2017年8月20日(日) 午前10時30分
朗読箇所 コロサイ人への手紙 4:7-14
説 教 題 「心が励まされる」
説 教 者 小嶋崇 牧師
コロサイ(42)/パウロ書簡の学び(159)
同労者たち ① テキコとオネシモ (コロサイ4:7-9)
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
あまり知られていないが、プロテスタントには、全部で三万程度の教派がある。せいぜい数個や数十個の教派しかないと思っている人が多いのではないだろうか。およそ「プロテスタント」と一括りにできるようなものではない。「カトリックではない」というのが最大公約数的なアイデンティティだとも言える— 山本芳久 (@201yos1) 2017年8月17日
プロテスタント側には「30、000の教派」がある。
「(それだけ多いと)一括りにできるようなものではない」。
「カトリックではない」という定義がプロテスタントの「最大公約数的なアイデンティティ」。
Due to a variety of complex circumstances, the Western church, known today as the “Roman Catholic Church,” split from the Eastern Orthodox Patriarchates of Constantinople, Jerusalem, Alexandria, and Antioch in the 11th century. Roman Catholics, however, see it from the opposite perspective, namely that the Orthodox Church broke communion with the Roman Catholic Church.カトリック教会は正教会側が分離したと考えているが、カトリック教会が正統である東方正教会から「分岐」したのではないか・・・。
ジョークと言うのは英語圏でのパブリック・スピーチにおける必須なものです。その中でも「神学的なもの」となるとやはりTPOになり、どうしても「宗派・教派の違い」をネタにすることが多くなるようです。(アリスター・マグラースの場合は“浸礼派”バプテストでした。)
シリアスな内容の講演でも、その導入にちょっとしたジョークを入れることで聴衆の食いつきが良くなりますからね。
If the doctrine of Trinity didn't exist, we'd have to invent it.と高らかに宣言し講演壇を離れました。
※たまたま今朝ツイートしたこの記事は的確にその辺の事情を捉えていると思う。
政治領域で働いた方が分析する「トランプ政権」と「福音派」の関係。選挙期間と異なり、現政権を支持し続けることはパブリックな意味合いが違う。福音派キリスト教の真価が問われる局面に入った。https://t.co/ARRWIcM3GF— Takashi Kojima/小嶋崇 (@SugamoSeisen) 2017年8月12日
このたび、4回にわたり特に「キリスト教原理主義」について拙文をつづることになったが、正直言って≪戸惑い≫を覚えている。とあるのだが、「第2回」というのが見つかっていない。
ブッシュ政権の“在り方”については大いに論ずべきであるが、ことファンダメンタリズム・福音派に関する著者の見方は、従来から日本のメイン・ラインの教会の中に広く流通してきたものの反復にほかならない。結局、忌避・拒絶 以外の何物でもない。過去に(もちろん今でも尾を引いているが)対立した自由主義、根本主義/福音主義両陣営がそれぞれに対する見方をすり合わせながら共に学ぶような機会がまだまだ少ないのだと思う。
以上のようないわば“定説”とも言えるネガティブな見解とは対照的な“稀なる見解”が最近登場している。それは、一定の理解と評価をともなった古屋安雄氏(聖学院大学)の見解である。
古屋氏は前掲書の中で、一章を「日本の福音派」にあてている。種々問題を論じながらも福音派の成長に注目し、「日本においても福音派に期待するのである。日本基督教団をはじめとするいわゆる主流派の諸教会がいつまでも混迷と混乱のなかにあるならば、福音派の諸教会がそれこそ〈主流〉となる日がやってくるかもしれない」と“オープンで前向きな見解” を披瀝している。
かつてウィリアム・ホーダーンは、エバンジェリカルはリベラルなものを一生懸命学ぼうとするが、その逆はほとんどみられないと指摘したことがある! また、プリンストン大学の社会学者ロバート・ウスナウは「リベラル派と福音派の両者とも、互いに相手の最も悪い面ばかりを前面に押し出し、それぞれの“よい部分”をまったく見ようとしない」とも批判している(『アメリカの魂のための闘い─福音派・リベラル派・世俗主義』(1989)。日本のキリスト教界はまさにその典型である!(強調は筆者)
「義認」を論ずる枠組みは何だろうか。
宗教改革以降、プロテスタント諸派で顕著なのは「義認」を「救済論」の中で論ずることだ。
特に「救いの順序(ordo salutis)」の枠組みを参照して論ずることだ。
しかし、それが余りにも(時系列的にも、論理的にも)詳細な点に渡ってまで整合させようとして聖書テクストの読み(釈義)を歪めさせている・・・
「キリストとの一体(union with Christ)」です。(マクゴワンの論文ではordo salutis methodに対してunion with Christ methodとなっています。)
Nothing distinguishes the traditional ordo salutis more than its insistence that the justification, adoption and sanctification which occur at the inception of the application of redemption are separate acts. If our interpretation is correct, Paul views them not as distinct acts but as distinct aspects of a single act.(強調は筆者)
※特に「澤村五郎」について。実は戦後すぐ「献身を決めた」父が入学を予定していたのが、澤村五郎校長の関西聖書神学校だったと聞いています。さて「三人(岡田稔、中田重治、澤村五郎)の聖書信仰の特徴」をまとめている箇所を引用抜粋してみます。
岡田は当時を振り返って、高倉徳太郎の『福音的基督教』が広く行きわたっていたので、「福音主義」という用語よりも、「聖書信仰」のほうが、聖書に対する自分たちの立場を明確にする ことができたと述懐している。(111)
※筆者はこの引用部分から後者二者のように「信仰生活の実際」における聖書信仰というよりも、「聖書論」としての聖書信仰に自覚的であった、強調があった・・・という印象を受けました。
[中田] この聖書信仰はプリンストン神学的なものではない。むしろ、十八世紀の信仰復興運動を彷彿とさせるような聖書信仰である。神の言葉への信頼、野の草のような人間の知恵や言葉を論じるに足りないものとし、無から有を創造し、罪人に救いを与え、新創造をもたらす神の言葉、すなわち聖書に絶対的信頼を傾ける聖書信仰であった。そして、ムーディーを取り巻くリバイバリズムと米国ホーリネス運動から受け継ぎ、さらにはディスペンセーション主義の再臨観に染まった聖書信仰 であった。(115)
このように澤村の説く聖書信仰は、十八世紀の敬虔主義的・信仰復興運動的な流れにある。しかも彼の聖書理解にはディスペンセーション主義的色彩はなく、徹底して御言葉と聖霊の関係が強調 され、聖書は信仰をもって聞く者の生涯を聖霊が改革していく恵みの手段である。(116-7)これらの記述を簡単に比較すると、