2011年6月29日水曜日

井の中の蛙

「信仰の他流試合」と言う記事を先日書いたら、「親子別教会という選択」の元記事を書いた「命と性の日記」ブログに『「親子別教会という選択」からの発展記事の紹介』と言う題で紹介された。
このブログで紹介されると何しろ購読者がたくさんいるのであっという間にページ・ビューが跳ね上がることになる。

当方のように毎日のページ・ビューが50を越えるか越えないかと言うプログにはインパクトが大きく、『信仰の他流試合』記事はあっという間に『人気の投稿』のトップ5に躍り出てしまった。

さて、二匹目のどじょうを狙っているわけではないが、ちょっと関連したことを書こうと思う。

過去に「教理と政治歴史的文脈」、「非キリスト者による信仰論」、「『犠牲』と『贖罪論』の問題性」で東大教授で哲学者の高橋哲哉氏の「信仰理解」「宗教理解」に一定の可能性を感じたことを述べた。

また、先日、「生きる意味:柳澤桂子」でも、非宗教的信仰のあり方を模索している様子を垣間見た。

このように、「福音派」と言う殻で信仰なり、キリスト教なりを考えてきた筆者としては、「信仰の他流試合」で書いたように、自分の信仰を相対化した上で客観視する現代的文脈はどんどん広がっていることを感じている。

暫く前から「宗教間対話(英語では"interfaith"と表現される)」と言うことを思わされるようになってはいたが、ついぞ本腰を入れてこのテーマに手をつける機会を得ないままで来てしまった。

もうそろそろ何か始めなくては、と自問してみて、筆者の弱点として本気に他宗教のことを理解しようとしていないことを思わされた。

てなわけで、飽きっぽい性格なのでどこまで本気なのかは分からないが、先ずは手元に本を置いてみることから始めようと、図書館で本を借りてきた。

宗教の棚を探索しながら、イスラム研究の大家、文明思想家としても「巨人」と呼ばれている井筒俊彦の名前を思い出し、彼の「コーランを読む」(岩波セミナーブックス1)を借り出して読み始めた。

もう一冊は少し本題から外れるが、東大宗教学教授、島薗進の「ポストモダンの新宗教:現代日本の精神状況の底流」(東京堂出版)を借りてきた。

最近50代後半になってとみに思うのは、おつむの働きがかなり緩慢になってきたと言うこと。余り深く考えられなくなってきた。テーマは良いが遅きに失した感があるかもしれないがちょっとでも「信仰の他流試合」の宗教間的文脈、ポストモダン的文脈での思考をしておこうと思う。

そんな中今日はキリスト教の中では異色の立場と言える流れに属する伝道者の方と会話をしてきた。そしてその立場の歴史や人物、キリスト教に関する立場などの話をお聞きしてきた。
ご自身が若い時入信の自覚なく洗礼を受け、その後教会を飛び出し、禅宗や曹洞宗など仏教に入り込んだが「救い」は得られず、たまたま昔買っておいたその流れの著名な人物の本を読むことで現在の信仰的立場に至った経緯も興味深く伺った。


筆者の場合には自己の立場に悩みながら「宗教間」を模索するわけではないが、現代において「福音派対リベラル」のような内輪の対立を唯一の信仰の対立軸とするような視野狭窄を卒業し、少しでも広い視野で「信仰」の問題を深められるようになりたいと・・・。

まーちょっとそんなことを感じている今日この頃です。

2011年6月27日月曜日

『教会における聖書の解釈』⑤

カトリック教会の教皇庁聖書委員会の文書「教会における聖書の解釈」(和田幹男訳)のコメントの五回目です。

今日は『第4部 教会の命における聖書』についての感想です。

毎回感じることですが、文章は細部に渡って解説が必要なほど濃いものです。簡単なコメントを幾つか言って終わるにはとてももったいない内容を持っています。
残念ながら今回もほんの一部だけ選び出してコメントするに留めます。

では第4部のアウトラインを載せてみます。
A.現在化(Actualization)
  1. 原則
  2. 方法
  3. 限界
B.文化内順応(Inculturation)
C.聖書の活用
  1. 典礼における聖書
  2. 聖なる読書(Lectio Divina)
  3. 司牧宣教活動における聖書
  4. 教会一致運動(Ecumenism)における聖書
聖書は「神のことば」として、すべての時代、すべての文化の壁を越えて語られなければならない、と言う確信のもとに、「現在化」と「文化内順応」の原則、又その適用における陥穽や具体的間違いが述べられています。

その方法について書いてある部分をちょっと抜き出してみると、例えば「現在化」が示唆している事柄を垣間見ることが出来るでしょう。
 解釈哲学に発想を得れば、解釈の行程にはつぎの3段階がある。1.現在の状況にあって、そこから御言葉を聞く。2.聖書本文が照らし出したり、問題にしたりする現在の状況の諸側面を識別する。3.聖書本文の意味の充満から、キリストにおける神の救いの意志と整合性があって、現在の状況を実り豊かに発展させることができる要素を汲み取ること。
現在化によって、聖書は現実にある数多くの問題を明るみ出している。たとえば、教会の役務の問題、教会の共同体としての次元、貧しい人々の優先的選択、解放の神学、女性の社会的条件がそれである。現在化によって、現代人の意識が日増しに認めるようになった諸価値に関心が高まるようになることもあるかもしれない。そのようなものとして、人権、人命尊重、自然保護、世界平和への希求がある。
新しい歴史的文脈とその時代が包摂する課題に対して「神のことば」が当てはめられ、聖書の真理が教えられるよう「現在化」が目指されている、と言う考え方が良く分かります。

「C.聖書の活用」においてもプロテスタント側から学ぶことが出来る様々な示唆のある文章が散見されます。
プロテスタントのカトリック教会に対する固定観念としては、カトリックはミサ(典礼)中心で、プロテスタントはみ言葉の教えに重きをおく、と単純化しやすいです。
しかし、「典礼における聖書」に書かれているように、第二ヴァチカン以降の典礼改革の中に礼拝の中に聖書を重んずる、あるいは機能的に用いる取り組みが、ミサ時の「説教」や「三年周期の聖書朗読」に見られるのではないかと思います。

「聖なる読書(Lectio Divina)」はプロテスタント側のパイエティズム(敬虔の育成に用いられる聖書の学びと祈り)の伝統と重なるものがあるように思います。

「教会一致運動(Ecumenism)における聖書」では、諸教会の立場を超えて「聖書」を共にする(例えば、エキュメニカルな翻訳聖書作り)ことで具体的な道が見えてくるような気がします。

色々示唆に溢れた文章が続くので途中でどこかを切り取ってコメントするのは難しいのですが、あくまでプログに掲載する程度の軽いものとしてコメントを読んで頂き、読み通す気力のある方は是非本文の方をお読みください。

2011年6月25日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月26日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:7
説 教 題 「子であり、相続人でもある」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(62)
ガラテヤ人への手紙(50)
・4:1-7 子であり、相続人である

2011年6月22日水曜日

信仰の他流試合

いつものように定期巡回しているブログの一つ、「一キリスト者からのメッセージ」を読んでいた。
今日の記事はいやに長いなーと思いながら、いつものようにお得意の映画評論を絡めて書いているなー、と文章を読んでいた。ところが最後になって、
そういえば、いつも楽しく拝見させていただいている大和郷の教会の小嶋先生は、3世代目だそうであるが、http://sugamo-seisen.blogspot.com/2010/08/blog-post_22.html
この他の教会に行く、という選択について、どうお考えなのか、お考えをお伺いしたい気もします、とおねだりしてみようか、と思うミーちゃんはーちゃんなのでした。
とあったので一瞬虚を衝かれ、慌ててしまった。

「罪の問題と非キリスト者ホームの信者とキリスト者ホームの子供として育った信者とのギャップ」と題されたその記事は、「クリスチャン二世の信仰形成」あるいは「信仰継承」の問題をクリスチャンホームや教会という環境要因の面からどう捉えるか、ということを考察する文章であるように思う。

この考察は一部「命と性の日記」ブログのシリーズ記事
「親子別教会という選択肢」(1)
「親子別教会という選択肢」(2)
「親子別教会という選択肢」(3)
に触発されてのものでもあるので、その問題意識、問題提起を意識しながら以下に思いついたことを書いてみようと思う。

「命と性の日記」ブログのシリーズ記事の方は、二~三世代同一教会に通う「クリスチャンホーム」が一見理想的に見えるようで、子供の信仰的、人格的自立を阻む要素もあるのではないか。その視点から敢えて「親子別教会」という選択肢があるのではないか、と問題提起し、その具体的選択肢を幾つか提案している記事、と読んだ。

筆者の個人的経験の範囲では「信仰継承」の課題は、青少年の「救いの確立」という形で筆者の教会グループ指導層が取り組んだ経緯がある。
筆者が育った教会グループの青少年たちは、殆んどがクリスチャン二世で、青少年時に回心してクリスチャンになった者はごくごく少数であった。
だから「救いの確立」の問題とは、「回心したんだかどうかあやふやな青少年」たちに自分の救いを自覚できるようなよりピンポイントな教育、指導をすることであったように思う。

と言うのも筆者だけではないと思うが、多かれ少なかれ「罪」と「悔い改め」そして「イエス・キリストの十字架の死による赦し」は子供の頃から叩き込まれてきたのであり、ただそれが親主導の信仰ではなく、主体的な、自立した信仰になるように、と言うのが指導層の願いであった。
筆者のグループはそれを「親子別教会」と言うような形でではなく、グループ全体の青少年伝道事業として、セミナーやキャンプのプログラムを通して具体化したのだった。

このような試みはその後青年たちが自主的に青少年セミナーを企画・運営するような形で進展し、「信仰の自立」と言う課題に対し一定の成果を挙げた、と言うことができると思う。言ってみれば「hi・b.a.」(超教派高校生伝道団体)」やKGK(キリスト者学生会)のような働きをグループ内で自前でやっていたような気がする。

と、ここまでは「命と性の日記」ブログのシリーズ記事が言及している範囲での「信仰の自立」問題であると思う。

しかし「一キリスト者からのメッセージ」ブログの方は、実はもうちょっと欲張りな「信仰継承」「信仰の自立」問題を提起しているのではないかと思う。

その部分を端的に表す部分をちょっと長くなるが二箇所引用してみよう。
多様なキリスト者集団があり、それぞれ、独特なパターンがあるという認識を持つため、そして、自らの信仰の姿を見直すという意味で、信仰者の短期及び長期留学制度としての、親子での別教会という選択は、一つの考え方ではないか、と思う。もし、子供がそのことを望むのであれば、親としては、教会内での立場があったとしても、結果としての信仰の幅、人間としての幅をつける機会として、信仰者の短期留学制度としての別教会というのはあってよいと思う。いずれ、子供は独立する時期がくるのである。そのための親の練習としても、そのような機会はあってよいのではないか、と思う。自派だけが『正しい』キリスト教だ、という思い込みがどこかキリスト教会に集まる人々の中にないだろうか。あるいは、自派が正しいことだ、と思い込んでいることに対する反省をさせるためにも、他の教会という環境にあえて触れさせてみることも、キリスト者教育だと思うのですけれども。
このような観点からも、信仰継承問題と親子別教会の問題を考えることは重要かもしれない。そもそも、信仰継承問題とは、イエスがキリストあるいはメシアであるということに対する信仰の継承問題であり、自派の信仰理解の継承という狭い基準についての問題ではないはずである。キリスト者2世が、イエスはキリストであるということを認め得れば、カトリック教会に行っていようが、ギリシア正教会であろうが、プロテスタントのどのグループに行っていようが、信仰は継承されたと、ミーちゃんはーちゃんは思うのですけど、あまりにエキュメニカルすぎるかなぁ。
このようにこの記事の標題にも使ったが「信仰の他流試合」をして自分の信仰的基盤を形成した教会文化を客観視させる機会として「信仰継承問題と親子別教会の問題」が考察されている。

筆者の個人的な体験に照らし合わせると、「自覚的な救いの信仰」を確立させたのは筆者が20才の時であった。しかしそれは自分が育った教会文化(敢えて最近筆者が使用する言葉で言えば「大衆的福音派信仰理解」)の中での自立であり、その文化内での通過儀礼に過ぎない面があることをその後の在米留学経験、及び牧師になってからの福音理解の深化から反省的に言うことができる。

筆者は全部で4校、11年に及ぶ在米留学経験を持つ。一番最初の学校はバイブルベルトにあるかなり保守的な聖書学校。次は同じ州にあったこれも福音主義と言う共通基盤を持つがその中では保守的な傾向の強い神学校。そして次は東部エスタブリッシュメントの老舗神学校で、もはや「福音派かリベラルか」と言う線引き問題には一定の距離を持っていた。そして最後の学校はプロテスタント(ルーテル派、長老派、バプテスト、聖公会、ユニテリアン、など)、カトリック修道会(イエズス会、フランシスコ会、ドミニコ会)、仏教研修所(浄土真宗だったかな?)などが連携した、超リベラルとも、超エキュメニカルとも形容してもいい神学校だった。

言ってみれば右から左までのかなり広い幅の神学的背景の中で勉学してきたわけである。
その間最初は自己の信仰的あり方、福音理解、神学理解を断固維持しようとがんばっていた時もあったが、次第に良い意味で自己の立場を相対化しながら、自分とは違う立場や考え方の人からも学ぶことが出来ることを習得するようになった。

さて話を「人格的自立」と「個人的信仰の確立」に戻してみると、「親子別教会と言う選択肢」は自覚的選択である場合と言っても、摂理的(人間関係や社会的)要因など色々あると思う。
別教会が選択が可能な都市部とそうでない地域の問題も指摘されていた。

筆者がこれに加えて懸念材料とするのは信仰や礼拝形式等に対する「世代間ギャップ」の問題である。
「選択肢」と言うと聞こえはいいが、大衆消費社会の中では自分の感性に合った「礼拝音楽や説教スタイル」を選ぶ消費者行動的な基準で教会を選択する可能性もある、と言う点。

もう一つの懸念は既に北米などで明らかになってきているように、従来の福音派が抱合する「キリスト教」の枠組みに満足できない若い世代のキリスト者たちが、「進化論」の扱い方、「ホモセクシャリティーに対する態度」、「社会正義の問題や環境問題との取り組み」などで、親世代教会から離れ、制度的にもよりゆるい、コミュニタリアンなクリスチャン・グループ形成をしている傾向である。
イマージェントと呼ばれるこの運動は、一時的「親子別教会」ではなく、親世代教会文化に対するカウンター文化的な運動と位置づけることが出来る。

以上まとまらない文章を書いてきてしまったが、「信仰継承」を目指した「自立」支援でも、「イエスはキリスト」と言う神学的問題の枠で収まりきらない様々な政治的・社会的・倫理的問題での意見や立場の対立・分離に発展する可能性があることを指摘しておきたい。

子世代が信仰的に自立する時、親世代とは広範な分野で異なるライフスタイルや政治的、思想的立場を取る様になり、それが世代間での「キリスト教理解」に大きな溝を作ることが予見される。
この世代間ギャップは現在の北米福音派内における深刻な対立の縮図と見ることも出来よう。

日本の福音派においては未だ若い世代の親世代教会文化に対するチャレンジのような動きは露見していないようだが、もしそのような形で発展した場合「親子別教会という選択肢」の新たな、そして文化的対立と言う問題を含んだ局面を迎えることになるのだろう。

(※「みーちゃんはーちゃん」様、果たしてご期待に沿った返答になったでしょうか。それともピンボケになったでしょうか・・・。何か考えていたことに共鳴する部分があったらそれでよしとご勘弁ください。)

2011年6月20日月曜日

ゴシキドクダミ

当教会が位置する「大和郷」は、大正時代に広い宅地を持つモデル住宅街として分譲された。
300~400坪の敷地に草木や花が茂る広い庭、と言うのが魅力だ。
だが残念なことに殆んどの豪邸は高い塀を張り巡らして通りがかる人に素晴らしい庭を見せてはくれない。

だが教会の前庭は殆んどオープンな感じで開放されており、通りすがりの人が足を踏み入れることもたまにある。
庭木や花の手入れをしていると通りがかりの知らない人が声をかけてくることもある。

またご近所さんとの会話のネタにもなる。

先日道路に面している部分に咲いている赤い色の斑が入ったドクダミでひとしきり話が咲いた。「買ったのか。」
「もとから咲いているのか。」
「何ていう名前なんだ。」
と言ったような会話だった。


こちらは植物の名前はからっきしだめなので、買ったもので、建替えの間は裏の方に放り出しておいたものをまた植え直したら、こんなに増え広がったのだ、と言うようなことを話した。

その会話から暫く経った今日、その斑入りのドクダミの名前が載っていたよ、と新聞の切抜きを持ってきてくださった。

その部分を引用すると、
花だけでなく、品種によって葉も楽しめるドクダミである。ゴシキドクダミという日本産のドクダミは赤やクリーム色に斑(ふ)入りの葉を変化させるのが欧米で人気となり、「カメレオン」の異名で広がった。地味ながら海外にもファンをもつ日本のスーパー雑草である。

何と購入したものなので海外のものかと思っていたら、日本産であるらしい。
ゴシキドクダミが「カメレオン」か。
何か名前の通り変身だなー。

帰りしなにそのご婦人、「白い十字の花だから教会にぴったりよねー」と言ってくれた。
なるほどねー。
持って来てくれた毎日新聞の「余録」コラムの最後にはこの俳句が紹介されていた。
どくだみや真昼の闇に白十字 川端茅舎
(※毎日新聞『余禄』、6月14日)

2011年6月18日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

6月19日 午前10時30分

朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 4:1-31
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 4:6
説 教 題 「アバ、父と呼ぶ御子の御霊」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(61)
ガラテヤ人への手紙(49)
・4:1-7 子であり、相続人である

2011年6月16日木曜日

生きる意味:柳澤桂子

柳澤桂子の「いのちの日記ーー神の前に、神とともに、神なしに生きる」(小学館、2005)を読み終えた。
その感想を書こうと思う。

柳澤桂子(ウィキ)の名前は耳に入っていたが、ついぞちゃんと読んだことはなかった。
新聞コラムでも度々お目にかかったはずだが、記憶に残るような読み方はしていなかったらしい。

実はこの本を求めて読んだわけではなかった。
読みたかったのは「いのちと放射能」の方であった。

3.11原発事故後ネットで色々読む中、あるブログ記事「毎日新聞が『脱原発』へ転換&柳澤桂子『いのちと放射能』」(気まぐれな日々)でこの本が紹介されていたので読みたくなったのだ。

その後暫く経ってようやく近くの図書館に仮予約を入れてみたら、案の定先に予約している人が四人もいた。で、この本はあきらめ、同著者の他の本を検索しているうちに興味を引いたのが「いのちの日記」であった。
もちろん目を引いたのは副題の「神の前に、神とともに、神なしに生きる」だった。彼女の宗教観、信仰観については全く知識がなかったのでミステリアスに響いたのだった。迂闊にもその副題がディートリック・ボンヘッファーからの引用だとは本を読むまで気が付かなかった。

まえがきに「しかし、私の半生を貫いて宗教観を述べた個人的“通史”といえるものは、本書がはじめてである。」とあるように、主に病の中を通して探索、思索した「宗教・信仰」の履歴と言える。

そのすぐ後「科学と宗教は、ものごとの両極端にあるようにいわれるが、私はそうではないと思っている。決して別のものではない。宗教も科学と同じように、人間の脳の中の営みである。いずれ科学がすべてをあきらかにするであろう。」と書かれているように、人類が達した宗教的叡智を科学的知見と紡ぎ合わせながら書き綴っていく。

引き続く病の中で柳澤さんは元薬師寺管長の橋本凝胤師の「人間の生きがいとは何か」を手にして読み始める。その時の『神秘体験』をこう綴っている。
 白く浮かび上がった障子を眺めていた私は、突然明るい炎に包まれた。熱くはなかった。ぐるぐると渦巻いて、一瞬意識がなくなった。気がついてみると、それまでの惨めな気持ちは打ち払われ、目の前に光り輝く一本の道が見える。
私は何か大きなものにふわりと柔らかく抱きかかえられるのを感じた。その道はどこへ行くのか分からなかったが、それを進めばよいことだけははっきりわかった。
しかし柳澤さんはこの神秘体験を仏教でも他の宗教的伝統でもなく、科学的な枠組みで説明しようとする。
 一般に、動物が強いストレスにさらされたときに、脳内快感物質が出るということは十分に考えられることである。たくさんの快感物質が出たときに、岸本氏の挙げているような感覚が生じても不思議ではない。神経の過度の緊張は、火となって感じられる可能性がある。
従って、「神秘体験」は、神秘ではなく、科学で十分に説明のつく現象であろうと私は考える。いわゆる宗教的な奇蹟体験の事例についても、おなじようなことが考えられる。
しかし柳澤さんの探求は病の進行とともに深くなっていく。
それは「教会の日曜礼拝に行って、牧師さんのお話を聞くような宗教」でも、「法事や年中行事で仏壇やお墓にお経をあげていただけば気がすむような宗教」でもなく、「深い宗教」であり、これは個人的に思索、探索するしかないと結論なさった。

そして手にしたのがエックハルトの「神の慰めの書」や暁烏敏(あけがらすはや)の「歎異抄講話」だったという。

柳澤さんの探索はさらに「般若心経」や深層心理学を経て「リアリティー」を一元的に捉える「心」の構造、宗教的に言えば「悟り」へと進む。 それをこんな風に表現している。

 宗教学では、このように信仰が進化すると言う考えは否定されているようだが、生物学的、進化学的に見ると、この仮説は捨てがたいものである。私自身は、人格神や特定宗派の教義にこだわらない信仰の形がありうると信じている。
しかし、アリエティやウィルバーが述べているように、私たちは「一次過程」の認識にもどるのではない。「二次過程」の認識を超越して、よりスピリチュアル(霊的)な精神作用を生み出す「三次過程」の認識に進化しなければならない。
もはや特定の宗派や教祖に頼っても必ずしも救いが得られるわけではない・・・・・・そんな“神なき時代”において、「悟り」という至高体験を得られる境地にたどり着くためには、私たち自身の力で、自らの心を耕し続けるしかない。たとえば読書をし、思索を深め、音楽や絵画などの優れた芸術作品に数多く触れることも大切だろう。
このような思索の流れの中で柳澤さんはボンヘッファーに出会い、「神なしの信仰のありよう」を彼の著作の中で共感を持って取り入れるようになる。
副題の「神の前に、神とともに、神なしに生きる」という部分を『獄中書簡集』の中から紹介している。
道徳学的・政治学的・自然学的な作業仮説としての神は、廃棄され、克服された。だが、哲学的・宗教的な作業仮説としての神も同様だ(フォイエルバッハ!)。これらの作業仮説を倒れるにまかせ、あるいは、とにかく可能な限り広くこれらを排除することは、知的誠実さの一つなのだ。(アンダーラインは筆者)
 これを柳澤さんはボンヘッファーが、「苦しみぬいて、イエスから脱出した。」と捉えている。そしてこうまとめている。
 再奪還されたボンヘッファーの内なる神は、苛烈な運命に翻弄される我が身の無力さを許し、不運につきまとう嘆き、呪い、絶望から救ってくれたにちがいない。内なる神からの癒し・救済によって、罪悪感と悔恨に満ちた自分を認め、許すすべを身につけること。そして得られる、病や老いや死などの運命と向かい合い、穏やかに折り合いをつけて生きていくための、こころの成熟。
それは、限りあるいのちを生きるものにとって、最善の知恵なのかもしれない。絶対神に依存しないで、おのれの心の中に、自分を救い、自分を許し、いのちの再生を果たしてくれる存在を見出した偉大なる思索。ボンヘッファーの逆説を、私はそういうふうに理解したい。(アンダーラインは筆者)
 筆者の感覚ではこれはやはり柳澤さんの「神なき時代」を生きる者のための「最善の知恵」としての「スピリチュアリティー」の形なのだと思う。そのような形にボンヘッファーの非常にコントロバーシャルな一節を多少強引に解釈したものと考える。
ボンヘッファー解釈としては面白い部分もあるが、彼の思想全体の中で実証するのはかなり困難だというのが筆者の印象である。
(彼の獄中書簡はそれまでの神学的著作と違いかなりオープンな、解釈が多様な思索の発露であることは確かだ。しかしだからと言ってボンヘッファーが獄中という極限状況の中で柳澤さんの言うような「イエスから抜け出る」ほどの離れ業をやってのけたとは筆者には想像つかない。)


柳澤さんの「深い宗教」は、以前取り上げた高橋哲哉氏他の『殉教と殉国と信仰と』に関して述べた記事(これやこれやこれ)でも感じたことだが、大衆の宗教的必要をカバーする既成宗教とは距離を置いた、個人的に信仰のあり方を掘り下げ、純化しようとする「知識人の宗教的アプローチ」に通じているように思う。
筆者の勘では「非宗教的な信仰」の模索は今後より広く浸透していくだろうが、大衆的なというか既成宗教はそれと並行して維持されていくものと予想している。

とまあ引用が多く感想は少なかったが、興味深く読ませていただいたことは確かだ。