先日ポストした「信教自由:アフガニスタン」のサイド・ムサ氏のその後の動向についてです。
南部バプテスト系キリスト教主義ボイス大学副学長でブロガーとしても著名なデニー・バークDenny Burk氏によると、ニュースソースである「コンパス・デイレクト・ニュース(Compass Direct News) 」の昨年11月16日報道によると、ムサ氏が拘束されたのは昨年5月とのこと。
ムサ氏は獄中での虐待や拷問の様子などを稚拙な英語ながらバラク・オバマ合衆国大統領に手紙(自身が筆記した英語の手紙)を書いて解放を訴えたと言う。
これを受けて欧米諸国はアフガン政府に働きかけたようだが、違う刑務所への移動のような改善は見られたものの、解放には至っていなかった。そしてアメリカ政府が政治的プレッシャーをあきらめかけているような時に、人権監視団体や信教自由監視団体などがマス・メディアにアッピールし始めたようである。
そしてついに先日ポストとした2月17日前後から米国においてもメガ・チャーチ牧師として著名なジョン・パイパー師がオバマ大統領に対してツイッターでムサ氏解放を働きかけるようアッピールし、リック・ウォーレン牧師はメディアがこのことを取り上げないことに抗議したツイッターを発信したとのこと。
このような「ツィッター・キャンペーン」がどこまで功を奏したかまだ不明だが、少なくともムサ氏のアッピールは「世界」に届いていることは間違いないようである。
バーク氏のブログではムサ氏の状況は好転しつつあるが、仮に釈放されたとしても本国に留まることはかなりな危険を伴い外国へ退去することになるのではないか、とのこと。既にムサ氏の家族は国外に退去しているらしい。
現在チュニジアに始まったアラブ革命がエジプトからリビヤへと飛び火しているが、フェイスブックやツィッターなどネットによるオープン・ソーシャル・ネットワーキングがもたらす政治的・社会的影響は大きくなって行きそうである。
それだけに情報内容の理解、適切な判断、ソースの確認などが大切になってくる。
最後になってしまったが、呼びかけに応じて不慣れな英語サイトでの署名に協力して頂いた方にお礼申し上げる。
なお筆者のところには不定期に信教自由問題で苦しむ国々の報告が届く。フォーカスはキリスト者への迫害だが、信教自由の原則は一宗教を利するものではなく、すべての宗教に適用されるべきものである。
ただ20世紀以降世界各地(特にイスラム圏)でのキリスト者に対する宗教迫害はそれまでの19世紀間の迫害全部よりも大きいと言われている。
これからも時々ブログで紹介することがあるかもしれない。
巣鴨聖泉キリスト教会(日本聖泉キリスト教会連合)創立1965年。 大和郷の一角にある緑と花に囲まれた教会、隣には牧師の木工房。 静かに賛美と聖書の学び、そんな礼拝の時をお過ごしください。
2011年2月23日水曜日
2011年2月21日月曜日
文化批評
文学作品、アート、音楽、映画、・・・いわゆる現代文化メディアは作品を介して作者と視聴者(鑑賞者)が対峙するだけでなく、批評(家)が存在する。
ある人は「批評家」など必要ないと言う人もいるだろう。
視聴者が自分で納得するように作品を鑑賞すればよいのだ、と。
又アートを作る側でも「批評家」たちに理解されず、評価されず、残念な思いをすることも多いに違いない。
しかし作者の側でも、一般鑑賞者の側でも、それなりに作品を鑑賞し、批評する第三者の意見が欲しい場合があるのは否めない。
特にその作品の背景となる歴史や文化の影響に関する専門的知識を持っている批評家たちの鑑識眼に助けられて、よりよく作品を鑑賞できる・・・と言うことがある。
日本において西洋クラシック音楽の批評家の大家を一人挙げよと言われれば吉田秀和氏の名前は外せないだろう。彼の批評の対象となる音楽そのものだけでなく、彼の批評する文章それ自体が一つの作品のように感ずるほど軽妙洒脱な表現を用いる。
ところが先日の朝日新聞の音楽展望コラムで彼は「相撲の八百長問題」を取り上げ、最後までそれに終始した文章を書いたのである。
あれっ、音楽と相撲に何か深ーい関係でもあるのかしら・・・と思わされたほどである。(多分大衆芸能としての相撲が音楽鑑賞とどこかで通底するのであろう。)
さて、話が寄り道してしまったが、本ポストで話題にしたいのは映画のことである。
教会には様々なイベントの案内が郵送されてくるが、そのうちの一つがいわゆる「キリスト教に関連した映画」の案内である。
筆者は最近は映画など殆んど見に行く機会がないので、そのようなパンフレットを頂いても殆んど関心を持たないか、せいぜい会堂の掲示板に貼っておくだけである。
こういう言い方をしては何だが、キリスト教関連の映画だから、と言うことで教会に案内が送られてくることに少々違和感を感じるのである。
パンフレットに添えられた文章には大抵「伝道に用いて下さい」みたいなことが書かれていたりする。
「それはちょっと違うだろう」と思うのである。
むかーしビリー・グラハムの伝道映画あったが、ストーリーの最後の方にクルセードの場面が出てくるのが決まりであった。
あのようなストレートな「キリスト教映画」は今は殆んどお目にかからないが、配給会社が教会宛に映画案内を送りつける手法には(そして動員を当て込む手法には)このような昔の名残を感じるのである。
(映画)作品は伝道に好適かどうかではなく、作品として素晴らしいかどうかが大事ではないか。
「内容がキリスト教に関連するから」ではなく、「キリスト教に関連し、作品的に素晴らしいので推薦します」と言うような案内をして欲しいものである。
また内容的に直接キリスト教に関係なくても、テーマ的に相応しいから推薦してください、と薦める作品もあるだろう。
と、まー文句みたいなことを書いたが、最近案内が送られてくる映画は段々内容的に一定レベルに達しているものが出てきているようである。
今年になって目に付いたのは、「大地の詩 留岡幸助物語(公式サイト)」や、イギリスで奴隷解放運動の立役者となったウィリアム・ウィルバーフォースを描いた「アメージング・グレイス(公式サイト)」。
それから案内が来たわけではないが、「ヤコブへの手紙(オフィシャルサイト)」や「ハーモニー 心をつなぐ歌(紹介サイト)」も評判がいい。
ある人は「批評家」など必要ないと言う人もいるだろう。
視聴者が自分で納得するように作品を鑑賞すればよいのだ、と。
又アートを作る側でも「批評家」たちに理解されず、評価されず、残念な思いをすることも多いに違いない。
しかし作者の側でも、一般鑑賞者の側でも、それなりに作品を鑑賞し、批評する第三者の意見が欲しい場合があるのは否めない。
特にその作品の背景となる歴史や文化の影響に関する専門的知識を持っている批評家たちの鑑識眼に助けられて、よりよく作品を鑑賞できる・・・と言うことがある。
日本において西洋クラシック音楽の批評家の大家を一人挙げよと言われれば吉田秀和氏の名前は外せないだろう。彼の批評の対象となる音楽そのものだけでなく、彼の批評する文章それ自体が一つの作品のように感ずるほど軽妙洒脱な表現を用いる。
ところが先日の朝日新聞の音楽展望コラムで彼は「相撲の八百長問題」を取り上げ、最後までそれに終始した文章を書いたのである。
あれっ、音楽と相撲に何か深ーい関係でもあるのかしら・・・と思わされたほどである。(多分大衆芸能としての相撲が音楽鑑賞とどこかで通底するのであろう。)
さて、話が寄り道してしまったが、本ポストで話題にしたいのは映画のことである。
教会には様々なイベントの案内が郵送されてくるが、そのうちの一つがいわゆる「キリスト教に関連した映画」の案内である。
筆者は最近は映画など殆んど見に行く機会がないので、そのようなパンフレットを頂いても殆んど関心を持たないか、せいぜい会堂の掲示板に貼っておくだけである。
こういう言い方をしては何だが、キリスト教関連の映画だから、と言うことで教会に案内が送られてくることに少々違和感を感じるのである。
パンフレットに添えられた文章には大抵「伝道に用いて下さい」みたいなことが書かれていたりする。
「それはちょっと違うだろう」と思うのである。
むかーしビリー・グラハムの伝道映画あったが、ストーリーの最後の方にクルセードの場面が出てくるのが決まりであった。
あのようなストレートな「キリスト教映画」は今は殆んどお目にかからないが、配給会社が教会宛に映画案内を送りつける手法には(そして動員を当て込む手法には)このような昔の名残を感じるのである。
(映画)作品は伝道に好適かどうかではなく、作品として素晴らしいかどうかが大事ではないか。
「内容がキリスト教に関連するから」ではなく、「キリスト教に関連し、作品的に素晴らしいので推薦します」と言うような案内をして欲しいものである。
また内容的に直接キリスト教に関係なくても、テーマ的に相応しいから推薦してください、と薦める作品もあるだろう。
と、まー文句みたいなことを書いたが、最近案内が送られてくる映画は段々内容的に一定レベルに達しているものが出てきているようである。
今年になって目に付いたのは、「大地の詩 留岡幸助物語(公式サイト)」や、イギリスで奴隷解放運動の立役者となったウィリアム・ウィルバーフォースを描いた「アメージング・グレイス(公式サイト)」。
それから案内が来たわけではないが、「ヤコブへの手紙(オフィシャルサイト)」や「ハーモニー 心をつなぐ歌(紹介サイト)」も評判がいい。
2011年2月19日土曜日
明日の礼拝案内
主日礼拝
2月20日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:24
説 教 題 「キリストへ導くための養育係」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(53)
ガラテヤ人への手紙(41)
・3:23-29 一つの信仰、一つの民
2月20日 午前10時30分
朗読箇所 ガラテヤ人への手紙 3:1-29
説教箇所 ガラテヤ人への手紙 3:24
説 教 題 「キリストへ導くための養育係」
説 教 者 小嶋崇 牧師
《講解メモ》
パウロ書簡の学び(53)
ガラテヤ人への手紙(41)
・3:23-29 一つの信仰、一つの民
2011年2月18日金曜日
第二神殿期ユダヤ教
先日キリスト教世界観ネットワーク
ポストでご案内した会合が来週に迫りました。
それと言うのも「聖書を理解する」と言う作業を一般のクリスチャンは「聖書を読んで理解する」と了解しているから。
まあそんなの当たり前じゃないの、と怒られてしまいそうですが、そうでもないのです。
宗教改革の聖書解釈の原則の一つに、確か「聖書は聖書で解釈する」と言うのがありました。
聖書箇所の意味はその周辺の文脈から始まって最終的には聖書全体の文脈で解釈可能と言う前提があるようです。
確かに基本的にはそうなのですが、現在の新約学ではそのような「範囲内」で研究している方はおられないでしょう。
新約聖書一つ取っても、27文書が書かれた年代は大体一世紀後半の50年くらいの間と想定されます。歴史的な文脈から言うとこの時代のパレスチナ、ギリシャ・ローマ世界が新約聖書の歴史的舞台となるわけですが、新約聖書が書かれた時代には新約聖書の解釈に光を投げかける様々な文学作品があります。
研究者たちはこれらの文学作品との思想的関連性、内容比較など様々な研究を通して、新約聖書本文の意味を斟酌しているわけです。
その中でも「第二神殿期ユダヤ教」に関わる文学作品研究が大分進みました。
つまり何が難しいかと言うと、聖書だけを読んでいるそしてその範囲内で「イエス」や「パウロ」を理解している方々に、聖書外の「第二神殿期ユダヤ教」文書も合わせた理解を説明することなのです。
ある程度までは「新約聖書表現」は新約聖書の中だけでも理解できるのですが、以下に説明する特徴的な表現に関しては、「第二神殿期ユダヤ教」も合わせて比較検討してより輪郭のはっきりした理解が出てくる、と言えるのです。
例えば今度の講演内容にも重要な「復活」に関するユダヤ教理解は旧約聖書ではエゼキエル書(隠喩表現として)、イザヤ書、ダニエル書の言及にほぼ限られます。
しかし旧約聖書外典の「第二マカベヤ書」や「ソロモンの知恵」にはより具体的な表現として出てきます。
またイエスやパウロのユダヤ教の背景となる歴史観を表す表現として、「この世」と「後の世」(ルカ18:30)「今の悪の世」(ガラテヤ1:4)等がありますが、このような二段階的歴史観についても注意しないとギリシャ的な思想背景で解釈してしまう危険があります。
イエスと金持ちの役人の会話に出てくる「永遠の命」は無限に続くと言うようなギリシャ的な時間概念ではなく、預言者が証ししていた「来るべき世でのいのち」、つまり「この今の世」が終焉して現れるあくまでも歴史的に連続性(大変革を通過しますが)のある「世」なのです。
と言うわけで聖書だけを読んでいるであろう聴衆に「第二神殿期ユダヤ教研究」の成果を土台にした解釈を補完する時のギャップを予想して「難しいだろうなー」と予想しているわけです。
言葉だけの説明では難しいだろうから何かチャートと言うか図表のようなものでも用意しなければならないか・・・などと考えている次第です。
ああー、もう来週だ。
ポストでご案内した会合が来週に迫りました。
「N.T.ライトの歴史的アプローチ―歴史の原点に戻って見直すキリスト教信仰」と言う題で講演することになっていますが、なかなかまとまった話をするのは大変そう。
それと言うのも「聖書を理解する」と言う作業を一般のクリスチャンは「聖書を読んで理解する」と了解しているから。
まあそんなの当たり前じゃないの、と怒られてしまいそうですが、そうでもないのです。
宗教改革の聖書解釈の原則の一つに、確か「聖書は聖書で解釈する」と言うのがありました。
聖書箇所の意味はその周辺の文脈から始まって最終的には聖書全体の文脈で解釈可能と言う前提があるようです。
確かに基本的にはそうなのですが、現在の新約学ではそのような「範囲内」で研究している方はおられないでしょう。
新約聖書一つ取っても、27文書が書かれた年代は大体一世紀後半の50年くらいの間と想定されます。歴史的な文脈から言うとこの時代のパレスチナ、ギリシャ・ローマ世界が新約聖書の歴史的舞台となるわけですが、新約聖書が書かれた時代には新約聖書の解釈に光を投げかける様々な文学作品があります。
研究者たちはこれらの文学作品との思想的関連性、内容比較など様々な研究を通して、新約聖書本文の意味を斟酌しているわけです。
その中でも「第二神殿期ユダヤ教」に関わる文学作品研究が大分進みました。
・旧約聖書外典・偽典研究これらの研究によって聖書本文以外の資料でイエスやパウロの時代のユダヤ教がどんなものであったかかなり分かってきたのです。
・死海文書研究
・ヨセフス研究
・アレキサンドリアのフィロ研究
・ラビ文書の研究
つまり何が難しいかと言うと、聖書だけを読んでいるそしてその範囲内で「イエス」や「パウロ」を理解している方々に、聖書外の「第二神殿期ユダヤ教」文書も合わせた理解を説明することなのです。
ある程度までは「新約聖書表現」は新約聖書の中だけでも理解できるのですが、以下に説明する特徴的な表現に関しては、「第二神殿期ユダヤ教」も合わせて比較検討してより輪郭のはっきりした理解が出てくる、と言えるのです。
例えば今度の講演内容にも重要な「復活」に関するユダヤ教理解は旧約聖書ではエゼキエル書(隠喩表現として)、イザヤ書、ダニエル書の言及にほぼ限られます。
しかし旧約聖書外典の「第二マカベヤ書」や「ソロモンの知恵」にはより具体的な表現として出てきます。
またイエスやパウロのユダヤ教の背景となる歴史観を表す表現として、「この世」と「後の世」(ルカ18:30)「今の悪の世」(ガラテヤ1:4)等がありますが、このような二段階的歴史観についても注意しないとギリシャ的な思想背景で解釈してしまう危険があります。
イエスと金持ちの役人の会話に出てくる「永遠の命」は無限に続くと言うようなギリシャ的な時間概念ではなく、預言者が証ししていた「来るべき世でのいのち」、つまり「この今の世」が終焉して現れるあくまでも歴史的に連続性(大変革を通過しますが)のある「世」なのです。
と言うわけで聖書だけを読んでいるであろう聴衆に「第二神殿期ユダヤ教研究」の成果を土台にした解釈を補完する時のギャップを予想して「難しいだろうなー」と予想しているわけです。
言葉だけの説明では難しいだろうから何かチャートと言うか図表のようなものでも用意しなければならないか・・・などと考えている次第です。
ああー、もう来週だ。
2011年2月17日木曜日
信教自由:アフガニスタン
当教会も所属する
日本福音同盟Japan Evangelical Association
が所属する世界組織、世界福音同盟World Evangelical Alliance
の「信教自由委員会」総主事、ゴドフリー・ヨガラジャ師から以下のような要請がありました。
この二人のためにバルナバス基金BarnabasFundが署名活動を行っています。
賛同してくださる方はオンラインで署名できますのでご協力ください。
・署名サイトSave Afghan converts to Christianity
※「名前」「イーメールアドレス」「郵便番号」「国名」を入れ、その下の文章の最後にチェック・マークを入れ、Signボタンをクリックしてください。
※アフガニスタン現政府は憲法で基本的人権擁護を表明していますが、実際にはイスラム法で他の宗教への回心を禁じ厳罰する政策を取っています。
日本福音同盟Japan Evangelical Association
が所属する世界組織、世界福音同盟World Evangelical Alliance
の「信教自由委員会」総主事、ゴドフリー・ヨガラジャ師から以下のような要請がありました。
Dear friends,
Greetings!
As you know, an Afghan Christian, Sai Musa, is facing execution for converting from Islam, and another convert, Shoaib Assadullah, is also in prison and has been threatened with the death penalty for apostasy unless he returns to Islam. Attempts by foreign governments, including that of the US, to save his life have failed. We therefore urge you to consider signing this online petition launched by Barnabas Fund.アフガニスタンで二人のキリスト者、サイド・ムサ氏とショアイブ・アサドゥラ氏が死刑になろうとしています。
The petition demands two things from the President of Afghanistan, Hamid Karzai.
1. Release Said Musa and other converts to Christianity who are being held in prison because of their faithBest Regards,
2. Uphold the Afghan constitution, commitment to universal human rights, which guarantees freedom of religion, including the right to change one's faith
Godfrey Yogarajah
この二人のためにバルナバス基金BarnabasFundが署名活動を行っています。
賛同してくださる方はオンラインで署名できますのでご協力ください。
・署名サイトSave Afghan converts to Christianity
※「名前」「イーメールアドレス」「郵便番号」「国名」を入れ、その下の文章の最後にチェック・マークを入れ、Signボタンをクリックしてください。
※アフガニスタン現政府は憲法で基本的人権擁護を表明していますが、実際にはイスラム法で他の宗教への回心を禁じ厳罰する政策を取っています。
2011年2月16日水曜日
摂理(続)
多分内容的には2月2日のポスト「摂理」の続きになると思います。
先のポストでは思いつくままに書きました。
と言うか余り神学的伝統とか教理的伝統とかを意識しないで書いたわけでした。
最近感ずることなのですが、たまたま筆者がネット上で行き当たるサイトで(キリスト教系、キリスト教神学系サイト)カール・バルトの名前を耳にしたり、議論されたりするのをよく目にします。
ツイ友(と言う呼び方があるらしいですが)鎌野直人先生も最近バルトの教義学全集を購入したらしいです。
何かカール・バルト復興みたいな機運があるのでしょうか・・・。
先般の「のらくら者の日記」とのブログ交換でも「総合的な神学叢書」が最近見当たらない、みたいな発言がありました。
そんなことからバルトが読まれるようになって来ているのかもしれません。
さて「摂理」の話題に戻りますが、考えてみれば筆者は「ウェスレアン・アルミニアン主義」の神学的伝統から神学教育をスタートし、現在当教会が属する「日本聖泉基督教会連合」も同立場を表明しています。
してみると「摂理」を神学的、教理的言語で枠付けると、「神の主権(的意志)」と「人間の自由意志」に関わる話題なのでした。
と言うことはこの話題は宗教改革の時点まで遡れば、カルヴィン、カルヴィン主義の「神の主権」と秘造世界に対する神の摂理的統治(ケアー)に関することです。
もっと砕けた表現にすれば、
しかし問題は、先のポストで書いたように、
このような艱難辛苦や不条理な出来事の背後に「神の御意思」があるのか。
神は大地震や大津波で多数の犠牲者が出るような災害を「意図される」のか。
こう言う問題です。
神学的には「神の主権と摂理」を主張すれば、何らかの形でこれらの「不都合な事実」を弁明する必要に迫られます。
このような摂理の神学的問題について宗教改革者ジョン・カルヴィンはどう考えていたのか、その後のカルヴィニストたちはカルヴィンの神学的解決をどのように受け止めてきたのか、を一神学生がプログ上で発表しているのに出くわしました。
その入り口になったのがDer Evangelische Theologe、と言うバルトのことを良く取り上げている神学専門サイトです(タイトルはドイツ語ですが英語サイトです)。
と言うわけでちょっと余計でしたが、カール・バルトの話題に言及しました。
(※これも余計ですが、筆者は“本格的に”改革派神学と向き合ったことはありません。以前バルトは読んでいないと書きましたが、改革派神学も今後の宿題です。)
さて、その神学的エッセイはプリンストン神学校の一年生でナサニエル・マドックスさんです。
わが身を振り返ると、神学校一年の時はまだ神学入門したばかりで、とてもこんな込み入った義論など書けるはずもありませんでした。筆者が晩熟だったのか、マドックスさんが早熟なのか・・・。
とにかくそのエッセイIntentions and intentional limits in Calvin's Doctrine of Providence or Why John Piper can't "have"John Calvin (Pt. 4)
はご覧のように現在第四ポストに突入しています。
エッセイはこんな風な議論としてスタートします。
「神の主権と摂理」に関するかなり込み入った神学的義論、特にこの点に関するカルヴィンとカルヴィニストたち(ジョン・パイパーがその主たる矛先ですが)との違いに関心のある方は是非一読ください。
※それにしても一神学生のブログなのに結構力入っていますなー・・・。
先のポストでは思いつくままに書きました。
と言うか余り神学的伝統とか教理的伝統とかを意識しないで書いたわけでした。
最近感ずることなのですが、たまたま筆者がネット上で行き当たるサイトで(キリスト教系、キリスト教神学系サイト)カール・バルトの名前を耳にしたり、議論されたりするのをよく目にします。
ツイ友(と言う呼び方があるらしいですが)鎌野直人先生も最近バルトの教義学全集を購入したらしいです。
何かカール・バルト復興みたいな機運があるのでしょうか・・・。
先般の「のらくら者の日記」とのブログ交換でも「総合的な神学叢書」が最近見当たらない、みたいな発言がありました。
そんなことからバルトが読まれるようになって来ているのかもしれません。
さて「摂理」の話題に戻りますが、考えてみれば筆者は「ウェスレアン・アルミニアン主義」の神学的伝統から神学教育をスタートし、現在当教会が属する「日本聖泉基督教会連合」も同立場を表明しています。
してみると「摂理」を神学的、教理的言語で枠付けると、「神の主権(的意志)」と「人間の自由意志」に関わる話題なのでした。
と言うことはこの話題は宗教改革の時点まで遡れば、カルヴィン、カルヴィン主義の「神の主権」と秘造世界に対する神の摂理的統治(ケアー)に関することです。
もっと砕けた表現にすれば、
神様は私たちのこといつも見守っていてくださるのだ。と言う感じになると思います。
神様の救いの御意思はイエス・キリストの救いにおいて十全に顕されているが、私たちが遭遇する日々の出来事にも神様の主権を顕されているのだ。
しかし問題は、先のポストで書いたように、
だからやはり信仰的な問題として「摂理」を考える上で最も困難なのは到底神の計らいとは思えない苦難を抱えている方々のことになる。いわゆる「神義論」と重なってくる部分での「神の主権と摂理」の問題です。
ただその国に生まれてきただけで貧困・飢餓を宿命付けられているような人たち。
不治の病やハンディを背負って生まれてきた人たち。
圧倒的に不当な不正・抑圧・差別を故なく受けている人たち。
このような人たちの現実を前にして「神の摂理」は問われなければならないのだろう。
このような艱難辛苦や不条理な出来事の背後に「神の御意思」があるのか。
神は大地震や大津波で多数の犠牲者が出るような災害を「意図される」のか。
こう言う問題です。
神学的には「神の主権と摂理」を主張すれば、何らかの形でこれらの「不都合な事実」を弁明する必要に迫られます。
このような摂理の神学的問題について宗教改革者ジョン・カルヴィンはどう考えていたのか、その後のカルヴィニストたちはカルヴィンの神学的解決をどのように受け止めてきたのか、を一神学生がプログ上で発表しているのに出くわしました。
その入り口になったのがDer Evangelische Theologe、と言うバルトのことを良く取り上げている神学専門サイトです(タイトルはドイツ語ですが英語サイトです)。
と言うわけでちょっと余計でしたが、カール・バルトの話題に言及しました。
(※これも余計ですが、筆者は“本格的に”改革派神学と向き合ったことはありません。以前バルトは読んでいないと書きましたが、改革派神学も今後の宿題です。)
さて、その神学的エッセイはプリンストン神学校の一年生でナサニエル・マドックスさんです。
わが身を振り返ると、神学校一年の時はまだ神学入門したばかりで、とてもこんな込み入った義論など書けるはずもありませんでした。筆者が晩熟だったのか、マドックスさんが早熟なのか・・・。
とにかくそのエッセイIntentions and intentional limits in Calvin's Doctrine of Providence or Why John Piper can't "have"John Calvin (Pt. 4)
はご覧のように現在第四ポストに突入しています。
エッセイはこんな風な議論としてスタートします。
So, "Christian, absolutely nothing can touch you today apart from the sovereign hand of a God who wills your good & His glory." Would Calvin say this? I will argue yes. Yes he would. Calvin did say many things to this effect, near verbatim. But, I will demonstrate that what Calvin would mean by this is not what John Piper would mean, and this can be attributed to their competing doctrines of providence, different pastoral interests, and Calvin's awareness of his own limitations, an awareness that, ultimately, Piper lacks.
「キリスト者よ。あなたに今日起こる事柄で、主権者なる神の御手により、善とご自分の栄光とを意図してなされること以外は何もない。」果たしてカルヴィンはこんなことを言っただろうか。イエス。カルヴィンは殆んどこの言葉通りのようなことを何度も言っている。しかし私はカルヴィンがこのように言ったからと言ってそれがジョン・パイパーが解釈しているような意味ではないことを示す。パイパーの間違いは多分カルヴィンの対立する摂理論、牧会的配慮、そして彼自身の限界の自覚から来るものであると言える。その自覚が結局のところパイパーに欠けている点である。と言うわけです。
「神の主権と摂理」に関するかなり込み入った神学的義論、特にこの点に関するカルヴィンとカルヴィニストたち(ジョン・パイパーがその主たる矛先ですが)との違いに関心のある方は是非一読ください。
※それにしても一神学生のブログなのに結構力入っていますなー・・・。
2011年2月14日月曜日
政治と宗教
先日は土曜日定例の「明日の礼拝案内」をすっかり忘れてしまいました。
と言うわけでブログ更新に二日も空いてしまいました。
ところで政治と宗教と言う一般的な話題ではなく、時事ネタです。
既に昨年「欧米キリスト教文明は一神教だから」云々で話題になった小沢一郎氏ですが、また似たような発言をしたそうです。(産経新聞2011.2.14 15:52、リンク)
そんな発言を取り上げてどうするの、と言う疑問をお持ちになられる読者も多いかもしれませんが、やはり公的立場の人の発言としてちょっと分析してみても宜しいのではないかと・・・。
①地球規模の人類のテーマ
国際問題としてグローバル経済化や環境問題、水や食料などの資源枯渇問題を想定しているのだろうか。
このような国際問題の解決に「欧州文明は限界に来ている」とはそもそもどういうことか。
欧米各国は依然としてリーダーシップを発揮する場にあるではないか。
政治的リーダーシップを発揮する基盤となるのは宗教ではないことは殆んどの欧米諸国が世俗国家であることから明らかではないか。
むしろ民主主義政治の熟成度とか、公共理念の明示性、公共政策の具体性、などが問題になるのであって、「キリスト教が一神教であるか、多神教であるか」とは直接関係がないと思うのだが。
②日本(人)は21世紀のモデルケースになれる
このような発言に見え隠れするのは「日本単一民族社会・国家」のような発想ではないか。
欧米諸国に比べ日本国家は他民族に対し排他的(移民政策)ではあると言え、マイノリティーとして複数の民族がある程度の数で日本社会に根を張っている。
もし日本が国際問題解決のリーダーシップを取りたいなら、もっと地元で多民族社会としての共生に関する理念や方向性を示すべきではないだろうか。
目下のところ日本の国際政治発言力は依然として日本の経済力に依存するところ大ではないだろうか。
一体日本を国際社会のモデルケースとして見ている国はどれだけいるだろうか。ちょっと疑わしい。
そもそも小沢氏のキリスト教に対する発言自体が、日本社会にあってマイノリティーであるキリスト教に対するデリカシーを欠いている。(昨年の発言後のキリスト教連合会の抗議声明に対し礼を弁えた釈明はしなかったと見受ける。)
宗教に対する寛容、信教自由に対する見識は、宗教に関して「いい加減で融通無碍」な歴史を持つ国では余り信用できない。機会主義的、日和見主義的政策を取る可能性の方が強いのではないか。
と言うわけでブログ更新に二日も空いてしまいました。
ところで政治と宗教と言う一般的な話題ではなく、時事ネタです。
既に昨年「欧米キリスト教文明は一神教だから」云々で話題になった小沢一郎氏ですが、また似たような発言をしたそうです。(産経新聞2011.2.14 15:52、リンク)
マスメディア上での「政治家の宗教に関する発言」は多分に厳密な定義や認識に拘泥するものではないことが多いので、この発言もどちらかと言うとやはり放言の部類でしょう。小沢氏「一神教の欧州文明は限界」
民主党の小沢一郎元代表は14日、都内で開かれた自らが主宰する「小沢一郎政治塾」で講演 し、今後の国際社会に関し「キリスト教は一神教だ。欧州文明は地球規模の人類のテーマを解決するには向いておらず、限界に来ている」と指摘した。一方で 「日本人は他の宗教に非常に寛容だ。悪く言えばいい加減で融通無碍だが、うまく伸ばしていけば21世紀社会のモデルケースになる」と述べた。
そんな発言を取り上げてどうするの、と言う疑問をお持ちになられる読者も多いかもしれませんが、やはり公的立場の人の発言としてちょっと分析してみても宜しいのではないかと・・・。
①地球規模の人類のテーマ
国際問題としてグローバル経済化や環境問題、水や食料などの資源枯渇問題を想定しているのだろうか。
このような国際問題の解決に「欧州文明は限界に来ている」とはそもそもどういうことか。
欧米各国は依然としてリーダーシップを発揮する場にあるではないか。
政治的リーダーシップを発揮する基盤となるのは宗教ではないことは殆んどの欧米諸国が世俗国家であることから明らかではないか。
むしろ民主主義政治の熟成度とか、公共理念の明示性、公共政策の具体性、などが問題になるのであって、「キリスト教が一神教であるか、多神教であるか」とは直接関係がないと思うのだが。
②日本(人)は21世紀のモデルケースになれる
このような発言に見え隠れするのは「日本単一民族社会・国家」のような発想ではないか。
欧米諸国に比べ日本国家は他民族に対し排他的(移民政策)ではあると言え、マイノリティーとして複数の民族がある程度の数で日本社会に根を張っている。
もし日本が国際問題解決のリーダーシップを取りたいなら、もっと地元で多民族社会としての共生に関する理念や方向性を示すべきではないだろうか。
目下のところ日本の国際政治発言力は依然として日本の経済力に依存するところ大ではないだろうか。
一体日本を国際社会のモデルケースとして見ている国はどれだけいるだろうか。ちょっと疑わしい。
そもそも小沢氏のキリスト教に対する発言自体が、日本社会にあってマイノリティーであるキリスト教に対するデリカシーを欠いている。(昨年の発言後のキリスト教連合会の抗議声明に対し礼を弁えた釈明はしなかったと見受ける。)
宗教に対する寛容、信教自由に対する見識は、宗教に関して「いい加減で融通無碍」な歴史を持つ国では余り信用できない。機会主義的、日和見主義的政策を取る可能性の方が強いのではないか。
とまあー、大したことは書けませんでしたが、日本国家がリーダーシップを発揮できるようになること自体には反対しません。
ただし人と人との関係同様、国と国との信頼関係を築くことが先決問題でしょう。
そうすると小沢氏も対内的な政治的発言ではなく、対外的な発言として海外のメディアに今回と同じ内容の意見を堂々と表明してみては如何でしょう。そしてヨーロッパ諸国首脳から何らかの反応を得てみては如何でしょう。
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