2011年11月20日日曜日

言葉とポータビリティー

つい先日、誰かが

椹木 野衣 Noi Sawaragi@noieu

と言う方のツイートをリツイートしていたのが目に留まった。この方のプロフィールには
美術批評家です。昨年5月にツイッター開始、年末には終了していましたが、今年の5月を目前に震災モードで再開しました。埼玉県秩父市生まれ。(TLの景色を変えるため、頻繁にリムーヴ&再フォローします。「お気に入り」は「気になった」程度です。)
とある。

全然知らない方なのでその連続ツイートの内容がこの方の仕事とか生き方とか、そんなことにどう関わっているか知る由もないが、とにかく不特定他者の一人である筆者に響くものがあったので以下にその全文を掲載してみようと思う。(長くなるがあしからず。下線した部分が特に心に響いた部分です。)
先日、渋谷の喫茶店で編集者の方と話した。震災後、詩(のようなもの)の重要性が高まっているように思われる、と。実際、これまで詩にはほとんど関心がなかったにもかかわらず、心のどこかで確かにそう感じるのは、今が緊急時であり、破局的な災害下にあるからだろう。
原発事故直後もそうだったが、西に向かうため慌てて家をあとにするとき、一冊くらい本をと手にしたのは、意外にも詩(のようなもの)だった。少なくとも散文ではありえなかった。薄くて軽いという持ち運びやすさもあるが、何度でも繰り返し読めることと、最終的には暗記できるものがほしかった。
書物としては頁をめくるという共通性があったとしても、実際には詩は小説よりも遥かに絵や唄に近い。慣れ親しんだ詩の味わいは無時間的だ。そして暗記してしまえば、その人の精神の一部として血肉となる。そうなると、読んでいて新しい発見や展開などなくても全く構わない。むしろない方がよい。
僕はこのことを、子供に絵本を読み聞かせていたとき気付いた。子供は何度でも繰り返し同じお話を聞きたがる。最初は変化を嫌う子供に特有の危機回避の本能かなと思っていた。が、どうやらそうではないようだ。子供たちは次の場面に何が起こるかを驚くほど細部まで暗記し、それを楽しんでいる。
それは刺激や意外性を求める小説の楽しみとは全く違っている。むしろ、同じ感覚が体を通り抜ける快感を貯めている。そしてふとした時、絵本の言葉が形を変えて別の場所に現れる。子供たちは同じエネルギーを供給してもらい続けるために、繰り返し同じ絵本を読んでもらいたがっているかのようだ。
肝心なのは、読書の楽しみではなく、言葉を心に刻み、いつ、どこにでも持ち運べるようになることなのだ。小説にこれはなかなか望めない。が、詩や絵本には可能なこの性質が、災害や緊急時には、大きな意味を持つ。暗記してしまえば、その人がすべての財産を失ったとしても、詩の言葉は心に残る。
どのような暴力も、それを剥ぎ取ることはできない。たとえ電子化されても、タブレットを奪われれば何も残らない。が、暗記された言葉はその人が生き延びる限り、活きて残り続ける。このような詩の性質は、数多くの破局や戦乱をくぐり抜けてきた人類にとっては、きわめて重要な形式にちがいない。
震災後、どうも小説にあまり手が伸びないのは、震災で非日常が現実のものとなり、フィクションが力を失ったというより、小説という形式が根本的に災害下や緊急時から生まれたものではなく、平時の過ごし方、もっといえば「ヒマつぶし」を高度に洗練して探究する文学形式だからなのではないか。
そう考えてみると、日本の小説が、戦後という稀に見る「平時」に隆盛をむかえたのも、何だかわかるような気がする。他方、そういう時代に「詩」を詠むことにも、どこか無理はなかったか。かりに詩が緊急時の芸術なのだとしたら、平時の詩は避けがたく「超短編小説」化してしまう。
かつて、批評家として活動を始めた頃、僕がひどく「詩」というものに苛立ったのは、きっと、そのせいだったのだろう。……おっと、切りがない。仕事しなきゃ。(了)
この方の詩と小説の違いに関する文学論はさておく。
災害緊急時のような時に持参したいのは時間をかけて読みこなす小説よりも、何度でも読み返せるそして薄くて軽い詩集のようなものが「この一冊」となるのではないか、というのはそうかもしれない。
ただ文学作品の中でも詩や歌に普段から慣れ親しんでいる人のことだと思うが。

暗記できる長さの言葉、そして必要な時にすぐに思い出せる心に刻まれた言葉、突き詰めて言えば本と言う外形で持ち運びしなくても良いほど心に残っている言葉、と言うことになるのだろう。

なぜこのような文章が心に響いたのかと言うと、最近少し心がしんどい時があり、そんな時心に浮かんでくるのは賛美歌の一節とか、よく覚えている聖書箇所とかなのである。
もちろんその時々に応じた聖書の箇所を開くと言うこともできる。例えば詩篇の中には作者の状況に応じて幾つかの種類に分類することが出来る。

でも「その時」咄嗟に思い出す言葉が「その時」の心を整理したり、励ましたり、慰めたりするわけである。
だから「ああ、あの言葉は確か聖書のあの辺にあった」とやおら聖書を取り出して探し出すのとでは「言葉が働くモード」が違うのだと思う。
やはり暗記している言葉、心に刻みつけた言葉を持っていることは自分の心の状況を一瞬にして一つの方向に向けることが出来る「身につけたわざ」のようなものだと思う。

そう思ってみるともう少し備蓄が必要かな、と思う。

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