主日礼拝
2015年9月27日(日) 午前10時30分
朗読箇所 ピリピ 3:12-16
説 教 題 「到達したところに基づいて進む」
説 教 者 小嶋崇 牧師
教会創立50周年を記念して
★50周年記念誌
★アルルアンパン
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2015年9月26日土曜日
2015年9月19日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2015年9月20日(日) 午前10時30分
朗読箇所 エペソ 2:1-10
説 教 題 「神が準備してくださった善い業」
説 教 者 小嶋崇 牧師
教会史遡行(8)
東方正教会・・・『東西大分裂』(1054)
2015年9月20日(日) 午前10時30分
朗読箇所 エペソ 2:1-10
説 教 題 「神が準備してくださった善い業」
説 教 者 小嶋崇 牧師
教会史遡行(8)
東方正教会・・・『東西大分裂』(1054)
2015年9月12日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2015年9月13日(日) 午前10時30分
朗読箇所 Ⅰコリント15:50-58
説 教 題 「捕囚と回復」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《現代キリスト教入門》8、新しい創造
2015年9月13日(日) 午前10時30分
朗読箇所 Ⅰコリント15:50-58
説 教 題 「捕囚と回復」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《現代キリスト教入門》8、新しい創造
2015年9月6日日曜日
(3)想像の共同体
最近「ポリタス」というオンライン誌(というのかな) が始まった。
それから暫く経って今日になって初めて読んでみた。
高橋源一郎の『死者と生きる未来』という短いエッセイ風の文章だ。
自伝的な内容のもののようだ。
それでかどうか、内容的に刺激的なものがあるので前置きしている。
高橋は数年くらい前からか、朝日の論壇時評(かなにか)を書き始めた頃から少し気になっていた作家だ。
彼が書くときはなるべく読むようにしていた。
高橋は大分荒んだ人生を歩いていたようだ。
自分の父親の死も、母親の死も、特に思うところはなく、そしてそれぞれの死に引きずられることなく、生きていたようだ。
しかし、あるとき、自分の子供に歯を磨かせていたとき、前の鏡に映った父親の顔を通して、突如「過去との邂逅」を果たす。
むしろ「過去」は現在に様々な形で交渉してくる。
文筆業を生業とする高橋にとっては「本」の存在も、過去に書かれたものでありながら、いま語りかけてくる声となるものだ。
この高橋の文章を読んでいて、「過去と記憶」について昔このブログで書いた文章を思い出した。
死別と「悲哀」
「意義深い他者(significant others)」の記憶は単純なものではないと思う。
もちろん忘れかけたことを必死に思い出そうとするときもあるが、むしろ人生のときどきの局面で、意味ある記憶が立ち上がるのではないかと思う。
「意義深い他者(significant others)」は死んだ後はどんどん過去に押し流されてなくなってしまうだけでなく、別の次元で「ストック」され、その記憶が呼び起こされるようなモメントやイベントを待っているのだと思う。
それは「記念会」のように計画的なものもあれば、突如として立ち上がるものもあると思う。
私たちは生きている人間と共生しているだけでなく、多くの「意義深い他者」(a significant numbers of significant others)である死者とも生きているのだと思う。
もちろんそのことはどんな宗教観、死生観を持つかにも関わっていることと思うが。
多少用語としての趣は異なるが、チャールズ・テイラーは近代制度を『想像の社会(the Social Imaginaries)』と呼んだ。
しかし思うのだが、テイラーのこのネーミングは、近代のあおりを受けて解体されつつあるかに見える「家族共同体」を逆に『想像の共同体』として再構築するヒントを与えてくれるかもしれない。
キリスト教的に言えば(カトリック教会の教義に従えば)、このような死者も含めた『想像の共同体』は
それから暫く経って今日になって初めて読んでみた。
高橋源一郎の『死者と生きる未来』という短いエッセイ風の文章だ。
自伝的な内容のもののようだ。
それでかどうか、内容的に刺激的なものがあるので前置きしている。
高橋は数年くらい前からか、朝日の論壇時評(かなにか)を書き始めた頃から少し気になっていた作家だ。
彼が書くときはなるべく読むようにしていた。
高橋は大分荒んだ人生を歩いていたようだ。
自分の父親の死も、母親の死も、特に思うところはなく、そしてそれぞれの死に引きずられることなく、生きていたようだ。
しかし、あるとき、自分の子供に歯を磨かせていたとき、前の鏡に映った父親の顔を通して、突如「過去との邂逅」を果たす。
8年前のことだった。わたしはバスルームで、3歳の長男に歯を磨かせていた。そのときだった。わたしは異変が起こったことに気づいた。
バスルームの鏡に父が映り、わたしを凝視していたのである。
わたしは、一瞬、恐怖にかられ、叫び出しそうになった。無視し、忘れようとしたわたしを恨んで、父の亡霊が出現した と思ったのだ。だが、すぐにわたしは自分の間違いに気づいた。そこに映っていたのは、父の亡霊などでなくわたしだった。いつの間にか、わたしの容貌は父と 酷似していた。そのことに、うかつにも、そのときまで、わたしは気づかなかったのだ。この体験をきっかけとして、高橋は「過去」の見方が変わった。
わたしは、ずっと、過去というものを、「死んだ」もの、「終わった」ものだ、と思っていた。だから、その「過去」というやつのことを思い出すためには、わざわざ、振り返り、遠い道をたどって、そこまで歩いていかなければならない、やっかいなものだった。このときのふしぎな体験が高橋をして「過去」とは自分の関心のあるなしだけではなくならない、ということに気づかせたのだ。
そうではなかった。「過去」は死んではいなかったのである。
むしろ「過去」は現在に様々な形で交渉してくる。
文筆業を生業とする高橋にとっては「本」の存在も、過去に書かれたものでありながら、いま語りかけてくる声となるものだ。
書斎のわたしの机から見えるところに本棚が幾つもある。その一つには古い文庫ばかりが並んでいて、それはすべて、遠い過去に死んだ人たちによって書かれたものだ。だが、頁をめくると、そこには、いま生きている、どんな人間が話す、書くことばより、明瞭で、寛容で、静謐なものに満ちていることを、わたしはよく知っている。
なにかを知りたいとき、誰かの声を、心の底から聞きたいと思ったとき、わたしは、生きている人間よりも、その本の中で、いまも静かに語りかけている彼らの声を聞きたいと思う。だとするなら、わたしにとって、ほんとうに「生きている」のは、どちらの声なのだろうか。
この高橋の文章を読んでいて、「過去と記憶」について昔このブログで書いた文章を思い出した。
死別と「悲哀」
「意義深い他者(significant others)」の記憶は単純なものではないと思う。
もちろん忘れかけたことを必死に思い出そうとするときもあるが、むしろ人生のときどきの局面で、意味ある記憶が立ち上がるのではないかと思う。
「意義深い他者(significant others)」は死んだ後はどんどん過去に押し流されてなくなってしまうだけでなく、別の次元で「ストック」され、その記憶が呼び起こされるようなモメントやイベントを待っているのだと思う。
それは「記念会」のように計画的なものもあれば、突如として立ち上がるものもあると思う。
私たちは生きている人間と共生しているだけでなく、多くの「意義深い他者」(a significant numbers of significant others)である死者とも生きているのだと思う。
もちろんそのことはどんな宗教観、死生観を持つかにも関わっていることと思うが。
多少用語としての趣は異なるが、チャールズ・テイラーは近代制度を『想像の社会(the Social Imaginaries)』と呼んだ。
しかし思うのだが、テイラーのこのネーミングは、近代のあおりを受けて解体されつつあるかに見える「家族共同体」を逆に『想像の共同体』として再構築するヒントを与えてくれるかもしれない。
キリスト教的に言えば(カトリック教会の教義に従えば)、このような死者も含めた『想像の共同体』は
《天上の凱旋した聖徒たちの教会》
《煉獄にあって待ち望んでいる教会》
《地上にあって戦っている教会》という(中世までの?)教会観を意識するものになるのかもしれないが。
(the Church Triumphant, the Church Expectant, the Church Militant)
2015年9月5日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2015年9月6日(日) 午前10時30分
朗読箇所 Ⅰコリント 11:17-34
説 教 題 「ほめるわけにはいきません」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※聖餐式があります。
《メモ》
『主の晩餐』に関する使徒パウロの指示(1)
2015年9月6日(日) 午前10時30分
朗読箇所 Ⅰコリント 11:17-34
説 教 題 「ほめるわけにはいきません」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※聖餐式があります。
《メモ》
『主の晩餐』に関する使徒パウロの指示(1)
今日のツイート 2015/9/5
岸に打ち上げられたシリア人の5歳の男の子の写真が世界中を駆け巡り、中東からヨーロッパを目指すナンミンに注目が集まっている。
世界はこのことをなぜ今まで放置していたのか、と非難の声が高まっている。
関連ツイートを「お気に入り」から選び出して並べてみる。
世界はこのことをなぜ今まで放置していたのか、と非難の声が高まっている。
関連ツイートを「お気に入り」から選び出して並べてみる。
ある意味諸悪の根源は、最初の段階ではイラク戦争。次の段階ではシリア内戦で非人道的な国民弾圧を続けるアサド政権。そしてそれを放置した国際社会。当然、その周囲で生き血を吸う軍事産業。
— masanorinaito (@masanorinaito) 2015, 7月 26
EUで亡命を申請する外国人の40%がドイツで亡命を申請しています。今年ドイツでは約80万人の難民が亡命申請すると予想されています。ハフ・ポストに記事をアップしました。
http://t.co/7UeMGZLtzK
— 熊谷 徹 (@ToruKumagai) 2015, 8月 20
欧州の難民問題は連日エスカレート。ハンガリーはセルビアとの国境に壁を築き始めた。スロバキアはイスラム教徒の難民の入国を拒む方針。ドイツの難民収容施設でも小競り合いでけが人が出た。市町村は悲鳴を上げている。目立つのは、EU政府である欧州委員会の沈黙。
— 熊谷 徹 (@ToruKumagai) 2015, 8月 21
ドイツでは、今年に入って亡命申請者の収容施設に対する放火事件が約200件発生している。旧東ドイツだけではなく、西側でも起きている。これは、ドイツの恥だ。
— 熊谷 徹 (@ToruKumagai) 2015, 8月 29
1 000 réfugiés syriens en France, 70 000 en Allemagne, 1 million au Liban, 2 millions en Turquie. #LaGrandeClasse pic.twitter.com/5riumaR9M0
— Marc Uhry (@marcuhry) 2015, 8月 29
シリア難民の大量流入で、ヨルダンやレバノンが悲鳴をあげていた頃、真剣に聞いていなかった欧州南部が大変な事態になり、影響は徐々に北へ。近隣だけで引き受けることじゃないという意見、発言力ある国も真剣に主張し始めたら、世界中どこも対岸の火事ではいられなくなる。
— Hadzuki (@Hadzuki_desert) 2015, 8月 30
I don't think I need to describe this.. pic.twitter.com/seREzRYGNX
— Sakir Khader (@sakirkhader) 2015, 8月 30
2015年9月2日水曜日
(5)ドナルド・トランプと福音派キリスト教(続1)
ドナルド・トランプと福音派キリスト教を最初に書いてからほぼ1週間が経ちました。
少しずつ日本でもトランプの名前が取りざたされるようになって来ました。
筆者がフォローしている東大の国際政治学者、藤原帰一教授もツイッターで少し呟いています。
今回は福音派の前にカトリックの反応を一つ取り上げてみたいと思います。
フェイスブック上で、日本の知人の方が、日本のカトリック聖職者がトランプ氏に関して心配していることをコメントしてくれました。
トランプ氏が強硬発言を続けている「移民排斥」、特にメキシコ系も含めヒスパニック系住民の大半はカトリックですから、心配も当然と思われます。
Commonweal (コモンウィール)と言うカトリックの雑誌ではトランプ氏の選挙は長続きしないだろうと見ています。
そして「金持ち」候補として「生粋の物質主義的・功利主義的福音の伝道者」と位置づけています。
さて、福音派系と思われるウェブサイトThinkChristianは、(福音派キリスト者の反省を込めて)「私たちはトランプを偶像化している」という記事を書いています。
この「シンク・クリスチャン」の記事は少し単純化していますが、「落ち目のアメリカ」を回復してくれる人物として、大金持ちの成功者トランプ氏崇拝に傾いているかに見えるキリスト者に警告しています。
こちらのスーザン・スミスさん(多分リベラル派キリスト者)のハッフィントン・ポスト記事(Authentic Christianity is a Myth)はトランプ氏を支持する福音派に対して厳しいことばをぶつけています。
どうやらトランプ氏の選挙戦は予想より長続きしそうなので、このシリーズはまだ続けられるかもしれません。
で、急いで結論を出す必要も無さそうです。まだ継続することとします。
少しずつ日本でもトランプの名前が取りざたされるようになって来ました。
筆者がフォローしている東大の国際政治学者、藤原帰一教授もツイッターで少し呟いています。
アメリカ大統領選挙では、トランプ候補の優位が続いています。最新の調査(PPP)では、トランプが29%、二位はアフリカ系の医師カーソンが15%、多くの資金を集め最有力と目されたブッシュが9%。すでにトランプはエンタテインメントではなく、アメリカ政治の悪夢になってしまいました。
— 藤原帰一 (@kiichifujiwara) 2015, 9月 1
依然としてトランプ氏が真面目に取り上げるべき候補かどうか、世間の疑問視は続いています。今回は福音派の前にカトリックの反応を一つ取り上げてみたいと思います。
フェイスブック上で、日本の知人の方が、日本のカトリック聖職者がトランプ氏に関して心配していることをコメントしてくれました。
トランプ氏が強硬発言を続けている「移民排斥」、特にメキシコ系も含めヒスパニック系住民の大半はカトリックですから、心配も当然と思われます。
Commonweal (コモンウィール)と言うカトリックの雑誌ではトランプ氏の選挙は長続きしないだろうと見ています。
そして「金持ち」候補として「生粋の物質主義的・功利主義的福音の伝道者」と位置づけています。
Donald Trump preaches an unadulterated version of this materialistic and utilitarian gospel.
さて、福音派系と思われるウェブサイトThinkChristianは、(福音派キリスト者の反省を込めて)「私たちはトランプを偶像化している」という記事を書いています。
As a result, we begin hoping in a presidential candidate’s ability to save the country, and we hijack our basic motivation to worship God and use it to worship a political office. I believe this is precisely what is happening with the support of Donald Trump.殆どの方が指摘するのですが、共和党候補者の中でトランプ以外に何人も福音派の理念により近い人がいるのに、なぜわざわざトランプのような福音派の価値観から遠い人間を支持するのか、と言うことも議論になっています。
この「シンク・クリスチャン」の記事は少し単純化していますが、「落ち目のアメリカ」を回復してくれる人物として、大金持ちの成功者トランプ氏崇拝に傾いているかに見えるキリスト者に警告しています。
こちらのスーザン・スミスさん(多分リベラル派キリスト者)のハッフィントン・ポスト記事(Authentic Christianity is a Myth)はトランプ氏を支持する福音派に対して厳しいことばをぶつけています。
The lack of authentic Christianity hit home when I heard Donald Trump say he had never asked God for forgiveness. His words carried their own weight, but the larger problem was that the Evangelical community, which professes to love God like no other ...love Jesus like no other ...was silent.
The Evangelical community lost its credibility for me at that point. While I have not agreed with many of that community's stances on issues such as right to life or gay marriage, what I always believed was that they were grounded in the words of Jesus the Christ.
(トランプ氏が「私は神に赦しを請うたことはない」と言ったことに対して福音派は口をつぐんでいる。それを見て私は彼らに対する信頼を失った。)と、今回はこんなところにしておきます。
どうやらトランプ氏の選挙戦は予想より長続きしそうなので、このシリーズはまだ続けられるかもしれません。
で、急いで結論を出す必要も無さそうです。まだ継続することとします。
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