2013年7月31日水曜日

(4)ジョン・ウォルトン、創世記1章

日本では殆んど話題にもならないが(その手の団体には申し訳ないが)、北米福音派では創世記1-2章の解釈を巡って結構盛んに論争がなされている。

「創造論」対「進化論」のような従来の対立構図に代わって、最近は「神論的進化説」みたいなものが大分出てきている。

この手の代表的なシンクタンクがBiologosだ。
今はやめてしまったが創立に貢献したのが「ゲノムと聖書」の著者、フランシス・コリンズだ。


コリンズのこの本に関しては当ブログでも記事にしている。これやこれ。

そのバイオ・ロゴス財団のサイトには筆者が注目してきたN.T.ライト教授も色々顔を出している。

その他にもホィートン大学の旧約学教授、ジョン・ウォルトンも貢献している。ここ

これでやっとイントロ(前置き)が出来た。

要するに何が言いたかったかと言うと、ジョン・ウォルトンの
The Lost World of Genesis One
をやっと今日入手した。アマゾン日本

実は筆者も関わるN.T.ライト・セミナーの第2回N.T.ライト・セミナーで、ジョン・ウォルトンが指摘する「創造記述の背景には神殿がある」と言う、旧約聖書学では今や常識となりつつある「解釈フレーム」が、基調講演者の鎌野直人氏によって語られる運びとなり、そのリスポンデントである筆者(旧約聖書学の素人)が何とか一夜漬けでもカバーしておかなければ、と注文した本なのである。

あー長ったらしい文章になってしまった。失礼。

まっしかし当の鎌野氏によると、この本はあくまで入門で、Jon D. Levensonを読まないとダメらしい。

と言うことで、また彼の本を注文したところ。

あー、やれやれ。読む本が増えて大変だ。

もう明日から8月だ。読書の夏。

(5)今「頭にあること」をメモ

昨日は某キリスト教出版社で編集をしているFさんが主宰する読書会に出席。

毎月1回のペースでやっている。
過去にもこのブログで何回か取上げた。

昨晩は夏休み前と言うことで、早めに切り上げ、その後夕食を共にした。
参加者、筆者も含めて8名。

今読んでいる本は、チャールズ・リングマの『キャッチ・ザ・ウィンド』


ざっくり言うと、「教会刷新」についての本だ。
Changeと言う語が毎章タイトルに出てくる(全9章中8章)。

オランダ出身の方なので英語が母語ではない。
時折分かりにくい言い回しに遭遇し、皆でどう言う意味かを議論する。

昨日は第7章、The Vision For Change、の後半。
(念のため。英語の原書読書会ではない。主宰者のFさんが事前に訳して配布する。)

毎回思うのだが、社会学を結構読んでいる著者なので、そちら方面から来る教会や聖書への洞察は時に鋭いものがある。

しかし、「あるべき教会」の姿を(新約)聖書から提示しようと言う時に、しばしば著者にとって「こうあるべき」と言うフレームに合うように聖書箇所が抽出され、またそのモデルに合う様に解釈される傾向がある。(その点釈義的に物足りない感じを度々抱いてしまう。)

特に問題と感じるのは「制度的教会(institutional, structural)」をかなり固定的に捉える傾向があることだろうか。

「制度的教会」の問題点を指摘しようとする余り、たとえ理想とする「神の民」(すべての信徒が聖霊の賜物で相互に仕え合い、社会に対して開かれ奉仕できるような共同体)であっても、institutional, structuralな問題(例えば『人間関係に普遍的に絡みつく力・支配の問題』)が避け得ないことを見落としがちな印象を受ける。

ちょっと脱線するかもしれないが、リングマにとって「制度的教会」の重要な一側面である「職制」に関し、パウロの牧会書簡について挿入でこうコメントしている。
ただし牧会書簡を除く。それらは二、三世紀の特徴になっていった制度化の強調をすでに反映している。
ここで話題が所謂パウロ書簡の高等批評問題に脱線(でもないけど)。(擬似パウロ書簡参照)
参加者の多くは「福音派」で育っていて余りこの問題に慣れていない・・・云々みたいな話が結構続いた。
で新約聖書学を専攻しているメンバーによるミニ・レクチャーがなされた。

リングマは「より平準化した人間関係を示唆する教会」モデルを新約聖書から見ようとしているためこのような挿入コメントを付けて(牧会書簡を除外して)「新約聖書のモデル」としたいのだろうと思う。

しかし下手に首を突っ込むと「新約聖書正典問題」に入り込むことになるので挿入コメントに留めてそれ以上の言及を避けたのだろう。

ただこの「制度化(職制化)された教会」の問題を考えるには、牧会書簡の高等批評問題は避けられないのではないだろうか。

高等批評で「疑似パウロ」性を判定する「規準」が、牧会書簡の内容が「教会の制度化」を反映している、という見方がその一つだからだ。

福音派も「高等批評」に対してはアレルギーを持ってきたので、なかなかリングマが目指そうとしている「教会像」を取上げるにはこの点でも難しい面があるかもしれない。

ただ正典論や聖書解釈論等複雑な問題にも絡むことになるかもしれないが、リングマの「聖霊の賜物を根拠とした自立した信徒たちによる教会」、即ち彼が新約聖書から取り出そうとしている『ピープル・エンパワーメント』というのは面白い「教会刷新」アイデアではなかろうか、と思っている。

2013年7月27日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

7月28日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ピレモンへの手紙 1-25
説 教 題 「私の心そのもの」
説 教 者 小嶋崇 牧師

《講解メモ》
パウロ書簡の学び(111)
コロサイ・ピレモン(14)

(4)「カトリックと聖書」④

何かのろのろとした連載ですが、ご寛容ください。

『信仰年』ーー聖書を取り戻した公会議  (2013年6月)「聖書を敬遠していた教会」部分二回目の引用です。
(この前の部分は第二バチカン公会議前は信徒には聖書を勧めることは殆んどなかったことが述べられました。)
 なぜでしょうか。その背景には、聖書を強調するプロテスタントへの対抗意識がありました。中世のある時期、カトリック教会は聖職の売買などの腐敗や誤っ た教えがまん延し、恥ずべき状況におちいっていました。それを批判して立ち上がったルターら改革者たちは、教会当局と論争する中で、聖書に拠りどころを求めました。キリスト教の真理は、誤りにおちいった教会の指導者たちの教えの中にではなく、神のことばである聖書の中にある、というわけです。そこから、 「聖書のみ」を掲げるプロテスタントと、教皇たちの教えや過去の公会議の決定、その他祈りや典礼なども含めた「聖伝」との二本立て、つまり「聖書と聖伝」 を主張するカトリックとの立場の違いが鮮明になりました。
「カトリックの信徒が余り聖書を読む習慣がないまま来た」歴史的背景が述べられ始めます。
そしてその主要因がプロテスタント宗教改革に求められるだろうことを念頭に説き起こされます。

カトリックの「聖書と聖伝」と言う二つの並行する権威(厳密に言えば聖書を解釈する「教皇」「公会議」の具体的教導権が優先することになるだろうと思われますが)を取る立場に対し、プロテスタントは「聖書」だけに権威を一本化した、その立場の相違から説明が試みられます。

このブログの読者はプロテスタントが殆んどだと想定しますが、「聖書」と「聖伝」については余りご存じないのではないかと思います。
「聖伝」について、ここでまたCatholic Answersに登場して頂きましょう。
Sacred or apostolic tradition consists of the teachings that the apostles passed on orally through their preaching. These teachings largely (perhaps entirely) overlap with those contained in Scripture, but the mode of their transmission is different.
  They have been handed down and entrusted to the Church. It is necessary that Christians believe in and follow this tradition as well as the Bible (Luke 10:16). The truth of the faith has been given primarily to the leaders of the Church (Eph. 3:5), who, with Christ, form the foundation of the Church (Eph. 2:20).


 ここで目に付くのは、①私たちが手にする「本としての聖書」に先行して「口伝で伝承された教え」が存在したこと、②その「使徒的伝承」が主に教会指導者たちに委ねられた、とする理解です。

 つまり「聖書と言う本」が権威化する前に既に教会は存在し、使徒たちの教えを伝えてきた、と言う認識です。

 同様の認識は当然ながら「正教会」にも見られます。
 聖書という神の啓示の書は、「聖伝」の中にあります。聖書は「聖伝」の一部です。「聖伝」を、聖書に書かれていないその他の記録や伝承と見なしてはいけま せん。聖書と「聖伝」という二本の柱があるのではなく、「聖伝」という一本の柱の中に聖書は含まれているのです。聖書は「聖伝」から生み出されたもので す。これとこれが聖書である、と決めたのは「聖伝」です。いくつもの文書の中から聖書と認めた(「正典化」と言う)のは教会です。聖書が先にあって教会が 生まれたのではありません。しかしその聖書は、「聖伝」の中で最も重要であり、最も大きい位置付けがなされます。「聖伝」が生み出した聖書は、その後の 「聖伝」を基礎づけるものとなりました。つまり、ある教えや考えが「聖伝」として正しいか否かは、聖書という規準に基づいて、聖神の導きによって、合議の上、判断されます。(日本正教会「聖伝」)
(歴史的に教会が聖書に先行するという事実と、「権威」として聖書(と公会議)が「聖伝」に対しても機能しうると言う弁証法的関係が述べられてバランスされ ているこの定義は、もともとの「伝統的な解釈」ではなく、もしかしたら多少近代化(プロテスタント化?)されたものかもしれませんが・・・。何はともあれ 正教会の「聖書観」はこのテーマの範囲を超えていますのであくまでサイドノート。)

さて引用の続きです。
 「聖書のみ」は聖書の自国語への翻訳とも相まって、人々の手に聖書を取り戻し、広くキリスト教の本質への意識を覚醒させ、教会の浄化にも大きな力を発揮 しました。しかしその一方で、聖書のさまざまな(中には新奇な)解釈が出現し、その対立がそのまま教会の分裂につながったりするなど、弊害もありました。 それゆえ、カトリック側には聖書を強調することへの警戒感が強かったのです。
 しかしその警戒感から聖書を敬遠し過ぎたため、近代においてはカトリックの聖書研究はプロテスタントに大幅に遅れをとるとともに、カトリック信者はほとんど聖書を見たことがないという、嘆かわしい状況になっていたのです。
ここに見る「人々の手に聖書を取り戻し」たと言うプロテスタント宗教改革の貢献は、カトリック教会が現在進めている刷新運動の一つである「人々=信徒も教会の大切な要素である」と言う教会観から見た時に言えるものなのではないかと思います。

 プロテスタントの「万人祭司」や「個人的聖書解釈権」ほどラディカルなものではないにしても、教導権に対しある意味で「平準化」の方向が出てくることが予感されなくもない。

 ただプロテスタントの負の遺産である「解釈の多元化による果てしない分裂」の状況を招くことだけは避けたいでしょうから、「信徒の手に取り戻された聖書」と、その「解釈の問題」についてはカトリック教会はきっちり区別して対応することと思われます。

(※次回に続く)

2013年7月25日木曜日

まな板削り

標準的な大きさと言うのだろうか、360(長さ)・210(巾)・30(厚さ)、のまな板を削ってくれるよう頼まれた。


一応柾目の桧のようである。


木目は僅かに途中で山のようになっている。
(片流れで行ってないのでちょっと面倒)。


それほどへこんではいないと思い削りだした。

2~3ミリ削ってもこんな感じである。
思った以上にへこみがある。


とにかくほぼ全体が平面になるまで削り込んだ。
その成果の鉋屑。


僅かに削り残しがあるが、これまでなくそうとすると、もう1~2ミリ削り込まなければならない。
しかしもう裏側を含め4ミリ近く削っている。


残念だがここまでにしておこう。(妥協)

と言う訳で面取りをして終了。

一汗かいた夏の午後。

2013年7月24日水曜日

(5)福音派のパラダイム・シフト⑦

さて、前回から「個人的所見」を述べ始めたが、一回で終わらすことが出来なかった。

今回この「個人的所見」の続きを読んでくださる読者がいるとすれば、その方は余程の問題意識の持ち主かもしれない。

予め断っておくが、難易度(5)には幾つか意味があってその一つが「書いてる先が見えないことを書く場合」と定義しておいたが、今回はまさにそんな記事だ。

途中で筆者と一緒に「神学の迷路」に迷い込むことにならなければ良いが・・・。

確認事項(2)
パラダイム・シフトの方向が、『回心体験』を個人主義的・縮小化された「救済」から、教会論的な側面を回復し、ホリスティックな「救済」へと向かっている、と言うことについて

念のためゴードン・T・スミスが「パラダイム・シフト」後の「回心と救い」の輪郭をスケッチしている文章を再掲する。

回心とは

conversion is a complex experience by which a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come. This experience is mediated by the church and thus necessarily includes baptism as a rite of initiation. The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques. (下線は筆者)
ここから拾えるポイントは幾つかあるが、今回は3点に絞ろう。

①提示される福音の性格
The power or energy of this experience is one of immediate encounter with the risen Christ—rather than principles or laws—and this experience is choreographed by the Spirit rather than evangelistic techniques.
福音の提示は、「個人的罪からの赦し」(の方便)としての「十字架のキリスト」から、復活したメシア・主イエスを宣言することへとシフトされる。

 この辺のことは、スコット・マクナイト「福音の再発見」を読んで頂くのが良いと思うが・・・。

 19-20世紀にかけて制度化されたリバイバリズムにおける福音は、「救いの方法」(『四つの法則』の例のように「簡略化された救済論」)の提示になってしまっていて、本来の使徒的福音である「十字架に死んで復活し、今や『メシア』とも『主』ともされたイエスを告知する」行為であることから大分離れてしまった。

 パラダイム・シフトはその意味で使徒的福音提示の元々のフォーカスである「主イエス・キリスト」に原点回帰することを意味するだろう。
(リバイバリズムにおいては、救われる『私』にフォーカスが当たってしまっていた。)

②「終末の神の民である教会」へと加えられる、と言う共同体的側面の回復
a person is initiated into a common life with the people of God who together seek the in-breaking of the kingdom, both in this life and in the world to come.
 リバイバリズムにおいては「回心体験」は「個人的罪の赦しの体験」に留まってしまい、教会に加わることは、回心後のまるでオプショナルな扱いにされていた観があった。

 また別の角度から言えば、このパラダイム・シフト後の「回心」には、イスラエルのストーリーの回復がある。
 リバイバリズムにおける「救い」は、人々が「証し」として表現する時、それはしばしば「個人史的救済」ストーリーの域を出ない。
 しかしパラダイム・シフトが目指すのは、福音のフォーカスである「主イエス・キリスト」が旧約聖書のストーリーを完結する、成就するお方として提示され、そのお方を信ずることを通して、「新しくされた(renewed)神の民」の一員とされる「回心体験」なのだ。
 
 まとめて言えば、「個人的」に対して「共同体的(教会)」側面、「非歴史的(抽象的)」に対して「歴史的(旧約から新約へと更新された『神の民」)」側面が、新しいパラダイム・シフトのもとでの「回心」に求められる。

③「救済論」偏重によって脇に追いやられてしまった「教会論」の回復
 リバイバリズムは「バプテスマ典礼による新生(baptismal regeneration)」を変えてしまった。
 「救い」は「罪人の祈り」を祈ることで成立し、洗礼と言う「教会」の典礼から切り離されてしまった。

Evangelical Sacraments: Supporting Cast for the Sinner's Prayer

This attitude is tellingly reflected in common evangelical sacramental practice. Many evangelical traditions have managed to strip away even the ecclesial nature of these ecclesial signs in pursuing salvation evangelical style. They are now by and large seen in terms of evangelicalism's central speech-act: the "Sinner's Prayer." Reciting the Sinner's Prayer has generally taken the place of baptism as both the decisive moment of salvation and the normative rite of initiation (conveniently, as one can do it by oneself, anytime and anywhere: at a worship service, at an evangelistic rally, or even privately before a television or Gideon Bible).
Telford Work, "Reordering Salvation"
さて、まだ「神の国」と言う「終末的論」的側面の回復も一言するべきだろうが、このパラダイム・シフトに絡んでくる神学者たちは、スミスが列挙するよりはるかに多くバラエティーに富んでいることだけ指摘して終わろう。
(まだスコット・マクナイトやテルフォード・ワークに言及しただけだが・・・。)

 メソジストの神学者であるビリー・エイブラハム(ちょうど彼の「はじめてのウェスレー」が邦訳出版されたところだ)が、The Logic of Evangelism、で「回心」を次のように定義している。
What I am proposing calls for a fundamental reorientation in our thinking about Christian initiation. We begin by asking what it is to be initiated into the rule of God, which has been inaugurated in Jesus of Nazareth and in the work of the Holy Spirit at Pentecost and thereafter. From within this horizon we then proceed to articulate what it is to be initiated into the community of the kingdom, that is, the church. Logically speaking, this takes the primary focus away from external admittance into a particular organization and relocates it in the sweep of God's action in Christ and in the Holy Spirit. (P.98)
簡単に言えば、「回心」とは「(一地方)教会」と言う組織の一員となる(イニシエーション)前に、先ず「神の国」に入れられる、と言う事がある。

 神のご支配、神の救いのストーリーと言う大きな文脈の中に、伝道の働きがあり、教会と言う具体的文脈の中で人は回心(イニシエーション)を通して「神の民」である教会に加わっていくのだ、と言えるだろう。
(エイブラハムの文章はかなり密だが、先に挙げたスミスの文章よりも首尾一貫しているし、「回心」をめぐる神学的トピックに対し、より明確な展望・輪郭を示していると思う。)

 

2013年7月23日火曜日

久し振りに ゲスト・スピーカー

先ず最初に。

8月11日(日)の巣鴨聖泉キリスト教会での
主日礼拝はお休みです!!

その休みを用いて「『福音の再発見』ファン感謝デー・関西編(神戸三宮)」に出かけてまいります。

これは午後2-4時の集まりですが、朝の礼拝は、この集まりのホストである《ミーちゃんはーちゃん》さんが集う『芦屋恵キリスト集会』に出ています。

・聖餐式(礼拝)(10:20~11:00)
・聖書のお話(11:15~12:00)

こちらの「聖書のお話」の方で《スペシャルゲスト》としてお話しすることになっています。
ただのゲストではなく、その上にスペシャルまで付けて頂いて恐縮です。

テーマは「決まりましたら・・・」となっていますが、「★いま★イエスに従うとは」みたいなことを話そうかと思っています。

と言うのもリチャード・ボウカム「イエス入門」が出て、これは一般向けの「キリスト教入門」の好著だと思い、これをテキストにして『イエスとは誰か』というクラスを企画しているところなのです。

同時にボウカム「イエス入門」は、キリスト者にとっても「イエス・キリストの弟子となる」ことに欠かせない「史的イエス」の問題への良き入門書でもあります。

そう言う訳で、「★いま★イエスに従うとは」と言うテーマは、筆者とは教会史的背景の異なる「ブレザレン」系の『集会』であっても有益なものではないかと思っています。

読者の皆さんの中に《芦屋》付近に住んでいる方があれば、どうぞこの集会への出席をお勧めいただければ幸いです。