2016年9月25日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ルカの福音書 11:1-4
説 教 題 「日毎に与えられる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
いのり(8)
わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
(ルカ 11:3、新共同訳)
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
Some have asked where JW said this. Answer: Holy Scripture: A Dogmatic 'Sketch' p. 113.— Fred Sanders (@FredFredSanders) 2016年9月22日
Some have asked for context. Here's the paragraph. pic.twitter.com/hDzAzlYreh
— richard zombeck (@zombeck) 2016年8月31日
オリンピックなどの国際大会で、『君が代』が鳴った途端に日本選手が正座をしたり、あぐらをかいたり、立てひざをしたり(ともに昔の日本の座法)、あるいは横になったりして(仰臥禅風)、お腹に手を当てて瞑想っぽくしているのってなんかいい。直立不動や胸に手を当てるのは非・日本的。— 安田登 (@eutonie) 2016年8月31日
神の啓示は「言葉」を客観的媒体として「知性」に伝達され、魂全体に作用する。
「真理は感情の中には与えられず、知性によって発見され解明される。・・・」
「そのような啓示の真理は、科学の世界同様に検証され、確実に認識できるという。こうして聖書の預言や歴史的データをさかんに検証し、その真理性を証明し、その上に神学を構築しようとする試みを積み上げていった。」(チャールズ・ホッジ)
「聖書は神の言葉を記しているのではなく、それ自体が神の言葉である。したがって、すべての要素や言明は絶対的に無誤であり、私たちはそれを信じ、それに従うことが求められている。」(A・A・ホッジ、B・ウォーフィールド)
「しかし、ここに来て進化論的世界観やドイツの高等批評学が聖書を解体分析していく中、彼らはトゥレティーニなどの逐語霊感説よりも綿密に、またそれを超えた無誤論を考え出して行く。」以上、(1)と(2)で目立ったポイントを引用列挙したが、筆者として要約すると次の二点が重要化と思う。
「このような危機感は、十七世紀には存在しなかった。また一世代前のチャールズ・ホッジよりも、息子A・A・ホッジとウォーフィールドが、より強烈に実感していたものである。」
「ところが、リベラリズムの脅威をより強く意識した次の世代のウォーフィールドは、矛盾を矛盾として認めようとはせず、・・・、解釈困難な箇所はそのままにして、すべてが真理であるとみなされるべきである、と主張する。言うならば、 ア・プリオリな真理はア・プリオリなままで信ずるべきであるとして、無誤性を完璧に守ろうとしたのである。」
「こうして十九世紀末から自由主義の圧力が増大していく中で、聖書の無誤論は、聖書批評学への道を閉ざし、保守派の防波堤として重んじられた。」
「言い方をかえると、この時代のプリンストン神学において、聖書信仰はキリストや十字架に並ぶような信仰箇条になってしまった。福音主義の組織神学の書物があれば、聖書、神、キリスト・・・・・・の順に記されるようになる。」