2015年5月30日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝
 
2015年5月31日(日) 午前10時30分
朗読箇所 使徒の働き 17:22-31
説 教 題 「義をもって世界をさばく」
説 教 者 小嶋崇 牧師

教会史遡行(4)
 メソジスト教会と教派主義(デノミネーショナリズム)

  ・・・フランシス・アズベリー(1745-1816)

(フランシス・アズベリー) 
 
(第2次信仰覚醒運動がスタートしたとされるケンタッキー州ケーン・リッジでの野外集会)

2015年5月29日金曜日

(5)『アポカリプス(黙示)』と『終末』

今年2回目のライト読書会(案内、ガイド1、ガイド2)のテーマがアポカリプス、と言うことで少しランダムにあれこれ書いてみます。


課題論文は"Apocalypse Now?"(1999年)となっていますが、アポカリプスはご存知ヨハネの『黙示録』のギリシャ語名ですね。

フランシス・コッポラ監督の『地獄の黙示録』(1979年)の原題 Apocalypse Nowにかけているわけでしょうね。


課題論文"Apocalypse Now?"は「千年紀末」を迎えて「世の終わり」っぽい言説に溢れてきたところで書かれたものです。

何しろ元はと言えば聖書が出展となっていることですから、聖書学者としては放置できない、と言うことでしょう。


Apocalypse Now?からピックアップすべき点を二つほど挙げてみます。

(1)『リタラル(文字通りな)』と『メタフォリカル(比喩的な)』の区別
※カタカナ表記では『リテラル』とするらしいが

 一応の説明はガイド1を見ていただくとして、「what is literal and what is metaphorical」と言うことなのですが、これがなかなか説明するのがやっかいなのです。

 アポカリプティックに関する例で言えば、「空中で主と会う」(第一テサロニケ4章17節)や、黙示録の「千年王国」が挙げられます。

 リタラル/メタフォリカルの区別はあくまで解釈における第一段階で、実際はもっと複雑な考察が必要とされると思いますが。

 ビブリシズムの問題とも絡みますが、単に文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別の問題を越えた「大きな聖書解釈枠」の影響があると思います。

 神の啓示の書としての聖書は、その「普遍的真理性」の前提から、リタラルで常識的な解釈が優先される傾向があること。

 このある意味「決め付け」傾向は、聖書と言う複雑な言語・文学表象を持つリアリティーを「平板に」(そして一律に)解釈する方向に行きやすい。

 換言すれば聖書の文学的複雑性、言語表現の多様性を犠牲にしても、信じ従うべき(命題的)真理形式に置き換えられやすい、と言う問題を生む。

 この「決め付け」傾向の問題に一層拍車をかけたと思われるのが、啓蒙主義以降の「合理主義」との対決。

 人間の「理性」に対抗して「聖書の権威」を強調することによって、必要以上に「科学」に対する聖書の「エピステモロジカル」な優位性を主張することになった。(「特別啓示と一般啓示」の立場から、「信仰対科学」に変わって行った。)

 「創造論」対「進化論」における「六日創造」説は、文学的表現としてのリタラル/メタフォリカルの区別と言うよりも、科学説に対抗するために押し付け(結果歪め)られた「解釈枠」と見ることも可能と思われる。 
 
(2)『黙示(表現・文学)』と『終末論』との混同

 先ず認識に挙げておくべきは「黙示」と「終末」は同じことではない、と言うことではないかと思います。

 黙示(英語はrevelation)とは、端的には、「今まで隠されていたものが明らかにされる」ことです。

 簡単に言えば、新約聖書は旧約聖書が「終わりの日」に起こるであろうと預言していた事柄が、イエス・キリストにおいて実現したことを主張(宣言)するものです。

 その意味で最も中核的な「黙示」的出来事は、イエスの十字架の死と復活、昇天・占座、聖霊降臨、と言えるでしょう。

 しかし、これら一連の出来事は(旧約)聖書の視点からはみな「終末」に属するものでありながら、ナザレのイエスに特定した歴史的出来事としてはその終末性が多くのユダヤ人には明らかではなかった。

 「メシヤの死」がある意味逆理的に「神の義」を啓示した、と主張するのがロマ書であり、その他のパウロ書簡も含め、使徒書簡は「イエス・キリストの出来事」の終末性を噛み砕いて明らかにするもの、と言うことが出来るでしょう。

 しかし、「新天新地」「万物の更新」、つまり「終末」の事柄のうち、「未だ(Not Yet)」に属する事柄、まだ将来に残されている「終末」の事柄があります。

 ここに所謂「キリストの再臨」とそれに伴う事柄が関わってきます。

 上掲、(1)『リタラル』と『メタフォリカル』の区別、の例で挙げた「携挙」や「千年王国」です。

 ところが、再臨、携挙、千年王国、は既に成就した終末の出来事である「イエス・キリスト」の死と復活に「碇を繋」いで展望すべき事柄なのに、どうも「預言/予言の成就」式に「世界史の動向(特にイスラエル国家)」と絡めて追尾し、一喜一憂する傾向が後を立たないようなのです。

 (と、これはかなり個人的な見解かもしれませんが。)

 例えばヨハネの黙示録の破滅的なシナリオを「世の終わり」の出来事として(一方的に)強調する傾向は、ライトが指摘するように、新約聖書を出展としますが、新約聖書の世界観とは異なるものです。

 いわゆる「アポカリプティシズム」は、多分に悲観主義、二元論的思考に影響された逃避主義に特徴付けられ、一つの世界観として整理されうるものです。



《附記ー個人的な回想と感想》

 筆者の属する教会は中田重治が牽引した「日本ホーリネス運動」の流れにあるが、その神学的遺産である『再臨(四重の福音)』や前期千年王国説的歴史的展望や関心(イスラエル国家)とは余り関わりがなかった。

 しかし間接的に「再臨近し」的な言説は聞かれたこともあった。

 昨年ある会話で、「最近、教会内で再臨のことが取りざたされることが殆ど無くなった印象を受けるのだが、どうだろう」と持ちかけたことがあった。

 知人の中にはディスペンセーショナリズムの影響下にあった者たちも結構多い。

 と言うことは日本の教会では、アポカリプティシズムがもたらす影響は現象的には表舞台から姿を消しているように見えるが、そのような「世界観」の要素が消えたわけではない。

 世間では依然として「アポカリプティック・サウンド」とか「世の終わり」とかの「世紀末」を匂わせたり、煽ったりするようなものがサブカル的にも流通しているようである。

※[追記・・・2015/5/30] 適当にサブカルと書いたが殆ど詳しいことは分からないのだが、今日たまたまこんな記事をヒットした。ここまで来るともう何と言ってよいのやら・・・唖然。これだと牧師自らが仕掛け人になっている。これこそもう「世の○○り」みたいなものではないか。

 つまり、「終末」に関する整理されたクリアーな思考との取り組みが始まったわけでも無さそうである。

 今度のライト読書会は、そう言う意味で、「健全な神学(終末論)」を目指す藪漕ぎのようなものではないかと思っている。

2015年5月25日月曜日

(3)昨日の説教からーペンテコストと異言

昨日、5月24日は、今年のペンテコストでした。

(※昨今の多文化主義のマナーで言うとシャブゥオトも。)

朗読箇所: 使徒の働き2:1-13
説教題:「御霊が話させてくださるとおりに」
アウトライン:
 I. 天が開け、家の扉が開かれ、口を開く
 II. 言語と文化の壁
 III. 証人と証言
注目聖句:

 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(使徒言行録2:4、新共同訳)

 They were all filled with the holy spirit, and began to speak in other languages, as the spirit gave them the words to say. (KNT)

といった概要なのですが、礼拝後の会話でこんな感想を聞くことができました。
ペンテコステの出来事で「tongues」とあるのを、今までずーっと(ペンテコステ系の方々の言う)異言だと思っていました。
でも「外国語」、(離散のユダヤ人たちにとっての)「母国語」だったんですね。
この感想、つまりペンテコステ/カリスマ系の特徴とされる「異言体験」については実はそれほど意識していなかったので少し不意をつかれた気がした。

それで少し会話をした。

共に「異言体験」を持っていない同士なので、そもそもペンテコステ/カリスマ系の方々が主張する「異言体験」と、ペンテコステの出来事とが、どう密接に関わるかどうかはさておいて以下の二点を確認した。

(1)ペンテコストの日に弟子たちがしゃべった言語は、その日五旬節に集まっていた離散のユダヤ人たちにとっては「母国語」であり、弟子たちにとっては「外国語」であった。どちらにしても「分かる言葉」であって(「異言体験」を持たない者が想像する)「意味の分からない音の羅列」としてのイゲンではなかった。

(2) 新約聖書(特に使徒の働きとコリント第一)の視点から言うと「異言」は否定すべきではないが、(集会の意味で)教会においては「秩序」と「理解」に従う賜物である。

筆者の中では一応整理が付いていることなのだが、結構長い信仰暦のある方が今頃になって「開眼」したかのように話されたことで、改めて聖書を読む時の「規制枠」(既成枠といってもいい)の問題を思った。


ついでに付言すると、この日はメソジスト運動の始祖ジョン・ウェスレーがアルダスゲート街集会で「福音的回心」体験をした日でした。

説教では、キリスト者としての信仰が他のキリスト者によって信仰が補強されることを通して「証人」として整えられる生きた例として
 (1)アポロ
 (2)ジョン・ウェスレー
を取り上げました。

アポロは信徒伝道者プリスキラとアクラによって(使徒18章24節以降)、ジョン・ウェスレーは「モラヴィア派」と「ルター」によって、それまでの信仰が補強され、その後の伝道に結実しました。


今朝、以上のことを受けて、「聖霊のバプテスマと異言」と言うテーマで少し思索を始めたところです。



2015年5月23日土曜日

明日の礼拝案内

ペンテコステ主日礼拝
 
2015年5月24日(日) 午前10時30分


朗読箇所 使徒の働き 2:1-13
説 教 題 「御霊が話させてくださるとおりに」
説 教 者 小嶋崇 牧師

2015年5月22日金曜日

(5)タカ牧師のセブン-2

シリーズ最初のセブンからしばらく経ちました。

まだしばらくは「フォルダ」にたまったものが中心になると思います。

と言うことは前回ほどではないですが、少し古い記事もあると思います。

そんな前置きで始めます。


1. The 10 Most Influential Churches of Last Century
  『最近100年の教会トレンド・トップ10』

 CT誌が、過去百年、教会の中での「目立った動き」を10選び出して解説しています。

 時系列で見る教会史よりも、ざっくりトピカルに概観できるので、英語が苦手な人にも読みやすいかと思います。
 スコフィールド聖書、ヨイド純福音、カルバリー・チャペルなどが入っています。

2. Is the Gap Between Pulpit and Pew Narrowing?
  『聖職者と信徒の溝は埋まってきたのか』

 仕事の意義を語る説教によって、信徒はどれだけ自分たちの職業を積極的に見れるようになっているか、をリサーチして記事にしています。

3. 7 Thoughts From A Chronically Unhappy Person
  『常習うつ人間が思った七つのこと』

 作家さんらしい女性が、常駐するうつ症状を報告しながら、対症療法やアドバイスについてエッセイ風に書いています。

4. 「クリスマスと正月が同居する日本」に世界の宗教家が注目! 寛容の精神に見る、宗教の本質とは

 TEDxkyotoの読み物版。京都の僧侶が、日本の混淆宗教事情を「寛容の精神」、と逆手にとって「世界に発信しよう」と頑張っています。

 「8時だよ! 神さま仏さま」と言うラジオ番組も宣伝しています。

 最近はテレビ朝日の「ぶっちゃけ寺」も話題になっていますね。

5. ドイツ哲学者三島憲一氏「東電に骨抜きにされた日本国民」

 筆者の関心領域から言うと、ドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスの著書を翻訳していることで有名な三島氏。

 福島第一原発事故後まもなく、独ツァイト紙に発表された記事をこのブロガーがボランティアで翻訳したもの。

6. On Not Being Funny In Japan
  『日本ではなかなかジョークが通じない』

 文化の違いでもジョークは難しいものの一つ。どのようなジョークがどの程度通じるか、分析しながらアドバイスしています。

 読み方によっては、日本人の気質についての文化論入門みたいなものか・・・。

7. I Ghostwrote Hundreds of Chinese Students' Ivy-league Admissions Essays
  『私は中国人留学生のアイビー校入学審査用論文を何百と代筆しました』

 本当だとすると、何かひどいですね。「裏口」からコソコソと言うより、お金にまかせてガンガン中央突破、といった印象を持ちます。

 経済格差の問題も背景にはありそうなので、現代の縮図として読めるでしょう。


以上でした。


2015年5月21日木曜日

(5)中野晃一教授講演会

こう言うタイプのものは、どんどん記憶から失われるので、早いとこアップしなきゃと思って・・・。

そう言うわけで内容については「旬」がいのちと思ってください。


中野晃一教授は現在上智大学に所属。

専門は政治で、現在は日本に集中しているようだ。


東大での公開講演会は英語で行われたもので、多分40人くらいはいたと思う。

New Right Japan: The Neoliberal Path to Illiberal Politics
『日本のニュー・ライト新自由主義から非自由な政治へ』

と訳してみたが専門用語は知らないのであくまでいい加減。


大体が二つの理由でこの講演に行ってみることにしたのだ。

一つは、英語でなされる講演ということで、日本人の教授がどの程度の英語を操るのか興味があった。

二つ目に、聴衆はほぼネイティブだろうと予測して、よりフランクな内容を期待できると思った。

以上の二つの期待とも満たされた。


 (1)戦後レジーム(1955年体制)の崩壊過程を3段階に分けて現在の「ニューライト」まで辿る『大きなピクチャー』を提示し、キーワードを使って大づかみな分析。

 (2)詳細をQ&Aで補う。

と言う形式で、ほぼ1時間半近くを費やした。

短時間だが実入りのいい講演会だった。


中野教授の英語は専門用語だけでなく、普通の表現もレベルの高いものを苦もなく操っていて、十分ニュアンスを出していた。

分析内容においては、専門家からは「データ分析に基づくトレンド分析が足りないのではないか」的なことを言われていたが、やはり大きなピクチャーを軸に現在の政治動向(右傾化とその性格)を指摘していただく方が、素人には分かりやすかった。


講演のアウトラインは専門用語も含むので簡単に書いても間違うだろうから省略する。

Q&Aの部分も含め、素人なりに拾えたポイントを幾つか挙げてみると:

 ・「インタレスト・ポリティックス」から「アイデンティテイー・ポリティックス」へのシフト

 ・1955年体制以降の政治分析で重用されてきた(加州大バークリー校だと思う)チャルマーズ・ジョンソンが最早効かなくなってきた、みたいなこと。

 ・日本会議がスタートした1997年は重要

 ・二大政党制の失敗や総評、日教組などの無力化、政治家の世襲化、などが合わさって政治が寡頭政化し、権力のチェックが出来ない危ない状況が出来つつある。

 ・戦争できる体制作りは、憲法を骨抜きにするいわばクーデター的に出来つつある。

 ・ライバル政党のいない状況で、メディアは長期政権を批判しにくい、官僚は法案を通す千載一遇のチャンス・・・と協同的な態勢が出来てしまう状況。

この他、「特定ヒミツ保護法」や「慰安婦」「ヘイトスピーチ・嫌中国・嫌韓書籍が公然と並べられる書店」など、現在の右傾化の状況についてコメントがなされた。


いやー、あっという間の1時間半だった。

《追記》
思い出した。せっかくだから書き足しておこう。

「ネットウヨ/ヘイトスピーチ」関連の質問への回答で。
質問は「年齢層」に関してのものだったが、社会科学的な統計に基づくリサーチが足りない現状を指摘していた。

「民主党の失敗」
がもたらした二大政党制と言う「実験」へのダメージを、何度か「トラウマ」と言う表現を使って指摘していた。官僚に与えた影響の大きさ。

「慰安婦問題」
質問の細かなニュアンスは忘れたが、2014衆院選時の自民党のマニフェストに記載されている文言が「クマラスワミ報告」を受けてのものであるだろうことを指摘していた。

今朝になってそのことを思い出し、検索してみたがこれのことのようである。

虚偽に基づくいわれなき非難に対しては断固として反論し、国際社会への対外発信等を通じて、日本の名誉・国益を回復するために行動します。
へー、自民党のウェブサイトはこうなっているのか・・・というのが感想。

2015年5月17日日曜日

(5)リチャード・ヘイズ日本講演、3

最初に整理しておきます。

東京説教塾が主催した、2015年4月27日(月)に、キリスト品川教会で持たれた、デューク大学神学部神学部長リチャード・ヘイズ教授の二回の講演についての報告をしています。

今回で東京説教塾分が終わり、その後立教大学キリスト教学研究科での公開講演を報告します。

※講演後に知ったのだが、リチャード・B・ヘイズは、来年神学部長を辞し、サバティカル休暇後教授に戻るとのこと。デューク大学ウェスレー/メソジスト研究者マドックス教授が次期学部長選対委員会を率いる。(デューク大学広報)


ヘイズ日本講演、1・・・「信仰のまなざしをもって聖書を読む: 神学的釈義の実践」の前半
ヘイズ日本講演、2・・・「信仰のまなざしをもって聖書を読む: 神学的釈義の実践」の後半

そして、今回「日本講演、3」は、「この世界を覆す:よみがえりを説教する(Turning the World Upside Down: Preaching Resurrection.)」について報告します。

どうやら下になっているテキストは、
Chapter 14. The Resurrection of the Body: Carnis resurrectionem (Roger E. van Ham, Exploring and Proclaiming the Apostles' Creed, pp.260-272)
のようです。

タイトルから分かるように、使徒信条についての本です。

目次を「グーグル・ブックス」でご覧くださると分かりますが、信条の各項目ごとに寄稿者が「解説」と「説教」を書いています。

ヘイズは「からだのよみがえり」の「解説」の方を担当したわけです。

出版年は2004年ですから、少し古いですが、今回のテキストはそれを大きく2点改変しているようです。

(1)「からだのよみがえり」の理解を困難にする「復活」の概念を解説する部分がイラストレーションを入れたりして拡張しています。


上掲書では、By raising the man Jesus、で始まりますが、今回のテキストにはテッド・ウィリアムスと言う有名な野球選手が遺書に残したと言う、「死後身体蘇生」についてのエピソードが冒頭に置かれています。
(ヘイズが言及したボストン・グローブの記事ではありませんが、それから10年後のこの記事にも遺体の冷凍保存などについての経緯が書かれています。)

実際にテキストがないので比較はできませんが、「復活」概念に対する理解の混乱は、
 (A)一方でキリスト教会の中に連綿として受け継がれてきた「死んで天国へ行く」式の非身体的(たましいだけの)永世観があり、
 (B)もう一方では科学的世界観から来る「物質主義」の影響がある、
と指摘します。

※あるいはヘイズはこの時点では、N. T. ライトの、The Resurrection of the Son of God (2003)、はまだ読んでいなかったのかもしれません。

※ちなみに、この講演後の質疑応答でのことですが、復活の身体性についての質問と応答(ヘイズは第一コリント15章の『肉の体』と『霊の体』の対比も使って説明しようとしたが、通訳もポイントを拾いきれなかった印象)後、聴衆に向かって、Do you know N. T. Wright, his Surprised By Hope?と問いかけ、(ほぼ無反応の聴衆に向かって)It needs to be translated.とアッピールして、この辺の理解の混乱に関しては、ライトと彼の復活に関する本が必読であることを指摘した。 

(2)復活の行動化
上掲書は「説教」が別に組まれているので、「解説」までで終わっているようだが、今回のテキストは「実践」として「復活」を教会としてどのように「行動化」するか、と言う課題と取り組んでいる。

最初にウェンデル・ベリーの「Manifesto: The Mad Farmer Liberation Front」と言う詩の最後の部分を引用する。
As soon as the generals and the politicos
can predict the motions of your mind,
lose it. Leave it as a sign
to mark the false trail, the way
you didn't go. Be like the fox
who makes more tracks than necessary,
some in the wrong direction.
Practice resurrection.
ベリーのゲリラ的と言うか、対抗的と言うか、抵抗運動の実践を「復活行動化」と意味ありげに呼んでいるもののニュアンスを、ヘイズは以下のような『(復活と言う将来的なものを今に)体現化』するものとして:
 1. 平和作り
 2. 持ち物の共有
 3. 和解の食卓
を提案する。


これらの復活に基づく(規範習慣的)行動(practices)は、(主に)使徒の働きのナラティブから、「対抗的共同体」の性格として位置づけられる。

論述しないが、ジョン・H・ヨーダーの『社会を動かす礼拝共同体』倫理学に、ライトの「新創造」を付加したような味わい、と言った印象のものだ。


まだまだ「試論」あるいは「素描」の印象だが、(恐らく)ヨーダーやハウアーワスらの倫理学的洞察を透過しながら提示されたこれらのシンプルな「習慣」が、復活を体現する教会としてのアイデンティーティー・マーカーとして『現実』に切り込んで行く時に、その真価を発揮する・・・ということのようだ。 



余り助けにもならない報告かもしれないが、今回はここまで。