2015年3月30日月曜日

(4)「若手論客」とか「新世代」について②

①で予告していたが、そのままになっていた。

『坂口恭平』とはどういう人物か、とは余り良い質問ではない。

『坂口恭平』はちょっとしたフェノメノン、と言う感じなのだ。私見では。

だから多分に評価は情況的だし、過度的だ。

『坂口恭平』が最初に筆者の視界に入ったのは1年以上前ではなかったか。


『坂口恭平躁鬱日記』が出て、その本の評判が筆者のツイッターTLにたまたま出たのを目にして、
坂口恭平@zhtsssをフォロー開始したのではなかったか。
 
最初の印象は、「がんばってんなー、この人」くらいなものであった。

気にはなっていたが別にそれ以上の関心は持たなかったが、つい最近になって『モバイルハウスの作り方』(0yenhouseウェブサイト参照)を読んで俄然面白く思った。

彼はやはり一種の「天才」なのだと思う。

でも躁鬱を抱えてちょっとアブナカしい、綱渡り的人生を送っている。

発言のあちこちにそのことは出てくる。

先日ジャーマンウィングス機の事故があったが、副操縦士の自殺の巻き添えにされたと言うことらしい。

言わばその逆をこの人は果敢にやろうとしているように映る。

革命だの、いのちの電話だの、総理大臣だの、・・・普通の人がやるとちょっと過激すぎることも、この人がやると何か分かるような気がする。

個人的にはこの人の「ラディカル」さが面白い。

思想がラジカルとか、そう言う話ではない。

もっと原始的な感性みたいなものだ。

例えば「土」に対する近さとか(「ダンゴ虫」に対するシンパシー)・・・

視野とか(建築家のパースペクティブを越えて、アボリジニの脳を想像させるような)・・・

いわゆる常識で納まらない思考と言うか、行動的知の探求というか・・・


まっそんなところです。

だから「論客」みたいなメディアに好都合な枠に入れてない方がいいと思います。


2015年3月29日日曜日

(3)英語圏ブログ紹介⑭

こちらも久し振り。

たまたま今朝[注、もう書き始めて2週間が経ってしまいました]目にした記事が簡単で良かったので・・・。

ピーター・ライトハート(Peter J. Leithart)



はFIRST THINGSという"America's most influential journal of religion and public life"と自分で謳うほどのカトリック論壇誌でブログ(コラム)を持っている神学者です。

最近始めた「英語圏神学者」に加えてもいいかもしれませんが、コラムの記事は殆どが「短い断想」系でその点で少し規準に合わないかなと思いますので「英語圏ブログ」でご紹介・・・。

義のための器官
We die to sin in baptism, Paul says. Liberated from sin, we are to devote the members of our bodies to God and His righteousness. We already participate in Jesus' resurrection; His resurrection power is already at work in our bodies (Romans 6).
私たちはバプテスマにおいて「罪に死」んでおり、罪から解放された私たちはその体を神と神の義のささげものとする、とパウロは言います。私たちは既にイエスの復活に与っているのであり、その復活の力が私たちの肉に働いている、と言います。(ローマ人への手紙6章)

では「私たちの体・器官が義のための道具になっている」とは一体どんな感じのことを言っているのでしょう・・・とライトハートは問いかけます。


(と、ここで早くも道草)
何代か前の自民党首相で「言語明瞭意味不明瞭」 と言われた方がおりました。

単に日本語で読めるからと言ってその意味がいつでも明瞭か、と言うとそうではありません。

言葉の意味はその言葉だけでは成立せず、最低でも一つの文章と言う「意味の単位」に置かれた中で明瞭となります。
(実際には意味の単位はなるべく「大きく構える」ことが大切であることを、たった2回で中断してしまった『聖書入門』シリーズで書きました。特に「分かるようで分からない聖書入門、2」参照。)

小学校5年生で受洗した時に聖書をもらい、それから段々と通読も含めて聖書を読むようになったのですが、日本語で読めるということは聖書を理解する時にしばしば勘違いを起こしやすいのではないかと長い経験から筆者は思うのです。

単に字を読めたことを「理解」と勘違いしやすい、ということです。

通読などしていると、ほぼそんな感じで読んでいることがしばしばです。
理解しようとして読んでいないのですね。

理解するためには、読んでいる箇所をある程度意識的に「解釈」する(=意味を定める)必要があります。

これは訓練が必要です。
「一体パウロはここで何を言っているんだ」、と読んで分かったつもりにならないで、「意味を問う」ステップを作るのです。


(と、ここで本題に戻って)
「私たちの体・器官が義のための道具になっている」とは一体どんな感じのことを言っているのだ?

このようにライトハートが読者に「意味を問う」ているわけです。

ライトハートの提案は「体の器官」に注目して、聖書中に「文学的繋がり」を探す、と言う手法です。

言葉は文学(神学も文学ですが)的な表現になればなるほど、背景となる、あるいは参照枠となる他の文学表現があるものです。

パウロの書簡も含めた新約聖書の場合、最も緊密な関係にあるのはヘブル語聖書ですから、その中で類似の表現や思想を探して参照する、と言うのがオーソドックスなやり方です。

ライトハートが提案するのは詩篇15篇です。
15:1 主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り/聖なる山に住むことができるのでしょうか。

Our feet walk perfectly (v. 3)
 それは、完全な道を歩き、

and our hands work righteousness (v. 4).
 正しいことを行う人。

Our hearts are true (v. 5).
 心には真実の言葉があり

We don't misuse the tongue (v. 6).
 舌には中傷をもたない人。

Our eyes make appropriate judgments, despising a reprobate and honoring those who fear the Lord (vv. 9-10).
 主の目にかなわないものは退け/主を畏れる人を尊び

Our tongues swear and we keep our oaths, even to our own loss (v. 11).
 友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。
この後は「体の諸部分」から、その「延長」としての 「富の使用」へと移行する。

「義のために体の器官をささげる」」とは、利息を取ったり、賄賂を受け取ったりしない、と言う意味になります。
金を貸しても利息を取らず/賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人。これらのことを守る人は/とこしえに揺らぐことがないでしょう。

※新共同訳から引用。





2015年3月28日土曜日

明日の礼拝案内

棕櫚の主日礼拝
 
2015年3月29日(日) 午前10時30分

朗読箇所 使徒の働き 4:23-31
説 教 題 「神がお定めになったことの実現」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2015年3月22日日曜日

(4)説教節

伊藤比呂美の新刊『新訳 説経節』が出るそうな。


「小栗判官」「しんとく丸」「山椒太夫」の三つの物語が収められているという。

「説教節」については当ブログではこの記事で伊東乾『笑う親鸞 楽しい念仏、歌う説教』(河出書房新社)を紹介して少し触れたことがある。

「語り」の芸能には仏教の説教という前身がある、と言う構図が面白かった。

一般庶民に届く「宗教」の教えには娯楽/エンターテイメントが関わる、と言うことだが。

今では「高座」と言ってもお坊さんのことをイメージする人は少ないだろう。


まあこんな前置きはやめておいて、時系列でこの新刊について思ったことをメモしてみる。

伊藤比呂美については『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』も読んでいたので気にはなっていた。

田口ランディもそうだが「乾いた情念」を滲ませた文章が読ませる感じだ。

結構重たいものを孕んでいるのだが、そう言うものが背景に見え隠れする程度で日常風景が流れて行く随想・・・と言う印象だ。


若松英輔の書評には説教節が以下のように説明されている。
 説教節とは、1600年前後に高みをむかえた語りの、また苦界の詩学である。試練をわが身に受け止め、その重みが肩に食い込むような境涯を生きる人々によって説教節は生み出された。神仏の加護や世界の不可視なつながり、人知を超えたところで起こる不思議、仏教でいう縁起の働きが、さまざまな物語を通じて語られる。
 当初は寺の門前で行われていたが、聞く人が増えるにしたがって場所はどんどん寺から離れて行った。彼らは、寺のなかで僧たちが説くのとは、まったく異なる言葉を口にした。整然とした教学ではなく、矛盾に満ちた出来事のなかにこそ人生の真実があることを、いつか、誰かが語り始めたのだった。(強調は筆者)

まあー説教が聖書解釈に忠実に、と言っているうちに「聴衆が置いてけぼり」になったりと言うことはあるだろうが、「整然とした教学」が「人生の真実」を無視することを意図しているわけではないと思うが・・・。

こちらの本によると、スリランカでの仏教教化において、僧侶は謳ったりするのは禁止されたそうだ。それは釈迦の指示だと言う。


さて「説教節」については、「大衆伝道」との絡みで「日本での発展」の歴史がどうなってきたのか知りたいと思っている。

2015年3月21日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年3月22日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 1:1-11
説 教 題 「伝道と教会」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(2)  日本のホーリネス運動史(1900-)を軸に、②
  ・・・中田重治の遺産

2015年3月19日木曜日

(4)『ミッショナル』について

さて、新カルヴィン主義動向③で「くぼき」牧師から質問をいただいてもう半年が過ぎようとしています。

つい先日新しく「現代英語圏神学者」シリーズを開始し、「スタンレー・ハウアーワス」をアップしたところで、今度はMH氏より「ジョン・ヨーダー」と「ウォルター・ブリュッゲマン」との関わりについて質問をいただいてしまいました。

と言うことで「順番待ち」状態になってしまいましたので、先ずは「ミッショナル」を(言い方は良くないですが)片付けてしまわなければなりません。


新カルヴィン主義動向③ではシカゴ大マーティー名誉教授の観測(「ミッショナル・チャーチは流行・・・」)の発言に絡んでの質問でした。
コメント・セクションで少し書きましたが、今回は改めて(量は少ないですが)辞典並みの勢いで書いてみたいと思います。(少し冗談)


グーグル先生によれば、「ミッショナル」でヒットするものは極僅か。そのうち幾つかはこのブログにリンクしています。

日本語で「ミッショナルとは何か?」に答えてくれそうな記事は残念ながら見つかりませんでした。

と言うことで、次は英語"missional"で検索。

このクリスチャニティー・トゥデー(2008年3月)記事によれば、missionalやmissional churchと言う語が使われ始めて「まだ10年も経っていない」と前置きして、この本を紹介しています。


Missional Church:
A Vision for the Sending of the Church in North America
Edited By: Darrell L. Guder

実はこの本、筆者の友人の一人でもうかれこれ5-6年前かフラー神学校を卒業したG夫妻が、宣教学のテキストでこの本を使ったそうなことを教えてくれました。

それを聞いた後だったか前だったか、実はこの本買って少し読んでいました。
(そんなに面白くなかったので途中で止まってしまいましたが。)

この記事を機会に「ミッショナルとは何か」だけでも抽出しようと改めて読んでみました。

でもそれを紹介する前に、Missional Church Networkというウェブサイトについて一言二言。

このサイトの説明によると、最初にミッショナルという語を使ったのは
However, the term was used by Dr. Francis DuBose, former professor at Golden Gate Baptist Theological Seminary, in a wonderful book titled God Who Sends published in 1983.
だそうです。(What is missional?)
Missional Church(1998年)よりさらに15年も前ですね。
と言うことは筆者が北加で遊学していた頃には既にあったわけだ。
全然覚えがありませんが・・・。
その後「ミッショナル」は爆発的に使われ始め、今では「なんでもかんでもミッショナルをつければ良くなる」風な氾濫状態だそうです。(教会成長論、伝道論、教会員を宣教に教化する、とか。)
このサイトではミッショナルを次の三点に整理して解説しています。
1. Missional Church is about the missionary nature of God and His Church.
2. Missional Church is about incarnational ministry (versus attractional/extractional) in a post-Christendom context.
3. Missional Church is about actively participating in the missio Dei, or mission of God.  
どうも内容が重複しているところを見ると、「まだ十分神学的に煮詰められていない」印象です。


ではMissional Churchに戻って・・・。

編者のダレル・グーダーは現在プリンストン神学校の『宣教と教会一致の神学』教授をしています。
His writing and teaching focus on the theology of the missional church, especially the theological implications of the paradigm shift to post-Christendom as the context for Christian mission in the West.

(彼の著作とクラスはミッショナル教会に焦点を合わせるもので、特に西洋における脱キリスト教時代にパラダイム・シフトした文脈での意味合いを探るものです。)
と紹介されています。

では『ミッショナル教会』でグーダーが第1章で書いている導入部分から「ミッショナルとは何か」について幾つかハイライトして見ます。

(1)(北米)キリスト教会はかつて圧倒的な「キリスト教文化」の中心にいたが、現在では増々「反キリスト教」的状況で「周縁」に置かれるようになっている。そのシフトによって自己のアイデンティティーを再確立する必要が生じ、「教会」についての神学的・霊的思索が「ミッショナル(派遣された教会)」を核にして掘り下げられている。

(2)「教会成長」とか「伝道プログラム」とか、教会の社会学的動態論から提案される様々な新しい伝道論も、この一大文化シフトに対して「解決」を提示しようとするものであり、「ミッショナル」を使用するが、このような「問題の認識→解決の模索」と言う実際問題的対応だけではとてもこのような大きな危機には間に合わない。

(3)これまでの宣教論をリードしてきた西洋の教会は(教会と国家・社会が重複した)キリスト教文明(Christendom)に基礎付けられて「教会中心」的な「宣教」実践をしてきた。その宣教は「キリスト教国」から「非キリスト教国」へ宣教師を遣わすという図式で理解されてきた。

(4)深い神学的反省によって、宣教が「キリスト教地域から非キリスト教地域への水平的な働きかけ」と言う「教会」が中心となる理解から、宣教なさる「神」から遣わされると言う垂直的な次元にまで立ち戻って捉え直されるようになった。

とまあ上手くまとめられませんが、そんな神学的思考が背景となっていると言えます。

今「ミッショナルという宣教的視点」は、単に実践神学の一分野である「宣教学」での強調・フォーカスであることに留まらず、聖書学・神学・教会の実践を統合するものになりつつあるといえるかと思います。

※参考までに、そのようなミッショナルな視点で紹介した「パウロ研究と宣教学的解釈論」も合わせて読んで頂けると、少し理解が進むかもしれません。

2015年3月15日日曜日

(5)ポスト世俗化時代の哲学と宗教

めったに紹介することがないですが、筆者のブログ『宗教と社会 小ロキアム@巣鴨』に記事を投稿しました。

以下の本を紹介しています。宜しければクリックどうぞ。

ユルゲン・ハーバーマスとヨーゼフ・ラッツィンガーの対論とした出版された

『ポスト世俗化時代の哲学と宗教』 

(三島憲一訳、2007年、岩波書店)