それから暫く経って今日になって初めて読んでみた。
高橋源一郎の『死者と生きる未来』という短いエッセイ風の文章だ。
自伝的な内容のもののようだ。
それでかどうか、内容的に刺激的なものがあるので前置きしている。
高橋は数年くらい前からか、朝日の論壇時評(かなにか)を書き始めた頃から少し気になっていた作家だ。
彼が書くときはなるべく読むようにしていた。
高橋は大分荒んだ人生を歩いていたようだ。
自分の父親の死も、母親の死も、特に思うところはなく、そしてそれぞれの死に引きずられることなく、生きていたようだ。
しかし、あるとき、自分の子供に歯を磨かせていたとき、前の鏡に映った父親の顔を通して、突如「過去との邂逅」を果たす。
8年前のことだった。わたしはバスルームで、3歳の長男に歯を磨かせていた。そのときだった。わたしは異変が起こったことに気づいた。
バスルームの鏡に父が映り、わたしを凝視していたのである。
わたしは、一瞬、恐怖にかられ、叫び出しそうになった。無視し、忘れようとしたわたしを恨んで、父の亡霊が出現した と思ったのだ。だが、すぐにわたしは自分の間違いに気づいた。そこに映っていたのは、父の亡霊などでなくわたしだった。いつの間にか、わたしの容貌は父と 酷似していた。そのことに、うかつにも、そのときまで、わたしは気づかなかったのだ。この体験をきっかけとして、高橋は「過去」の見方が変わった。
わたしは、ずっと、過去というものを、「死んだ」もの、「終わった」ものだ、と思っていた。だから、その「過去」というやつのことを思い出すためには、わざわざ、振り返り、遠い道をたどって、そこまで歩いていかなければならない、やっかいなものだった。このときのふしぎな体験が高橋をして「過去」とは自分の関心のあるなしだけではなくならない、ということに気づかせたのだ。
そうではなかった。「過去」は死んではいなかったのである。
むしろ「過去」は現在に様々な形で交渉してくる。
文筆業を生業とする高橋にとっては「本」の存在も、過去に書かれたものでありながら、いま語りかけてくる声となるものだ。
書斎のわたしの机から見えるところに本棚が幾つもある。その一つには古い文庫ばかりが並んでいて、それはすべて、遠い過去に死んだ人たちによって書かれたものだ。だが、頁をめくると、そこには、いま生きている、どんな人間が話す、書くことばより、明瞭で、寛容で、静謐なものに満ちていることを、わたしはよく知っている。
なにかを知りたいとき、誰かの声を、心の底から聞きたいと思ったとき、わたしは、生きている人間よりも、その本の中で、いまも静かに語りかけている彼らの声を聞きたいと思う。だとするなら、わたしにとって、ほんとうに「生きている」のは、どちらの声なのだろうか。
この高橋の文章を読んでいて、「過去と記憶」について昔このブログで書いた文章を思い出した。
死別と「悲哀」
「意義深い他者(significant others)」の記憶は単純なものではないと思う。
もちろん忘れかけたことを必死に思い出そうとするときもあるが、むしろ人生のときどきの局面で、意味ある記憶が立ち上がるのではないかと思う。
「意義深い他者(significant others)」は死んだ後はどんどん過去に押し流されてなくなってしまうだけでなく、別の次元で「ストック」され、その記憶が呼び起こされるようなモメントやイベントを待っているのだと思う。
それは「記念会」のように計画的なものもあれば、突如として立ち上がるものもあると思う。
私たちは生きている人間と共生しているだけでなく、多くの「意義深い他者」(a significant numbers of significant others)である死者とも生きているのだと思う。
もちろんそのことはどんな宗教観、死生観を持つかにも関わっていることと思うが。
多少用語としての趣は異なるが、チャールズ・テイラーは近代制度を『想像の社会(the Social Imaginaries)』と呼んだ。
しかし思うのだが、テイラーのこのネーミングは、近代のあおりを受けて解体されつつあるかに見える「家族共同体」を逆に『想像の共同体』として再構築するヒントを与えてくれるかもしれない。
キリスト教的に言えば(カトリック教会の教義に従えば)、このような死者も含めた『想像の共同体』は
《天上の凱旋した聖徒たちの教会》
《煉獄にあって待ち望んでいる教会》
《地上にあって戦っている教会》という(中世までの?)教会観を意識するものになるのかもしれないが。
(the Church Triumphant, the Church Expectant, the Church Militant)
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