか、この短い引用だけでは何とも整理がつかない。

最後の引用において佐藤がまとめている文章では、神学的人間論から見た「被造物の中でのユニークさを示す霊的存在」と言うことと、「イエス・キリストの出来事」に関連する「聖霊」と言う終末論的展開がどう関係するのかさっぱり分からない。
また文章の後半で「史的イエス」と「聖霊」がどう関係しどう区別されているのか、更に判然としない。

と言うわけで、ここまで彼の「概論」を追ってきた読者は大いに困惑したのではないか。
文章は至って短く論理は粗雑である。
これまでのそれなりに未熟な読者を配慮した文章と比べると、いかにも飛躍の連続ではないか。
佐藤が魚木の著作に感銘を受けているのは良いとして、もっと丁寧に「キリスト教概論」として咀嚼できるような足がかりを幾つも用意しなければやはり読者は消化不良に陥らざるを得なかっただろう。