元旦礼拝
朗読箇所 ピリピ人への手紙 3:1-11
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
日本福音主義神学会(東部部会)を退会した。(届の日付は、2025年9月19日)
「入会」は確か北米遊学から帰ってきてしばらくしてだから1990年頃ではないかと思う。ざっと35年間お世話になったわけだ。
退会のきっかけは筆者の年齢(70歳を超えたところ)ということもあるが、今年5月の(久しぶりの対面での)研究会が有料(会費1000円)となったことがあった。まっこれについてはいろいろ事情もあるだろうから何も言わないが、会員として年会費(4000円)を納入していながら参加費を要求されるのであれば何かしら断り(説明)があってもよさそうに感じた。
せっかくだから思い出のようなエピソードを二つ三つ書き残しておこう。
入会当時(1990年代)活躍しておられたのはU田氏やM山氏などウェストミンスター神学校で学ばれたことのある方々だった。「正統改革派」といった印象が薄く割合自由で柔軟な感じの方々だった。研究姿勢はアカデミックな手堅さと敬虔な信仰者の面とを併せ持つバランスの取れた感じであった。
それからしばらく経った頃ペンテコステ系のS理事長の時代があった。多分この頃は最初期以降の勢いがひと段落して学会的には緊張感に欠け仲間意識の方が優先するような雰囲気であったかと思う。まだ尻すぼみではなかったが将来的にはどうだろうと感じていた印象がある。ただし断っておくとS理事長は人柄的に物腰も低く庶民的で決してリーダーシップに欠けていたわけではなかったが…。
こんなことがあった。新約聖書学が専門のU田氏の発表の時であったか、筆者が質疑応答で「翻訳聖書の場合でも『釈義』をするという表現は使えますか」的な質問をしたことがある。
少し背景を言うと筆者が学んだアズベリー神学校では「英訳聖書」という一連のコースがあり、原典聖書(ヘブル語・ギリシャ語)釈義とは別に英語に翻訳された聖書を帰納的(inductive)に学ぶメソッドが確立していて、広い意味ではこれも「釈義」に準ずる作業と筆者などは理解していたからだ。
さてU田氏の答えは予想通りというか「厳密には翻訳された聖書を解釈する作業は『釈義』とは呼ばないと思う。」と答えられた。
筆者としてはもやもや感はあった答えだった。区別は必要ではあるとは言え(神学校で原典釈義を学んだ者たちでも)ほとんどの牧師は毎週の説教作成で実際には原典聖書で釈義をするわけではなく、翻訳聖書のテキストで作業することを考えるとやはり「釈義」の一環として捉えた方がいいのではないかと思っている。(そのくらいの注意深さをもって翻訳聖書のテキストを扱った方が良い、という意味。)
話は変わるが福音主義神学会では最初の頃は割合海外からの講演者が多かった印象がある。しかし途中から海外で研究してきた「若手研究者」を育てる意味もあって、外部からの講演者がめっきり減ったように思う。どうもこのような「内輪で研究する」的な雰囲気が根を下ろし始め、以降段々と緊張感に欠ける学会になっていった一因を作ったのではないかと考えるがどうであろう。
近年で記憶に残る外部講師はルター研究の鈴木浩氏であった。これについては当ブログでも記事にしたので興味のある方はどうぞ。
鈴木氏はやはり専門研究家というか長年蓄積した研究の成果を興味深くかつ学際的研究を刺激するポイントにまとめられていたと思う。
やはりできるだけ「外部」との接触がある/多い学会であったら良かったのにな、という思いが強い。
以上、退会に際して思ったことをパラパラと書き留めてみた。
ちょうど8月15日の敗戦日に近いこともあったのか、オックスフォード大の倫理学教授ナイジェル・ビガー氏が80年前の広島と長崎への原爆投下の倫理性についてコメントしているのを目にした。
No @jisundho Nigel Biggar follows the detailed account of the decision-making processes in Washington and Tokyo given by Evan Thomas in The Road to Surrender. And no @jisundho "all of Asia" did not grant you the right to speak for it. https://t.co/c9kpbVh6OI
— nigel biggar (@NigelBiggar) August 16, 2025
過去ビガー教授は原子爆弾投下の倫理性を否定していたようだがツイートにあるエヴァン・トーマス氏の『The Road to Surrender』を読んで見方を変えたのだという。(ヤフー・ニュース)
Which of these hypotheses best fits the facts of the bombing of Hiroshima and Nagasaki is a matter of historiographical controversy. When I last wrote on this topic — to mark the 70th anniversary in 2015 — I said this: “For what it’s worth, my own amateur impression is that … the intention in dropping the bombs was more ‘political’ (or terroristic) than military. If that is so, then they shouldn’t have been dropped.” Now, however, having read Evan Thomas’ detailed account of the decision-making processes in both Washington and Tokyo (Road to Surrender: Three Men and the Countdown to the End of World War II [London: Elliott & Thompson, 2023]), I’ve changed my mind.
ビガー教授ほどの人が見方を変える本とはどんなものなのだろう、とまず興味を覚えた。
意外だったのはビガー教授が原爆投下に至る「意思決定」の倫理性に限定して「見方」を変えたらしいことだ。
1945年当時の米国大統領の意思決定の倫理性の是非を論じること自体には異論はないが、戦後70年、80年を経過する中でそのような限られた文脈でだけ論じるだけでいいのか、それで倫理学教授としての意見表明は済ませられるのか、というのが私が抱いた率直な違和感と疑問点だ。
何かもっと広い文脈で論じられるべきではないか、そのような文章はないだろうか、と少しネットを探していて見つけたのがこの記事だ。
Can nuclear war be morally justified?
記者はリチャード・フィッシャーというBBCの人らしい。
フィッシャー氏は原爆の問題を広く扱おうとしている。その一つの要因は日本の哲学・倫理学者である森岡正博氏が提唱する「死者・被害者の視点」である。
またフィッシャー氏はモーラル・ファウンデーションという用語を紹介して、個人の倫理判断が異なる倫理基準に左右されることを指摘している。
people’s “moral foundations” – how they decide what is right and wrong – are more complex, and crucially, differ according to background, culture and political ideology.最後に現段階での原爆の規模から考えて、「戦争終結遂行に適しているかどうか」次元の問題から、人類滅亡可能性を左右する段階になっており、根本的な実存に関わる問題として捉えるべきことを指摘して記事を終えている。
All this suggests that it’s impossible to answer whether the use of nuclear weapons is inherently right or wrong – whether they should be taboo or allowed under some circumstances – because it depends on the moral framework of the individual.
“We stand poised on the brink of a future that could be astonishingly vast, and astonishingly valuable,” Ord writes. Yet our power to destroy ourselves – and all the generations that could follow – is outpacing our wisdom. In Ord’s view, the morality of nuclear war looks quite different if you consider it as an existential, species-level threat, rather than through the lens of national conflicts.いずれにしても原爆についての議論は投下と被爆の当事者国ではかなり開きがあることは無理からぬことだろうが、原爆の道徳性を論じるには広い視野が求められるのではないかと感じている。
主日礼拝
2025年8月3日(日)午前10時30分
朗読箇所 マルコの福音書 11:15-17
説 教 題 「祈りの家」
説 教 者 小嶋崇 牧師
※次主日(8月10日)の礼拝はお休みとなります。
このブログでも度々紹介してきたスコット・マクナイト『福音の再発見(The King Jesus Gospel)』に関わる話題です。
米国のゾンダーヴァン出版社が刊行する「カウンターポイント」というシリーズがあります。論争になっているような様々なイシューに対してフォーラムを提供し、複数の著者から異なる視点で寄稿してもらい一つの本にまとめるという試みです。これまでに40冊くらいのシリーズ著作が出ているようです。
その中の一冊で今年6月に出版予定になっているのが
です。
発売を前にした促販企画のようなウェビナーが(日本時間で)5月23日の朝ありました。
この本を編集した二人がモダレーターとなり「5人」の寄稿者(うち一人、ジュリー・マが欠けましたが残る4人)がパネリストとして登場しました。
これから書くのは主にその感想というか印象なのですが、マクナイトを除くとそれぞれの教派や神学伝統から見た「福音」を5-10分で語りました。
一番流麗にまとめていたのが「ウェスレヤン」を語ったデシルヴァと「解放の神学」のスミスで一番歯切れの悪かったのが「宗教改革」のホートンです。
特にホートンは改革派のレッテルを貼られることに多少神経質になっていました。というのも一番最初に語ったマクナイトが『福音の再発見(キング・ジーザス・ゴスペル)』でも新カルヴィン主義のジョン・バイパーを批判していたように、正面切った「福音とは何か」というテーマからいうとホートンが代表する立場が対立・衝突の矢面に立たされることを予感していたからでしょう。
ところでマクナイトを除いた他の3人はすべて教会史的に現れてきた教派的立場や神学的主張から見た「福音」ということであり、実質的にはそれぞれの立場の特徴点(distinctives)を語っているにすぎない部分が多いわけです。かならずしも「オリジナル・ゴスペル」とは何であったか、そのオリジナル・ゴスペルに対して各自の神学的特徴点はどの程度オリジナル・ゴスペルを反映しているのか、あるいは発展させているのか、といった思索には欠けていました。
各自のプレゼンの後、4人の間での意見の交換の時間があったのですが、やはりマクナイトがそもそも「福音とは何か」という定義の問題や「どのように定義するのか」という方法の問題が取り上げられていないということを問題提起していました。
マクナイトはそれらの問題を既に『福音の再発見』でかなりなスペースを用いてまとめているので、他の3人のパネリストたちが素通りしてしまっていることに違和感を感じているようでした。
またマクナイトは「意見の対立」を際立てるために(自著で指摘していた)ジョン・パイパーの「イエスは『義認』の福音を語った」というポイントを持ち出し、はたして義認は福音そのものなのかそれとも福音がもたらす益(benefits)なのか、と福音それ自体と福音がもたらす益を区別する必要があるのではないかとパネリストたちに問いかけていました。
さてこのウェビナーは都合90分のプログラムでした。おそらくアーカイブされて視聴可能になるのではないかと思いますが、『福音の再発見』が提起した問題を今後も深めていくために、参考になるのではないかと思います。
以上ブログ再開後の第1弾でした。
《広告》スコット・マクナイト『福音の再発見』新装改訂版(キリスト新聞社、2020年9月)を個人販売しています。
長らくいわゆる「記事」の投稿をしていなかった。特に理由があったわけではない。特に断筆宣言のようなことは書いていないし…。
段々と記事を書くのを大変に感じていたことは(今思うと)あったに違いない。書かなくなって楽になりそのまま現在まで放置するに至った次第。
再開の理由は特にない。
ただある方から何度か再開をサジェストするよう進言があった。しかしいまさら何について書くのか…。
2020年のコロナ騒動以降の大きな変化と言えば、コロナ自体とは直接関係ないが、ほぼ紙の本を買わなくなったことだ。以前から日本語の本はキリスト教書でもあまり買わなかった。本ブログでも何度も記事にしてきたようにアマゾンで洋書(英書)を買うことが殆どだった。しかし最近では電子書籍を除けば洋書でさえほとんど買わなくなった。
その要因らしきものを考えると…、
①体調がいまいちで読書のための集中力が足りない。
②興味をそそる本が少ない。
特に②の理由を考えてみると、筆者の視野が狭くなった、アンテナの感度が下がったことがその大きな原因かもしれない。
ぐっと飛躍しますが、日本の福音派という狭い世間の話になります。
それにしても、日本の福音派の出版事情は日に日に寂しいものになりつつあるような気がしてなりません。
とにかく本格的な本の出版が少ないように思います。
「イチオシ!」(←)に挙げたチャールズ・テイラー『世俗の時代』(名古屋大学出版会)
とまでは言いませんが、多少でも「歯が立たない」と思えるような固い本が欲しいですね。二三人がかりで取っ組んで読むような(つまり読書会が必要な)本のことです。
鈍った「本のアンテナ」をSNSで広げながら目ぼしい本を探してはいるのですが、こと福音派系の出版物を観察していると、内輪では評判になっていても、内容的には生煮えのような議論が盛られているような本が目立つような印象です。
タイトルや章立てを見ても「これじゃだめだなー」と購入意欲が減退し、読んだ人の読後感想を読んでも「仲間内評」ばっかりで余計興ざめというか…。
何か知的関心領域が狭まったというか…。内輪で喜んでいるだけ、自己満足で終わっているだけ、そんな印象が強いのです。
自戒も含めて、もっと「視野を広げよ」「関心領域を拡大せよ」、と言いたいですね。
では、一応今後の記事投稿ですが、あまり無理をしないで、雑感(ランブリングスramblings)(マンブリングス mumblings)のようなものでも続けられたらいいなと思っております。