2014年4月30日水曜日

(1)「一区切り」から一ヵ月経って

「一区切り」を書いたのは3月30日だから、ちょうど一ヶ月経ったわけである。
これからはまた一旦整理して、教会隣にある工房を足がかりにして「地域社会」との接点を探っていくことになるだろう。
と報告し、何やら「新しい構想」を抱いてるらしいことまでは書いたのだった。
この時代、この場所で、どのように宣教を展開して行けばいいのだろうか。
現代的宣教の文脈について考えている。
大きい文脈では「宣教」と言うことになるのだが、今目論んでいるのは一見「伝道」とは見えない「学習会」と言うインターフェイスだ。
とキーワードは「学習会」であることは示唆しておいた。

あれから具体的プランに落としていくため色々考えていたのであるが、「学習会」の発射台としてやはりウェッブサイトを作ることから先ず取り掛かろう、と思ったしだいである。

そしてそうなるとやはりブログ、と言うことになる。
「学習会」が看板ではちょっとパッとしない。

いくら最初は「閑古鳥」と言えど、せめてウェッブサイト名だけでも何とかならんか、と頭をひねって作ったのが、
宗教と社会 小ロキアム@巣鴨
と言う名前の「共同学習会」なのです。

コロキアム、と言うのはちょっと大げさなので、小さなコロキアムと言うことで「小ロキアム」にしました。

コ=ともに
ロキアム/ロキウム=しゃべる
まっ討論しながら学習する、見たいなコンセプトです。

あっそうそうこれがリンクです。

本当はアドレスを英語の、Religion and Society、としたかったのですが、どうも上手く取得できなかったので日本語ローマ字表記でやりました。

まずは「開始の挨拶」を投稿しました。
そしてこのサイトではもっと英語でも発信していく予定なので、An Introductionと英語でも投稿しました。
内容的には重なりますが、やはり書き終わると微妙に違う。


お時間ある時ご笑覧ください。 
 

2014年4月27日日曜日

(5)教会と国家 宮田光雄講演会

キリスト教系出版社である、新教出版社の創立70周年を記念する講演会へ行ってきた。
 
第1回  宮田光雄氏
「バルメン宣言の政治学」 バルメン宣言80周年を覚えて
日時:4月26日(土)午後2時から4時まで
会場:信濃町教会
 
最近突然強烈に眠気が襲うことがあり、この午後も1時間半ぶっ通しで語る講演者の話を聞くのは時に辛いものがあった。
 
しかし荒井献講演会の時もそうだったのですが、宮田氏も今に至るまで直に聞いたことがなかったので、今回行ってみたわけです。

冒頭、本当は(ユダヤ人である)シャガールの「十字架のイエス」ステインド・グラスについて話したかったのだが、バルメン宣言80周年と言うことでしゃべってくれと言う要請で(最初不本意であったが、そう言う事であれば既に勉強して知っていることでもあり、それほど準備に手間取ることもないか、と言うことで)今回の講演題になったのだ、と言うことでした。
 
用意された講演のアウトラインは、
1. ヴァイマル憲法からナチ憲法体制へ3.
2. ナチ宗教政策とドイツ教会闘争
3. バルメン宣言の神学的基本線
4. バルメン宣言の政治倫理
5. バルメン宣言と私たち
となっているように「現代的適用」は僅かに5で言及されただけであった。
 
時に涙声になりながらの「訴え」であったが、用意されたアウトラインにも『時代史的制約・・・』とあるように、「バルメン宣言の神学と(政治)倫理」をそのまま鍛え直して使っても、やはりかなり限界があるなーと思わされた。
 
今そのプリントに書き込んだメモを見ると、『4. バルメン宣言の政治倫理』 が一番書き込みが多い。
それで、以下はその書き込みを頼りにしながら二言、三言。

先ずプリントの方の「細かい点」まで紹介しておく。
4. バルメン宣言の政治倫理ーー第5テーゼの分析
巻頭引用聖句ーー国家の課題=機能的国家論ーー終末論的留保ーー拒絶命題=《全体国家》の拒否
(配られた資料にある) 『第5テーゼ』
 「神をおそれ、王を尊びなさい」(Ⅰペトロ2:17)
 国家は、教会もその中にあるいまだ救われないこの世にあって、人間的な洞察と人間的な能力の量りに従って、暴力の威嚇と行使をなしつつ、法と平和とのために配慮するという課題を、神の定めによって与えられているということを、聖書はわれわれに語る。教会は、このような神の定めの恩恵を、神にたいする感謝と畏敬の中に承認する。教会は、神の国を、また神の戒めと義とを想起せしめ、そのことによって統治者と被治者との責任を想起せしめる。教会は、神がそれによって一切のものを支えたもう御言葉の力に信頼し、服従する。
 [拒絶命題・・・筆者]国家がその特別の委託をこえて、人間生活の唯一にして全体的な秩序となり、したがって教会の使命をも果たすべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。
 教会がその特別な委託をこえて、国家的正確、国家的課題、国家的価値を獲得し、そのことによってみずから国家の一機関となるべきであるとか、そのようなことが可能であるとかいうような誤った教えを、われわれは退ける。
メモ①機能的国家論
この文章を書くにあたってバルトと神学的綱引きをしていた人物がいた、とのことである。(ルーテル派の神学者であった、と説明していたと記憶する。)
 
粘りに粘って相手が根負けした隙を突いて、バルトは表面上は論戦相手の論法を容認したように見せて、「実」を取ったのだと言う。
それが「秩序」とされるべきところをバルトは「定め」に書き換えたのだと言う。
また「国家」を聖書から説く時の基本聖句であるロマ書13章1節ではなく、Ⅰペトロが採用されたのも、国家に対する服従を幾分かでも弱める効果を狙ったものらしい。(つまり「機能的」国家論とは限定的という意義。)
 
メモ②人間的な洞察と人間的な能力の量り
タテマエ上ではなく実際の国家をリアリズムで具体的に検証すること、ドイツ語ではsachlichkeit。
 
と以上2点だが(「えっ、そんなに少ないの」と言われそうだが・・・。)、確かルーテル派の「二つの神の国」議論の伝統よりも、バルトのような改革派神学の方が「抵抗権」的思想的基盤があって・・・みたいなことも言っていたような。
 
この辺はかなり昔話を聞いているような感じであった。
現在「憲法論議」がまた盛んになっているが、国民主権の民主主義の枠組から見ても、また「権力を分権して権力の集中を規制する」ような権力規定をするのが憲法である、と言うような基本的理念に照らすと、バルメン宣言時の「教会と国家」の神学的議論の枠組みでは最早ずれている、と言う認識から始めなければならないのではないか。
 
さらに言えば、まだまだ細かいところは議論できないが、「ユダヤ人問題」が発覚した時点で、「教会論」の問題で危機的な状況を迎えていた(ボンヘッファーはいち早く自覚的だった)と言える。
 
また、「人間的な洞察と人間的な能力の量り」 ・・・具体的な政治過程の検証、と言う課題からも神学は現実から遊離してしまう、具体的な政治の問題のリアリティーを追跡するよりも、「啓示」のコトバに篭ろうとする傾向がないだろうか、と思うのだ。
 
ボンヘッファーの神学的営為は非常に状況的な面があるが、未完の「倫理」で特徴付けられている「悪の装い」などは、システムとしての神学よりも、時に即した「神学的見極め」の大事さを物語るのではないだろうか。

どちらにしても「全体主義」の20世紀を経て、国家、権力、悪の問題の複雑さ、曖昧さ(ハンナ・アーレント「全体主義の起源」「イェルサレムのアイヒマン」)を歴史的に検証する作業は幾つもなされたわけだから、それらから学んでいくことも神学の仕事であろう。 

 

2014年4月26日土曜日

明日の礼拝案内

主日礼拝

2014年4月27日(日) 午前10時30分

朗読箇所 ヨナ書 3:1-10

説 教 題 「ニネベの悔い改め」
説 教 者 小嶋崇 牧師

ヨナ物語(3) 3章・・・悔い改めと思い直し

2014年4月25日金曜日

(5)映画と神学2 : レイルウェイ 運命の旅路

「ゼロ・グラビティ」から大分経ってしまった。

連載が1で頓挫してしまったか、とご心配かけた読者にはお詫び。

実は「見てから」と思ったが、けちな性分で新聞に載っていたこの映画の試写会に応募していたのだ。
が、(当然の如く)当たらなかった。

で、またも見ずして紹介することになりました。
「見ずして紹介する者は幸いなり」とは聖書のどこにも書いてありません。あしからず。


映画製作に至る経緯も紹介されている映画オフィシャルサイト へどうぞ。

しかしこの実話を基にしたと言う映画、またしても戦争の『傷跡』というものの執拗さを思う。

第二次世界大戦は1945年に終わった。
しかしその『傷跡』は至る所、ばら撒かれ、尾を引き、

もちろん忘れようとする力もあり、また忘れまいとする力もあり、拮抗している中で『普通の時間』は経過して行き、今2014年はある。

この映画は「赦しと和解」というキリスト教神学のテーマを持っている、と言うことで、Center For Public Christianity (音声ファイル)で映画評がなされている。

主人公が「戦争捕虜尋問」で通訳をした永瀬氏を追跡し、ついに面会して「あの時起こったこと」のあるがままの意味、戦争捕虜に対する強制労働という『殺人』を認めさせる。

二人は後に友人となり、死ぬまで交信を続けたと言う。

ナンキン・アウシュヴィッツ・ヒロシマ・オキナワ・シベリヤ・レイテ・アッツ・ツールレーキ

世界中に散らばる戦争の『傷跡』を物語るストーリーは、非人道的戦争を潜り抜けて、非人間化された人間が再生するために、今も執拗にその『傷跡』の存在の承認を求めて追いかけてくる。

そして何度でもそれに対峙して、認識して、可能な限りの和解をして、私たちは前へ向かって生き延びていくのだろう。

2014年4月24日木曜日

(4)英国はキリスト教国

 昨日「英語圏ブログ紹介⑫」で埋め込んでおいた、英国キャメロン首相のイースター・メッセージに反発の声が上がった模様だ。

 それを受けてキャメロン首相はChurch Timesに見解を提出した。
 先ず要旨を見てみよう。

 「世俗化した社会でこのような発言は不適切ではないか」、との意見に対し
I completely disagree. I believe we should be more confident about our status as a Christian country, more ambitious about expanding the role of faith-based organisations, and, frankly, more evangelical about a faith that compels us to get out there and make a difference to people's lives.
以下この要旨に沿って見解を展開している。

 特に゛政治的中立」に関して、
People who, instead, advocate some sort of secular neutrality fail to grasp the consequences of that neutrality, or the role that faith can play in helping people to have a moral code. Of course, faith is neither necessary nor sufficient for morality.
Many atheists and agnostics live by a moral code - and there are Christians who don't. But for people who do have a faith, that faith can be a guide or a helpful prod in the right direction - and, whether inspired by faith or not, that direction or moral code matters.
単に社会的安定を保つためではなく、社会改善と変革の力の源と見做している。
THIRD, greater confidence in our Christianity can also inspire a stronger belief that we can get out there and actually change people's lives, and improve both the spiritual, physical, and moral state of our country, and even the world.
この後自身の英国国教会の信徒としての信仰が名前だけ(ノミナル)ではないことをアッピールしている。

 このキャメロン首相の見解発表を受けて、カンタベリー大主教、ジャスティン・ウェルビーはキャメロン首相擁護のメッセージを発表した。

 「中世の異端審問の再来」のようなイメージをちらつかせる反対者たちに対し、ウェルビー大主教はモンティー・パイソンやイースター直後によくあるようなトンデモ話題を引き合いに出しながら極めて冷静に事態の推移を見ているようなコメントを出している。
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news. - See more at: http://www.archbishopofcanterbury.org/blog.php/20/a-christian-country#sthash.P4tWUg6h.dpuf
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news. - See more at: http://www.archbishopofcanterbury.org/blog.php/20/a-christian-country#sthash.P4tWUg6h.dpufIt's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news.
It's all quite baffling and at the same time quite encouraging. Christian faith is much more vulnerable to comfortable indifference than to hatred and opposition. It's also a variation on the normal "Sword and Grail discovered" stuff that seems to be a feature of Easter week news.
世俗化がより進んだヨーロッパで、そして声高な無神論者が人気を博す英国で、キャメロン首相が発した「英国はキリスト教国」メッセージは、普段は冷ややかにキリスト教に対している国民(の一部)に反発を起こしたことをむしろ歓迎しているかのようである。

 この雰囲気から言うと、昨日のジェームズ・クロスリーの分析はいささか表面的な印象とならざるを得ないのではないか。

2014年4月23日水曜日

(4)英語圏ブログ紹介⑫

今回ご紹介するブログは
Sheffield Biblical Studies


ジェームズ・クロスリーがブログ主だ。

まずは最近のポストからご紹介しよう。

この動画をご覧あれ。


現英国首相、キャメロンのイースター・メッセージだ。

キリストの名前を出しながら「隣人愛」をそれとなく話題にしたり、「アルファ・コース」と言うニッキー・ガンベル牧師が開発し今や全世界で用いられている伝道プログラムが服役者の更生に役立っていたり、貧困者や弱者救済など、宗教の社会的役割を支援する、と語っている。

宗教(キリスト教)と政治、と言えば北米の「大統領就任スピーチ」や他のスピーチでしばしば「God」に言及されることはよく知られていることだ。

クロスリーは歴代首相の政治的スピーチで「キリスト教」、特に「隣人愛の教え(欽定訳が用いられる!)」のようなものに言及されるのは、キャメロン首相に限ったことではなく、ほぼすべての首相がそうしてきた、と指摘している。David Camerons Latest Bible

最近40年の間ではマーガレット・サッチャー首相が特にそうだったと言う。
Thatcher was the most explicit and influential political user of the Bible among political leaders over the last 40 years.
よりあいまいな「アルファ・コース」も含め、キャメロン首相の聖書やキリスト教を動員するスピーチの狙いは、本来(福祉)国家がなすべき役割を、敬虔なキリスト者たちが肩代わりしてくれ、と言う信号だ、と分析している。

新約聖書学が本職ながら、現代政治の文脈でどのように聖書やキリスト教が用いられているのかを分析するジェームズ・クロスリーのような研究は、宗教社会学が専門とするところだが・・・。

とにかく大学で宗教/キリスト教を教えるとは、このような領域でもその学問的関連性(relevance)を発揮することを求められているのかもしれない。

※二つ目の動画はミスター・ビーンの保守政治家をパロディーにしたもの。相変わらず笑える。

2014年4月20日日曜日

(3)「イエスの死」歴史か、小説か・・・

 リチャード・ボウカム「イエス入門」でも言っていたなー、イエスはある意味永遠のアイコンだって・・・。

Killing Jesus: A Historyと言う本が現在ベストセラーNo.1だそうな。(著者たちのウェッブサイトによると、と言うことですが。)


 著者たちはどうも保守系のジャーナリストと(ゴーストライターではないが)歴史研究家の組み合わせのようだ。


 ケネディーとリンカーンで成功を収めたのでイエスにまで手を出したみたいだ。

 手厳しい書評が目につく。 
Indeed the authors used the same stylistic formula for their two previous books Killing Kennedy and Killing Lincoln. Both were bestsellers, and Killing Jesus is already number three on the New York Times bestsellers list. Why? Because they are fabulously easy to read: because there are good guys and bad guys, with very little in between; because there is lots of journalistically juicy, salacious gossip; and because, as with some historical fiction, you learn quite a bit about a particular era without having to think too much.

 このブロガーもかなり狭い範囲での指摘だが、ヒストリーとしてのレベルでは「かなりいい加減」、と言う判定だ。

 かように「歴史」というのは「動かせない過去」を扱いながら、それ(人物・事件)にピッタリ標的を当てることは大変に難しいものだ、と言うことだろう。

 (筆者の場合、ゴルフ練習所に初めて連れて行かれ、止まって動かないゴルフボールを打つことが予想に反して難しかったこととどこか似ている。)