先日あった牧師たちのZOOM読書会でのことを記しておく。
取り上げられた本は牧師による説教集のようだ。
「ようだ」というのは、筆者はオブザーバーのような参加なので購入もしていなく読んでもいないので。当日は用意された発表者の感想なような文章を事前に読んで参加するだけ。いわば気楽な立場。
イエスの復活の記事(ヨハネ福音書20:24-29)からの説教だが、次のような部分がある。(引用はこの発表者のものではなく、ネットにある書評から。)
もう一つのショックは「傷によって共に生きる」(本書24頁以下)の中で語られている「傷」に対する捉え方である。聖書個所はイエスが疑い深いトマスに現れ、ご自身の傷口を示した個所である。この個所から北口牧師は語る。
「わたしたち誰もが傷を負っているのです。そしてその傷は、よみがえられたイエスに傷が残っているように、癒えても残りつづけます。誰もが生きる中で傷を負い、残る傷がある点で、わたしたちは兄弟姉妹であり、家族であります。」(30頁)。「キリストが傷を残してよみがえられたのは、それぞれに傷を持つわたしたちを『傷によって共に生きる』という生き方に招くためだったのではないでしょうか。わたしたちには傷があります。なら、その傷によって共に生きることはできないのでしょうか。傷によって傷付け合うのではなく、それに対して思いやりをもって、愛し合うことはできないのでしょうか。決してそうではないと信じています。」(31頁)とある。
この部分もそうだが説教集のタイトルにもある「傷」ということに一番の焦点が当たっていることが分かる。
さて、他の牧師たちが一通り感想を述べた後、筆者もコメントを求められた。
実はそうは言わなかったがこの著書についてはある程度耳にしていた。著者のこともそれなりに耳にしていたので本の内容も推察していた。
発表者の感想に次のような一文があった。
著者は自分の弱さを徹底的にさらけ出して語っている。それがこの書の魅力だが、わたしの○○年の牧師としての歩みは、あまり自分のことを語らなかったように思う。聖書が何を語ろうとしているのか、それを今生きているわたしたちはどのように受け止め、生きていけば良いのかを語ってきた。
この「自分の弱さを徹底的にさらけ出して語っている」という部分に自分(発表者)とは対照的な説教アプローチであることを感じ取っていた。
筆者のコメントは、まずこの点についてのものだった。
つまり「自分を語る」という点。
筆者が見るところ、この「自分を語る」傾向は神学にも出てきているように思う。何かを客観的に語るだけでは説得力がないように感じられ、自伝的なエピソードも交えて語ることで、信憑性が増すように思う傾向である。
英語で言えば「lived experience」。要は体験された真理が真正性の証明と受け取られるような傾向である。
近・現代の聖書解釈の流れにおいても、解放の神学やフェミニスト神学のように、解釈者自身の体験をテキストに持ち込むようなアプローチが有力になっているが、その背景には「真正な自身(authentic self)」を追い求める思想的背景(その時には用いなかったが大雑把に言えばロマンティシズム的背景、現代では「expressive individualism」文化)があるのではないか、とコメントした。
次に筆者がコメントしたのは「イエスの復活」について。
この説教においてイエスの復活は全体として後景に退き、ただ復活のキリストの「傷跡」が抽出され、説教者自身の「傷」と結びつけられ、それがメッセージとなって聴衆も抱えているだろう「傷」体験と響き合うよう語られている。そのような印象を持った。
それでコメントで指摘したのは次の2点だった。
(1)身体的復活
ヨハネの「イエスの復活」の記述で「傷跡」が持つ意義は、まず「復活のからだの身体性」にあるだろうということ。
(2)復活前と復活後の身体の連続性
さらに「傷跡」はコリントⅠ15章(35節以降)で「復活の体はどのような体で来るのか」と議論されているように、復活前と後の身体には「連続性」があることの示唆になるだろうということ。(またその傷跡が単なる生前の生きた証のようなものではなく、「十字架刑の傷」であることも安易な感傷的共鳴を退けるのではないだろうか。)
以上覚書として書いたことはまだ思いつきにすぎず、深められる必要があることは言うまでもない。